『アザレアナイト』⑧
アザレア店内の照明が落ちた瞬間に、アレクセイは決して見逃さなかった。
カテリーナの背後に迫る黒い人影が、彼女へ銀のナイフを刺し込もうとする瞬間を。
アレクセイは駆け付けると同時に、鞘から抜いた和刀をナイフへ突き付けた。
不幸中の幸いか、アレクセイの放った斬撃はナイフの刃先を背中の急所から逸らす事に成功した。
しかし、アレクセイの計算ではナイフを弾き防ぐつもりが叶わず、カテリーナに血を流させてしまった。
しくじってしまった己の未熟さを痛感する中、アレクセイは窓ガラスの割れた音を聞き、颯爽と駆け出した。
「逃げられたか……」
煙幕を払いながら気配を頼りに犯人を追いかけたものの、見失ってしまった。
影のシルエットと体格からして長身痩躯なのは確認したが、暗闇のせいで服装も顔も判別できなかった。
随分と逃げ足も早く、アレクセイの斬撃にも耐えた事から、犯人は相当の手だれだと思える。
「じゃあ、報告をお願い」
「オマカセ、クダサイ」
伝達用の白鳩へ語りかける。
部下達への報告の旨を伝え終えると、白鳩は夜空へ羽ばたいた。
ウィステリアには、伝達鳥として意思疎通が図れるよう訓練された白鳩が用いられる。
ウィステリアには電気文明が発展してはいるが、各担当の伝達鳥を使うのがより確実で乗っ取りの心配がないらしい。
本当に便利な鳥がいたものだ。
そういえば、タチアナは大丈夫なのだろうか。
一段落着いたアレクセイは、店に置いてきたタチアナの存在を思い出す。
隣にあの謎の僧侶がついているから事件に巻き込まれはしていないだろうが。
しかしアレクセイは、胸の内に別の心配が渦巻いているのを自覚できていない。
いつの間にかアザレア公園まで来てしまったアレクセイは、早々に店へ戻るべく駆け出した。
「イヴァン様――」
鮮やかなアザレアが夜風に咲き舞う道の真ん中で、アレクセイは見てしまった。
タチアナが隣にいた男と――口付けを交わしている光景を。
途端、体の末端が冷え渡り、代わりに心臓から頭の天辺へ昇った血が沸騰するような感覚に襲われた。
一体、何なんだ、これは。
気付けば考えるよりも先に手足が動いていた。
まるで、自分であって自分ではない意思に操られたかのように。
謎の僧侶だけは先にアレクセイの存在を察知していたらしく、一瞬目が合った時点で、タチアナからそっと離れた。
アレクセイがタチアナへ触れる寸前に、夜闇へ溶けるように消えてしまった。
「何してるの――タチアナ」
アレクセイに肩を掴まれるまで気配に気付いていなかったタチアナは、弾かれたように振り返った。
ひどく驚いた顔を赤く染めたタチアナと瞳が合う。
またしても初めてみるタチアナの恥じらっているような姿に、アレクセイは腹の底が煮えくり返るのを感じた。
「アーリャ!? 無事、だったのね? よかった……あなたもここに来ていたの……?」
最初に出たのが自分を案じてくれる言葉だったのに、一瞬でも絆されそうになるが、アレクセイ自身はそれを許せなかった。
「……早く城に帰るよ」
「あ……そう、ね……」
アレクセイに手を強く引かれて、言い放たれた言葉に、タチアナは戸惑いながらも素直に応じる。
タチアナですら冷ややかな声色に手の力強さ、一向に目を合わせない様子からアレクセイの怒りを感じ取れた。
どうしよう……。
タチアナ自身、軽蔑されても仕方のない事をした自覚はある。
せっかくアレクセイは護衛として傍についてくれて、仕事も頑張ってくれていたのに、当の自分は……。
規則を破って城を抜け出し、酒場に行って浮かれ、さらには家族や関係者以外の男性と一緒に夜を出歩いた。
アレクセイの言う通り、不良で聖女に相応しくない女性の護衛なんかもう御免と思っているかもしれない。
けれど、タチアナもいけない事だとは心のどこかで理解していながらも、イヴァンとの秘密の邂逅と夜の冒険を止められなかった。
自覚していながらただ謝罪するのも、なんか違う気がし、他に言葉が見当たらない。
「……」
「……」
氷のように冷たく重い沈黙の中、タチアナはアレクセイによって秘密裏に城へ連れ戻された。
アレクセイが事前に預かっていたらしい鍵で扉を開くと、無人の聖域が目の前に広がる。
アレクセイはタチアナと繋いだ手を離さないまま、無言で聖域内を歩き始める。
タチアナを無事聖域へ送り出した以上、アレクセイは彼女にもう用はないはずだ。
恐らく聖女としての不徳を冒したタチアナへ説教をし、罵るつもりなのかもしれない。
タチアナはアレクセイからのいかなる罵倒も軽蔑も覚悟した、はずだった。
「あの男の人とは、一体どういう関係なの?」
「え?」
「まさか"恋人"なの?」
アレクセイの唐突な問いかけに、予想しなかったタチアナはまた違う動揺を表した。
"恋人"とは何を示すのだろうか。
おとぎ話とかで読んだ"恋人"の意味は一応理解できる。
けれど、タチアナとイヴァンの奇妙な関係は果たして何なのか、彼女自身も上手く説明できない。
「それは、違う……と思う……」
「なら、"好き"なの? あの男の人が」
「え……っ!?」
立て続けに投げられた衝撃的な問いかけに、またしてもタチアナは動揺を抑えられなかった。
イヴァンの事は、当然心から慕っている。
一人でいる事の多いタチアナの傍に、物心ついた頃から寄り添ってくれた。
タチアナに昼間とは異なる鮮やかな夜の世界の美しさを見せてくれた。
タチアナの知らない外の世界や知識についても、色々と教えてくれた。
さらには、タチアナの信仰する"女神様の奇跡"の体現たる魔法、とその知恵から生まれた薬によって、彼女とその姉すら救おうとしてくれる。
恩人や友人、兄といったものが近しいが、どれも完璧にははまらない。
何故なら、いつもタチアナとイヴァンが交わす口付けは、決して友人や兄妹等とする類いのものではないからだ。
だからこそ、タチアナはイヴァンに対する想いを"好き"という言葉で軽々しく表す気にはなれなかった。
「アーリャは分かる……? "好き"って……何なのか……っ」
それは純粋な疑問から零れた問いかけだった。
聖女は将来決まった誰かと婚姻を結ぶのが習わしであり、自由恋愛もそれによる結婚も原則許されないのだ。
だからタチアナは知らないし、できれば知りたかった。
けれど、タチアナは分かっていなかった。
「僕に分かるはずない――」
アレクセイにとって、その問いかけはどれほど残酷だったのかを。
片手を繋いだまま前を向いていたアレクセイは急に振り返る。
「だから――」
アレクセイの忘却の底に眠っていた感情を呼び覚ましてしまった事を。
アレクセイはタチアナのもう片腕を強く引き寄せる。
両手を繋がれたタチアナの目の前に、柔らかい漆黒の闇が広がる。
「教えてよ――」
霞太陽に照る空を映したような瞳が浮かぶ。
けれど、儚げで綺麗だと感じられた空色が瞼に閉じられた時は、名残惜しいと思ってしまった。
雲のように淡く、太陽さながら眩い唇の温もりを感じる中――。
***