『アザレアナイト』④
「邪魔なのは、お前だよ――おじさん」
岩めいた汚い手がタチアナに触れる寸前――。
突然店の扉が気配もなく開き、入ってきた客人にほぼ突き飛ばされる形で、青年は前のめりに倒れた。
「痛ぇ!! 誰だてめぇ……痛っ!」
「さっさとどいてくれない? お前こそ道を塞いでいるんだけど。さっきから、ずっとやかましいし。出ていく方がいいよ」
酒場に不相応な、あどけなくも低く澄んだ声が冷たく響き渡る。
漆黒の外套に身を包み、藤の紋様の首飾りを下げた相手は冷淡な溜め息を吐きながら、青年を踏み台にする。
「このクソガキ……よくも……!」
「僕は出ていく方がいいって言っているんだけど。これ以上、痛い目に遭いたく無いなら、ね」
鼻の頭をさすりながら起き上がった青年は相手の少年をまくしたてる。
しかし、少年は眉一つ動かさず、虫ケラを眺めるような眼差しで淡々と警告する。
「なんだと!!」
少年の見下すような態度に我慢ならなくなった青年は、ついに拳を振り下ろした。
「それが分からないほど頭悪いなら、仕方ないね」
しかし、青年の拳は少年の肩をすり抜けたように宙を舞った。
同時に少年が一歩前に出てすれ違った瞬間、青年は勢いよく尻餅を付いて倒れた。
さらに奇妙な事に、青年の帽子と上着が葉っぱのように破れ散り、上半身が露わになっていた。
瞬く間の出来事と青年の変化に、傍観していた客店員もタチアナも呆然とする。
一方涼しい表情を崩さない少年の手を凝視すると、いつの間にか抜いていた刀を腰の鞘に納めていた。
「こういうこと。分かったなら……」
「「「「「さっさとこの国から出ていってもらいますよ――"不浄者"よ」」」」」
少年の言葉に続いて、彼の背後に潜んでいた人間数名も不敵に言い放ちながら、入店する。
彼らの内、四名は警察二人と警備司祭二人、そしてもう一人は奇妙な事にオペラ歌手を彷彿とさせるドレス姿の美しい女性だった。
女は丸腰だったが、警察二人は拳銃、警備司祭二人は杖、そして唯一少年は和刀を手に持って、青年へにじり寄ってきた。
「そうだ……"不浄者"はこの国にいる資格はない……俺たちの街……俺の店から出ていけ……」
「この国、この街、この店は……"私達"が守るのよ……」
「そうだ……俺たちで守るんだ……」
「私達も力を貸します……」
彼らの言葉に触発された様子で、これまで立ち尽くしていた店主夫婦も目と手足に力を宿す。
店主は猟銃、妻は包丁と鍋を手に幽然とにじり寄ってきた。
周りの客人も想いが伝染した勢いで次々と立ち上がり、ナイフやフォークから鎌、楽器、杖、鞄など武器になりそうなものを手に青年を追い詰める。
「あれは……一体……」
「この目でよく見ていてください、タチアナ……」
一方タチアナは、周りの注意が少年達へ注がれていた隙に、イヴァンに手を引かれ、物陰に隠れていた。
"不浄者"の意味を理解しているとはいえ、初めて目にする異様な光景に少しだけ動揺を隠せないタチアナ。
タチアナを後ろから抱きしめながら、イヴァンは表情の読めない声で静かに囁いてくる。
「これがこの国……"不浄者"の末路なのです」
警察だけでなく自分を恐れていたはずの客や店員も一斉に武装し、自分を目と足で追い詰めようとしている。
たった今ここで"不浄者"の烙印を押された自分を国から追い出す、ただそれだけのためだけに。
彼らの眼差しは、穢らわしい害虫を追い払い、叩きのめし、"始末"するそれだ。
否、それ以上に冷え切っており、慈悲や憐憫は欠片も見られない。
彼らは本気で青年の手足を撃ち抜き、切り落とし、脳天を殴り潰し、目玉を抉り取ろうとするのではないか――。
「ひぃぃ……ごめんなさい……っ……今直ぐ出ていきますから……殺さ、ないでくださいぃ……」
四方を囲まれ、逃げ場を失った青年は、ついに頭のてっぺんまで恐怖に凍りついてしまった。
ついに謝罪と許しを乞いながら土下座し、涙と鼻汁を垂れ流す青年の態度に、またしても重い沈黙が流れ――。
「なぁに。分かったならいいのさ――安心しろよ。この国では"いかなる理由の殺人"も禁じられているからな」
「ほんと、ですか」
「ただし、出たら最後――貴様は二度この国の敷居を跨ぐなよ」
かくして青年は、警察と警備司祭それぞれ二人に連行されていった。
このまま入出国門から摘み出され、この国への再入国許可は、ほぼ二度下りないだろう。
とはいえ、今回の件で十分懲りた青年も、もう一度この国へ遊びに踏み入りたいとは思わないはずだ。
「それでは気を取り直して皆様――我らの"ツツジ姫"カテリーナ様の歌とピアノ演奏を是非お楽しみください」
一方、店内に取り残された人達は何事もなかったかのように、ドレス姿の女性カテリーナと護衛らしき警察と警備司祭へ拍手を送る。
店内の隅に置かれたセピア色のアンティークピアノは、夜の演奏用らしい。
ツツジ姫による歌と演奏は予定していたものらしく、店内にいた客人と店員だけでなく、開いた窓と扉越しに聴きにくる者達も増えていく。
有名な人気歌手ピアニストの登場に、観衆は熱気とロマンに呑まれていく中、唯一真っ青な顔で冷や汗を流している少女――タチアナはいた。
「それで……これはどういうことか説明してもらおうかな? "悪い聖女様"」
先程まで騒動の渦中にいたが、ふと霞のように抜け出し、少女の元へ素早く近付いた少年――アレクセイは静かに問いかけた。
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