『聖女様の独自調査』③
「こちらね。チェリーストリートにある……」
「ナルキッソス事務所だね」
今度はナルキッソス氏が経営していた貿易会社の事務所を訪ねてみる。
黒鉄色の瓦屋根が艶めく和式の一軒家は横に広く、碧々とした竹垣は格式がある。
職業柄、外国との交流も多かったナルキッソス氏は、特に和風色の濃いチェリーストリートと建造物を好んでいたのだろう。
桜の樹々に挟まれた建物の向こう側には、落ち花と共に運河が流れている。
「どうしたの? ぼんやりして」
「……何でもないわ」
爛漫とした桜の花びらが舞う街並みと運河は、タチアナに"彼"との夜桜の記憶を思い出させた。
昼明かりの下でひらめく桜も川の青さも雅やかだが、どこか物足りなさもある。
やはり彼と共に眺めた夜桜の川の艶と輝きは、瞳に焼き付いて離れない。
彼との時間は鮮やかなでありながらも、懐かしさに似た感覚を与えるのだ。
イヴァン様……今頃、何をして過ごしているのかしら。
昨夜も逢っていたはずだが、もう久しく顔を合わせていないような恋しさにふと駆られる。
今思えば、イヴァン様は夜桜にも見えるわ。
まるで夜にしかその姿を見せず、恐らく昼間には異なる姿を持つ花みたいな。
アレクセイに呼びかけられたことで我に返ったタチアナは、頭を巡っていた夜桜の余韻を振り払い、直ぐに事件調査へと心を切り替えた。
「ようこそ。よくおいでになられましたね」
事務員に案内されたタチアナ達は、ナルキッソス氏の執務室を訪ねた。
生前のナルキッソス氏は仕事熱心な人物だったのか、本棚には海外書籍や旅行関係の資料、珍しい調度品が森の様に揃っていた。
しかし、デスクや床に置かれた大量の箱、片付けられた資料や置物から、この部屋の末路は明白だった。
「事務所、畳まれるのですか」
「ええ……誠に残念ですが、ナルキッソス様がいなければ、我々だけでは成り立たなくて……」
「そうですか……」
「ああ、でもご安心ください。幸い、転職先の目処は大体ついておりますので」
残された数少ない社員達の気丈な微笑み、憂う暇なく手足を動かす健気さにタチアナも胸を痛めた。
先程と同様にタチアナが祈りを捧げる中、物静かだったアレクセイが口を開いた。
「ところで、ナルキッソス氏はお酒を好まれていたんですか」
「ええ、それはとても。見ての通り、外国の貴重な酒や煙草等もよく好まれていました」
アレクセイの視線を辿ると、煌びやかな金や宝石で飾られたグラスに入ったお酒も並べられている。
物珍しさからタチアナは棚に近付いていく。
背後でアレクセイは事務員と話をしている最中、タチアナは透明なガラスに囚われた琥珀色を見つめる。
これがお酒……色はどことなく紅茶に似ているけれど……。
「興味がありますか? そちらはウィスキーコレクション。様々な種類の蒸留酒です」
ウィスキーというお酒なのね。
紅茶のように甘い香りがするのかしら。
それとも、意外と渋みが強いのかしら。
色や香りにしても、紅茶とお酒の違いは未だ知らない。
けれどイヴァンは言ってくれた。
今度逢った時、タチアナにぴったりのお酒を飲ませてくれる。
そんな甘い約束を思い出しながら、タチアナはイヴァンのことを想った。
「ねぇ、アーリャはお酒を飲んだ事があるの?」
事務所を後にしたタチアナは、隣のプラムストリートを歩きながら問いを投げる。
アレクセイはあまり興味なさげな、淡々とした声色で答えようとする。
「あるけど……そんないいものでもないと思う。どうして?」
「そうなの? 私ねどんな味がするのか興味があるの。美味しいのかしら」
「そもそも聖女様は"聖水"以外の酒は飲んではいけないはずじゃなかった?」
「あ……そうよね……考えてみれば……ええ……」
「何落ち込んでいるの? 藤の花酒を飲めるだけでもすごいことだって聞いたけど」
"藤の花酒"――聖水とも呼ばれるそれは、成人を迎えた聖女と王族のみが飲む事を許されている。
儀式で清めた藤の花びらを含ませた透明な酒精の水は、禊や儀式の際に聖女や王族が口にする。
聖職者は魔除けや清めの聖水として使用するが、飲む事は許されていないらしい。
過去に藤の花酒を興味本位で飲んでしまった聖職者が逮捕され、破門の処分を受けた事件もあった。
中にはその聖職者と同様に羨む者もいるだろうに、目に見えて落胆しているタチアナに、アレクセイは肩を竦ませる。
「そんな気概で事件の真相を掴めるとは到底思えないな」
「いいえ、私は未だ諦めてもいないよ」
「どうかな? 君は未だ気付けていないようだけど」
「え?」
「ほら、次の目的地にも行くんだろ」
虚ろな空色の瞳に一瞬浮かんだ波紋を見逃さなかったタチアナだが、何の事か分からず首を傾げる。
それでも自分の手を引いて歩き出したアレクセイの足取りから、彼の意欲を感じ取れた気がするタチアナは嬉しくなった。
アレクセイ自身も事件の真相に興味を抱いていなかったはずが、その手がかりの断片に導かれているような気がした。
何よりもタチアナと共にいるようになってから、胸の奥が波打ち、頭の芯から音が鳴り響いているような感覚がする。
不思議とタチアナのことが気になってしまっている自分がいることも、アレクセイを内心戸惑わせる。
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