5.少女との別れ
本日5話目の投稿です。
少し短めです。
翌日、まだ日も昇らぬ前から、この家の住人が起き出す気配を感じた。
僅かな物音に目が覚めたが、昨夜は久しぶりに夢も見ず深く眠れて、スッキリとした目覚めだった。あの死にかけた程の衰弱も嘘のように回復した。改めて自分の頑丈さに呆れかえるほどだ。それでも、リーナに気を使わせるかと思い、彼女が家を出ていくまでジッとしていた。
どうやら早朝から外で仕事をするようだった。雨は上がっていて朝もやが出ているようだが、まだ村人は誰も起きる気配は無く、その朝もやの静寂の中を一人歩くリーナの後ろ姿を見送った。その背中はひどく小さかった。
一度起きると二度寝というものが出来ない性質で、カイルは家の中でも出来る運動をすることにした。リーナの父親の服は、少し大きいが、素材も動きを制限しないもので、恐らく父親が組織の戦士だったのだろうと当たりを付ける。動くには支障のない服だが、汗まみれにするのはしのびないので、上半身は脱いで身体を動かした。
しばらくするとリーナが帰って来たので、手早く汗を拭って服を着る。
そっと扉を開けようとして、リーナが居間で汚れた服を脱いでいるのが見えて、慌てて部屋に戻った。寝室を汚さぬようできた習慣だと思われるが、華奢な背中が妙に脳裏に焼き付いた。疚しい気持ちなどないが、その肌に刻まれた痣のようなものが見えて、余計に罪悪感で地面にめり込みそうになった。
怪我のようでもないが、腰にあるそれは、どことなく勇者の印にも似ていたせいか、やけに目についたのも否定できなかった。勇者の印は自分の腹にも勇者に選ばれた日にいつの間にか刻まれていたが、これは刺青のように刻もうとしても、何故か人の肌には刻めないもので、リーナのものは形も不鮮明であったし、おそらくどこかにぶつけてできた一時的なものだと思われた。
あまり時間は経っていないが、リーナが身支度を整えて部屋の戸を叩いた。必死に平静を装ってカイルが出ていくと、昨晩預けた服と身支度用の水の入ったたらいを渡された。服はどのような手を用いたのかカラッと乾いていて、その気遣いの細やかさに驚かされた。礼を言うと、本人は気付いていないようだが、嬉しそうに微笑んだのが少し寂しさを呼び起こした。
厚意に感謝を述べる。たったそれだけの当たり前が、この少女には当たり前ではないことが分かってしまったから。
部屋で着替えると、その心地よさに思わずため息をついた。何故、ここまでこの少女は他人に尽くせるのか。
少し、もやついた気持ちを整理して部屋を出ると、朝食の支度が整っていた。
パンと野菜がテーブルに並び、やはりそのささやかさにカイルは自分の糧食を追加する。目の前の少女に、少しでも滋養のあるものを食べて欲しかったからだが、今度は果物だけでなく、木の実を提供してしまったのはある種の誘惑に勝てなかったからだ。カイルは、木の実を食べるリーナをまたジッと見てしまっていた。
ささやかな朝食を食べ終えると、リーナと一緒に村長宅に出掛けることになった。リーナだけでは、また邪険に扱われて無駄足になりそうな気がしたのもあるが、村の様子も住人であるリーナと共に見たいと思ったのだ。
村の中を村長宅に行く途中で、幾人かの村人と出会った。予想通り、見たことのない余所者に対する拒絶だけではなく、リーナへの隔意を感じた。それをリーナが、カイルに申し訳なく感じていることも見て取れた。リーナに対する態度に、悪意にも似た感情があることに酷い違和感を感じる。
幼いと言っていい少女に、これだけの感情を向けられる何があったのだろうか。
程なくして村長宅に着くと、リーナは昨日と同じように戸口を叩き、来客があることを告げるが、やはり簡単には扉は開かなかった。しかし数度の声掛けの後、返って来たのは罵声にも近い金切り声だった。
わざとだと思われる勢いづいて開いた扉に、リーナがぶつかってよろけたのをカイルは難なく受け止める。初めて触れたリーナは、想像以上に軽かった。
戸を開けたのは村長の娘のようで、リーナがカイルを村長に取り次いでくれるよう話をするが、娘はリーナの話を聞いているのか怪しげな態度でカイルへ縋りつき、リーナを不要とばかりに扉の外へ締め出した。
扉が閉まる前に見えたのは、寂し気に小さく歪んだリーナの表情で、カイルが言葉を掛けようとすると、それを隠すかのように頭を下げたのだった。自分が出来るのはここまで、と声に出さずとも訴える態度だった。それが何故かカイルには無性に腹立たしかった。
