第七話『救済の花は血に染まる』①
四十五年間――本当に"良い人生"を送れたと思う。
両親の愛情と財産にも恵まれ、良い教育を受けさせてもらった。
学校では良き友達、職場では良き同志にも恵まれた。
青春時代と大人の恋愛も自分なりに楽しんできた。
縫製屋を営んでいた祖母の影響、手先の器用さもあり、私は裁縫の技術を磨けた。
やがて名高き"人形師"になれた私は、人々に愛される人形を多く創った。
人生に満足した私には何の悔いもない。
ただ残っているのは――。
「――こんばんは、ドロレス・オルテンシア様」
月明かりのみが降り注ぐ夜闇の室内に、招かれざる客の声が響いた。
扉側に背を向けて、窓際に腰掛けていたドロレスは緩慢と振り返る。
月明かりの紫陽花さながら、美しくも寂しげな微笑みを湛えて。
「あら、ようやく来てくださったのね。あなたが私を解放してくださる"死神"かしら?」
死神に相応しく、声の主は頭から爪先まで真っ黒い外套で覆われている。
ドロレスの反応を伺っているのか、黒い人影は闇のように沈黙したまま歩み寄る。
「あら、そんなことをしなくたって私は逃げませんよ。その子には何の罪もないのだし」
黒い影が片手に抱えているのは、ドロレスにとって彼女が賞を取るきっかけと栄誉を授けてくれた人形だった。
何も知らぬ他人から見ればたかが人形だが、ドロレスの手がけたそれは彼女にとってだけでなく、愛好家にとっても稀有な価値が付くものだ。
人形はドロレスの逃げ場を奪う為の人質になったが、どの道彼女には逃げる意思すらなかった。
黒い影は未だ沈黙したままだが、ドロレスの落ち着き払った態度の理由を知りたがっているようにも窺えた。
相手の意図を察したか否か、ドロレスは憂いを秘めた微笑みをたたえたまま、ゆっくりと語り始める。
「私はね、人形師として生きてきたわ……それで私は幸せだったの……」
「……」
「願わくば、人形師として……人形師のまま……死にたいと思っているの……」
熱に浮かされた口調で断言したドロレスに、黒い影はじっくりと耳を傾ける。
黒い影の右手の中で怪しく灯る銀の輝きに魅せられた眼差しで、ドロレスは悠々と打ち明ける。
私はね今の生活が最も“幸せ”で気に入っているの。
人形師として大量の愛らしい人形我が子達を、時間かけて丁寧に創り上げるのも。
私の人形達を手にたくさんの子どもが笑顔になり、愛好家達に価値を肯定されるのも。
栄誉あるルピナス賞を授与されたプロの人形師になれた私を誇りに思ってくれる年老いた両親も。
青春時代と恋愛の思い出に耽りながら、手を動かすばかりの日々も。
できれば、この穏やかな日々がいつまでも変わらないままでいてほしい。
けれどね。
「現実には“時間”という絶望がひしひしと迫るものなのよね」
「……」
「最近ね……遠くだけでなく近くもよく見えないの……指先も前よりやたら震えるし……腰も痛くてね……最近、母が家で転んで……杖が離せなくなったしね……ここまで聞けば、あなたなら理解してくれるはずよね?」
ドロレスの告白に秘めた"願い"を察したか否か、黒い影はただ沈黙を貫く。
黒い影は右手に握り締められた銀のナイフを懐に納めた。
代わりに懐から白い錠剤の入った小瓶を取り出す。
途端、ドロレスの紫の瞳は歓喜に煌めいた。
「まあ、お優しいこと……これで、ようやく私も……」
死に魅せられたドロレスにとっては甘美な粒の入った瓶に向かって、彼女はそっと両手を伸ばす――。
「お取り込み中、失礼いたします」
凛とした声が闇に澄み渡ると同時に明かりが灯る。
白光に満ちる室内を咄嗟に見渡したドロレスが捉えたのは、この場にそぐわない少年の姿だった。
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