『聖女様と僧侶と』②
イヴァンはタチアナの願い事を叶えてくれる"魔法使い"のような人。
こうして毎夜タチアナを迎えに参り、"夜の世界"へ導いてくれる。
真昼間とは異なる妖艶な輝きを魅せる“夜の景色”を見せるために。
「まあ、綺麗――……」
弓形の橋に並ぶ朱色の欄干に手を添えて佇むタチアナは、恍惚とした溜息を零す。
橋の下で連なり咲いている桜の樹々は、淡い提灯と満月に照る。
朧げな夜灯りに輝く桜の幻想的な美しさ、街の煌めきを映す運河の音色は、チェリーストリートの名物だ。
今まで夜の街中に出歩いた経験がなかったタチアナの瞳には、尚も眩く灼き付いている。
「写真でしか知らなかったチェリーストリート・夜の桜景色を直接見られるなんて」
今にも身を乗り出しそうな勢いで景色を眺めている無邪気なタチアナに、隣のイヴァンも頭巾の下から穏やかに微笑む。
タチアナの御身を隠し護るために羽織られた藤色の外套は、イヴァンが彼女に貸してくれたものだ。
花酒さながら甘くも艶やかな香りと声に、イヴァンに包まれているような錯覚に陥りそうになる。
「こちらに住む民は毎夜この夜桜を眺めながら、東洋の酒を嗜んでいるのだとか」
「そうなのね。私お酒は飲んだ事ないからよく分からないけれど……例えるなら、花園のお茶会の夜みたいなものかしら」
タチアナの返答があまりに無邪気だったせいか、イヴァンの艶やかな唇からもクスクスと無邪気な笑みが零れた。
「それに近いですが……お酒は茶葉とはまた異なる格別な風味がありますよ……今度はタチアナにもおすすめのお酒を差し上げます」
「本当? 私でも飲めるのかしら」
「ええ、果実のように甘くも、花のように芳醇な……あなたにピッタリのお酒がありますので」
ただ甘いだけじゃない、蕩けるような陶酔の味は、きっと心地良いのだろう。
未だ口にしたことのないお酒の甘美な風味と舌触りを想像し、タチアナは思わず息を呑む。
頬を薄桃色に染めながらうっとりと思い耽るタチアナの背中へ、イヴァンは両手を回す。
イヴァンの温もりに抱擁されたタチアナの胸は、意図せず甘く高鳴る。
「しっかりと掴まっていてくださいね、タチアナ」
そのままタチアナを横抱きにしたイヴァンは、橋の上から屋根を飛び越えてゆく。
満月の下で優雅にワルツを舞うように。
イヴァンの長身痩躯からは想像できない力強さと身のこなしに、タチアナは毎夜感心させられている。
イヴァンの温もり越しに吹き込む微風の涼しさと夜の香りは、心地良さと名残惜しさを与える。
「では、またの夜に会いましょう、タチアナ」
イヴァンの手によって、タチアナは無事に聖域へ送り届けられた。
イヴァンは夜に訪れては、タチアナを聖域から夜の街へ連れ出し、必ず帰してくれる。
紳士らしいイヴァンの優しさに安堵を抱く一方で、タチアナは別れの度に小さな喪失感に陥りそうになる。
「そんな表情をしないでください……でないと」
タチアナの名残惜しい気持ちを察してか否か、イヴァンは困ったように微笑みながら耳許へ囁いてくる。
「このままあなたを"攫って"しまいそうになりますから……」
からかうような状況でありながら、真実のように深みを帯びた低い声色に、タチアナはびくりと肩を震わせた。
「申し訳ありません。冗談……ですが……半分は本音の冗談ですね……」
イヴァンも我ながらおこがましいことを言ったと自覚してか、静かな焦りを滲ませる。
一方のタチアナは誤解のないように慌てて首を横振りするが、返事に困窮してしまう。
そんなタチアナの気まずさを紛らわすかのように、イヴァンは思い出した様子でマントの懐を探った。
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