そんな腹立たしさを増長させたのは、カイルの腕に絡みつく娘の存在だった。ラウラと名乗られたようだったが、カイルにはいつまで覚えていられるか分からなかった。
「御父上に取次ぎを頼みたいのだが」
娘が矢継ぎ早に自分のことを話すが、ほとんど耳に入らなかった。辟易してようやく娘の腕を外すと、用件を告げた。娘はわざとらしく「まあ、申し訳ありません。今すぐ呼んできますわね」と言って、居間らしい場所にカイルを案内してやっと離れて行った。
往々にして、自分の容姿に自信を持つ娘は、相手に触れることを躊躇しない傾向にあった。相手がどう思うかは分かり切っているとばかりの態度が明け透けに見える。確かに、世の中の大半の男はそうされて嬉しいのだろうが、カイルにとっては時と場所を選ばない行動は腹立たしいばかりだった。
ましてや、先ほどのリーナへの態度は、どう目を眇めて見ても酷いものだった。カイルにとって一宿の、いや命の恩人であるリーナへの仕打ちは当然不快なものだ。
それでも、この村にはこの村なりの理由があるのかもしれず、昨日今日来たばかりの自分にどうこう言う資格はないのは分かっている。それがどれほど腹立たしいことであっても、はっきりとリーナが助けを求めない限り、安易に首を突っ込んでいいことではないことは、経験上よく分かっているのだ。
それでも感情はそううまく割り切れない。
カイルが長い溜息をついたところで、居間の戸が開けられた。
「これは、ようこそわが村へ。遠い所を良くお越しくださいました」
娘と同じような文句で迎えたのは、この村の村長だという恰幅の良い男だ。辺境の難所を束ねる自負なのか、自信に溢れた雰囲気が滲み出ている。娘と同じ茶色の髪は少し薄くなっているが、眉目が険しくて年齢をほとんど感じさせない胆力が窺えた。
ただ、抜け目なくカイルを観察し、品定めしているのを隠しもしないのが疲れさせる。
「私はカイルと申します。この近くに『迷宮』があると聞いて調査に参りました」
「ほう、銀級ですか。私は王都以外では初めてお目にかかりましたよ」
カイルは組織の指輪を提示し名乗りをすると、村長もさすがに指輪を疑うことはせずに、途端に好意的になった。それでも、「たった一人で?」という嫌味を混ぜることも忘れていなかったが。
それからカイルは事務的に「調査」の協力を仰いだ。具体的には物資の買い付けの口利きと、迷宮までの案内人の紹介だった。もちろん物資は言い値で買い取るし、案内人にも十分な報酬を約束したが、何故か村長は言葉を濁して話の引き延ばしを始めた。
曰く、八年前に一度魔物が湧いた彼の場所を鎮めて以来、この村にまで魔物がやって来ることは無く、迷宮としての危険度は低い。銀級のカイルが調査する価値は無いのでは。迷宮周辺と森に徘徊する魔物を鎮めるだけでも足りるのでは、と。
それなのに、やれ夏の星降祭が近いから滞在はどうか、やれこの村の食べ物は豊富で美味いから堪能してほしい、などとカイルを引き留める話が続いた。
村長の隣には、依頼にはまったく関係のない娘がずっとついている。
そう言えば、この村には数年前に派遣した戦士が殉職してから、一人の戦士も組織から派遣されていなかったと記憶している。村長は、迷宮という不安要素を近くに抱えた上で戦士が派遣されない状況を恐れているのだろうか。それで、等級の高いカイルを懐柔して組織とのつなぎを期待しているのかもしれない。
「世話には私の娘たちを付けます。どうぞゆっくりと滞在なさってください」
さすがに一集落をまとめているだけあって、危険度は下がったと言っても迷宮への案内は只人には危険な場所だけあって、人員の調整があるからしばらく時間を貰いたいと言われれば引き下がるしかなく、とうとうカイルはここでの滞在を余儀なくされてしまった。娘たちと言うからには、この娘以外にも姉妹がいるのだろう。既に世話役気取りで娘がカイルの隣に席を移してきた。
少し腰をずらして娘との距離を取るが、この苦行をいつまで続ければいいのか。
いざとなれば、村人から方向だけでも確認をして出発してしまえばいいと考える。
それに、今の所それらしい兆候はないが、いつ何時呪いが始まるかもしれないと思えば、一所への滞在は避けるべきだ、とカイルは考えをまとめた。
リーナには一瞬たりとも呪いに触れさせたくはないが、この家の人間には少しくらいなら……と考えて、慌ててその思考を打ち消した。