『昇り藤の落花』③
聖なる紫の藤は月夜に揺蕩う。
雅やかな懐かしい香りを振り舞う。
天地の命を慈しみながら。
けれど三夜前からは、普段と変哲のないはずの聖域の景色も香りも変容した気がする。
原因は隣で同じように横たわっている存在にもある。
「大丈夫? 随分とうなされていたみたいだけど……」
「何でまた一緒に」
いつの間にかうたた寝してしまったらしいタチアナは、夜の寝台の上で目覚めた。
恐らくアレクセイがタチアナを運んでくれたのだろう。
素直に有り難くはあるが、同時にアレクセイの顔が間近にある距離にも戸惑いを隠せない。
二人は同じ寝台の上で見つめ合う向きで、手を伸ばせば触れられる位置に横たわっている。
「もしかして、ずっと目が覚めるのを待っていたの?」
「別に……僕も途中で眠くなって、さっき起きたばかりだよ」
本当のことらしく、漆黒の長髪には軽い寝癖がついており、手に口を当てて欠伸をしている。
普段は大人びている分、どこか無邪気なアレクセイの姿に、タチアナの気が緩むのも束の間。
「それよりも、どうしてまた"ここ"にいるの?」
淡い藤色の寝台に腰掛けたままのアレクセイに眉をひそめる。
夜の帳が降りた聖域内こそは、タチアナが本当に一人きりになる空間。
しかし、目の前には護衛役のアレクセイが夜の聖域の、しかも聖女と同じ寝台にいつまでも居座っている。
明らかに異常な状況にタチアナは三日前と同様に抗議を示す。
「言ったはずだよ。タチアナが一人で突っ走らないように見張っているんだよ」
冷然と正論を零すアレクセイに図星らしく、タチアナは一瞬口を噤むが、精一杯の苦言を零した。
「でも、だからって、何も夜中までいることはないじゃない。それに、どうして寝台で眠っているのよ」
「床と椅子はさすがに硬いし、それに……目を離した隙に、またこの間みたいに"夜遊び"しないように必要なことだ」
「そんなことは……っ!」
しない――そう言いかけたタチアナの脳裏に、あの赤い瞳の微笑みと甘い声が蘇る。
アザレアストリート事件の夜以降、タチアナはイヴァンと逢えていない。
最たる原因は"護衛"という名目で、“二十四時間”タチアナに付き添うアレクセイだ。
外出時は当然、城内どころか夜の聖域内にも立ち入るようになったのだ。
しかも告げられた通り、夜もタチアナが未だイヴァンと城を抜けないよう監視してくる。
アレクセイがいると分かってか否か、夜の聖域内へイヴァンが訪れる気配すらなくなった。
イヴァンとはまた落ち着いて話したいこともあるし、何よりも……。
「そんなに会いたいの? あの男に」
イヴァンへの恋しさに燻った胸を押さえるタチアナを、アレクセイは氷の視線で突き刺す。
「そんなことは……っ」
「タチアナは嘘が下手くそだね」
慌てて否定するタチアナだが、嘘を付けない彼女の性格は見透かされている。
不意にアレクセイに両手を掴まれ、目線を真っ直ぐ合わせられる。
淡い空色に宿る鋭い光に、タチアナは本能的な恐怖すら覚えた。
「これからはもう、君から目を離さないし、あの男の所にも行かせない」
「どうして……そこまで……」
「僕にもよく分からない……けれど、あの男と一緒にいる君を見ていると……堪らなく苛立つんだ」
「え……?」
茫様としていたはずのアレクセイが発した力強い響きに、タチアナは困惑と共に率直な疑問を示す。
出逢ったばかりのアレクセイは、冷静沈着で大人びている印象だった。
タチアナの護衛に関しても、あくまで仕事の一つであり、そこに特別な感情を入れたりはしない。
だから、最初は冷たい少年だと思った。
けれど、今は一緒にいる内に、聖女という肩書きや立場に囚われず、タチアナと対等に言葉を交わしてくれるアレクセイを信頼もしていた。
それが今、表情は冷たいままだが、手や声に感情的な力を灯している。
聖女として不適切な行動を取ったタチアナを咎めるのは、未だ理解できる。
しかしイヴァンに対する感情が"苛立ち"であり、その理由がタチアナの中でイマイチ繋がらなかった。