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『アザレアナイト』③


 「おまたせいたしました」


 ティー・アザレア。

 赤紫色のツツジを一輪飾ったカクテルグラスの中で、赤茶色に澄んだ液体が揺らめく。

 葡萄と苺のリキュールに毒抜きをしたツツジの花蜜で甘味を付けた、紅茶ベースのカクテル。

 確かに紅茶好きのタチアナにとってはたまらなく魅力的で飲みやすい、お勧めのお酒だ。

 店員の説明を一通り聞いたタチアナは、双眸を輝かせながらグラスに魅入る。


 「綺麗……これがお酒なのね……」


 「ええ……気に入っていただけたようで、よかった」


 「イヴァン様は何をお頼みになりましたか?」


 ウィステリア・フィズ。

 バイオレットフィズを藤の花に見立ててブレンドしたカクテル。

 ジンとソーダの刺激と爽やかな香り、紫水晶の輝きに添えられた藤の花びらが魅惑的だ。

 グラスを手にしたイヴァンは、タチアナを真っ直ぐ見つめながら、静かに囁いた。


 「いつも"あなただと思って"口にしているのですよ……」


 「? 今、何か」


 「いえ、失礼致しました。さあ、さっそく味わってみてください……初めての甘美な酒の味を……」


 意味が伝わっていない様子で、無邪気に首を傾げるタチアナに、イヴァンは安堵と落胆を含んだ笑みを浮かべる。



 「今宵は、私達の出逢いに"乾杯"を――」



 グラスを掲げるイヴァンに合わせる形で、タチアナも慎重にグラスを摘む。

 甘い胸の高鳴りを抑えられないまま、口元へ近付けたグラスをそっと傾ける。




 「てめぇ! ふざけんじゃねぇぞ!!」




 空気を裂いた怒号に驚いた客達は一斉に振り返り、タチアナは思わずグラスを落としてしまった。

 同時に向こう側からもグラスが激しく割れる音が響いてきた。


 「人の足を杖で殴っておいて、ごめんなさいで済むと思ってんのか!?」


 「そんなつもりは……わざとではありませんので……どうかご容赦を……」

 

 「そもそも、一人でまともに歩けねぇジジイが、こんな所に出かけんじゃねぇぞ!」


 仕切り越しに店内を覗いてみれば、扉付近で騒いでいる若い成人男性、会計場で財布の中身を散らばしてしまった老人がいた。

 大きな荷物を背負い、異国風の帽子と外套の身なりから、青年は入国したばかりの旅行者だ。


 二人の会話と状況から察するに、入店してきた青年の足に、勘定を済ませた老人の杖が偶然ぶつかったらしい。

 咄嗟に老人は謝ったみたいだが、青年はあまり優しい人間ではないうえに酔っているらしく、顔を真っ赤にして怒鳴り続けている。


 「てめぇみたいな老いぼれは、存在するだけで邪魔なんだよ。ちんたら歩いて車も人の道も塞ぐわ、人にぶつかるわ、勝手に一人で転ぶわ、周りに気を遣わせるわ、分かってんのか?」


 あんな言い方、なんて酷い……!


 旅の青年から容赦なく浴びせられる罵倒に、老人は反論の気力も奪われすっかり俯いて震えてしまう。

 傍で見ているタチアナも老人の立場を思い、涙を浮かべてしまう。

 タチアナへの心理的負担を考えたイヴァンはそっと彼女の方を抱きしめようとする。


 「大丈夫ですよ、タチアナ……ここは……っ!?」


 しかし、イヴァンの手のひらは宙を虚しく舞った。

 双眸を見開くイヴァンが呼び止める間も無く、前を歩き出したタチアナの行く先は――。




 「どうか、ご安心くださいませ、"お客様"――」




 老人の胸倉へ手を伸ばす寸前だった旅の青年に立ちはだかったのは、小さなタチアナだった。

 タチアナは頭巾を被ったまま、旅の青年に向かってニッコリと花の笑顔を咲かせた。


 「何だぁ、お前は」


 何の邪気も含まない可憐で淑やかな佇まいは、ほんの一瞬でも青年の怒りを削ぐのに十分だった。

 騒ぎの仲裁に入ったのが、少女のように無垢でありながらも、凛と肝の据わった女だとは誰が予想できたのか。


 「聖なるウィステリアへようこそ」


 「はあ?」


 「この国において、人は互いに助け合い、互いを認め合いながら"幸せ"を享受しております。

 我らの崇拝する女神ウィステリアも、そんな我々に祝福と恩恵を与えてくださり、

 今のこの"自由と幸福"の国を体現させてくださっているのです」


 最初はまくしたてていた青年も、タチアナの少女らしくない凛とした物言い、落ち着いた微笑みに圧倒されている。

 遠巻きに見ている他の客人や店員は、タチアナの正体に未だ気付いていない様子。

 偶々通りがかった女聖職者が有難いことに仲裁し、国と人の在り方を説いてくれていると思っている。

 通常の人間とりわけこの国民であれば、己の立場やこの国で求められる姿勢を直ぐに理解できるはずだった。


 「う、うるせぇよ。女聖職者の癖に生意気に説教するのか?」


 「いいえ。この国と人についてお伝えしただけのことですよ」


 「いいか! 俺はなぁ、さっき貴様の言っていた説教にちゃんと従って生きているんだよ!」


 「と申しますと?」


 「この国は"自由と幸福"の聖なる場所だと聞いて、俺は遠路遥々来てやったんだ。この国でなら、俺は誰にも指図されずに"やりたいようにやる"ことができるからよぉ!」


 青年の傲慢で身勝手極まりない発言と思想に、店内には一瞬重い沈黙が流れた。

 一方のタチアナは怒りも悲しみも波紋一つ浮かばない眼差しで、青年を静かに見上げる。



 「……それが、あなたにとっての"自由と幸福"なのですね」


 「ああ! その通りだぜ! 分かったなら、てめぇはさっさと引っ込んでろ……」



 タチアナの態度にようやくしおらしくなった、と思い込んだ青年は目障りな彼女をどかせようと剛毅に手を伸ばす。


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