『空色の少年』④
「アーリャのせいよ……あなたは変わっているわ……っ」
「タチアナも大概変わっていると思うけど。初対面の僕にやたら気安かったり、聖女だけど夜遊びしに行ったり、無防備だし」
「いいえ、アーリャの方が変よっ。だって……っ」
「だって……何?」
夜遊びもタチアナにとっては、決してアレクセイが考えているようないかがわしいものではないが、脱走という事実は否定できない。
気安い、という風に見なされていた事にも、内心ショックを受けていた。
アレクセイにとって、タチアナのあいさつも話しかけも、護衛という任務を超えた共同調査も"馴れ馴れしいもの"と迷惑に思っていたけど、立場上仕方なく従っていただけなのか。
残念なことにアレクセイの言葉を否定できる根拠も上手い説明も咄嗟に用意できず、ただタチアナは言い張るしかなかった。
しかし、いざ本人を前に詰められると、タチアナは火が沸きそうなほど熱くなった。
煮え切らないタチアナの態度に、アレクセイは「ああ」と思い出したように呟き――。
「――あっ」
パチンッ――と渇いた音に気付いた時には既に遅かった。
白い左頬は仄かに赤みを帯び、白い手のひらにはジンとした痛みが痺れていた。
「ごめんなさい、私……っ」
「……」
タチアナはアレクセイを平手打ちしてしまった。
アレクセイはタチアナのうなじに手を回した瞬間、ゆっくりと顔同士を引き寄せてきた。
反射的にとはいえ、初めて人を叩いてしまった衝撃は、タチアナへ凄まじい罪悪感を生んだ。
当のアレクセイは叩かれた左頬を庇う事もせず、タチアナを静かに見つめている。
「やっぱり君の方が変だよ」
「だって、あなたが!」
「何で僕に謝るの? 叩かれて当然の事をしようとしたのに」
「それは、許さないけど……暴力はいけないことよ……」
「でも、好きなのかよく分からない男の人とは口付けできるんだ?」
「イヴァン様はよく分からない人ではないわっ。昔から見知った仲で……」
「ふぅん。聖女様を夜に連れ回す僧侶なんて十分怪しいけど」
「イヴァン様は優しい良い人なのよっ」
アレクセイの挑発的でタチアナを怒らせようとしている台詞に、彼女は意図せずムキになる。
アレクセイの言う事も理解できなくはないが、タチアナとしては彼の真意がまるで読めない。
「私、あなたの方がよく分からないわ。どうして、あの時も私に……」
アザレア公園でイヴァンと別れた後に合流したアレクセイに口付けをされた感触が蘇る。
ただ触れるだけの優しい口付けでも、アレクセイの温かな血の巡りを感じ取るには十分で……。
タチアナの問いかけの意味を察したアレクセイだが、またしても無感情な眼差しを向けるのみだった。
「さぁね。僕だってよく分からないのに、尚更分かるわけないよ」
「どうして……? 自分の事なのに」
「僕に僕が分かるわけないんだ――だって」
冷たい空色の瞳に小さな波紋が広がったような気がした。
波紋した感情はタチアナにとっても馴染み深い色をしていた。
虚ろな表情と眼差しに、タチアナも胸がさざめき、彼に湧いていた怒りがスーッと冷めていくのを感じた。
「僕には"何もない"から――本当の家族も――昔の記憶も何もかも――」
他人事のように言い放たれた事実に、タチアナは暗く冷たい海に沈められたような衝撃を覚えた。
同時にアレクセイの不思議な言動や、年相応の少年らしくない寂しげな雰囲気の理由を悟った。
*