2. 嵐の夜に
本日2話目です。
重い桶にたっぷりの水を入れて、井戸から村共同で飼う家畜のための水がめへ戻ろうとした道。何かに蹴躓いて、派手に転んで道に大きな水の染みを作った。
「あら、駄目ねぇ。そんなんじゃいつまで経っても水汲み終わらないわよ」
擦りむいて痛む掌を無視し、さっさと起き上がって井戸に戻ろうとする耳に、同年代の娘たちの笑い声が聞こえた。蹴躓いたのも恐らくこの娘の足だったのだろう。俯きながら足早にその場を去るが、後ろからはクスクスと笑う声が聞こえる。耳を塞ごうという気力もなく、ただ来た道を戻って同じ作業をするのに専念する。
朝暗いうちから、この日差しが強くなってくる時間までかけて、ようやく言いつけられた目標の量の水を汲むことが出来た。
瘴気の湧く大地にほど近い、人間の住める最果ての地の村で、リーナは誰にも頼ることが出来ない孤児だった。
今年の春に十八の成人を迎えたから正確にはもう孤児ではないが、ろくな栄養を取ることも出来ない身体は貧相で、とうてい年頃の娘には見えない。
パサパサとした麦わら色の髪を編んで一つに括り、清潔ではあるが、ボロ布一歩手前といった様相のつぎはぎの方が多いかもしれない服。日に焼けない青白い肌はカサカサとして、冬になれば指はあかぎれでいっぱいになる。
この村は、辺境とは言っても豊穣の女神に約束された地であり、山や森から受ける恩恵や豊かな大地が実りを欠かさないため、とても豊かな地で規模も大きかった。
その中にあって、リーナの様相は奴隷身分を疑うような惨憺たるものだ。
この村の司祭だった老人以外、誰もがリーナを「余所者」として扱う。
リーナがこの村に来たのは三歳になる頃のことで、リーナ自身はここを故郷と思っているが、村人はそうは思っていないのだ。
リーナの両親は、「自由組織」に所属していた戦士で、魔物の湧きを抑えるために請われてこの村にやってきたはずだったが、辺境で排他的な村人は、いくら両親の恩恵を受けようとも、「仲間」として自分たちを受け入れようとはしなかった。
それでもまだ両親がいた頃は、余所余所しくも人並みの扱いだったと思う。
それが、リーナが十歳の時、近くに「迷宮」が発生する事件があった。そこは、女神の足跡が残る泉のある遺跡だったのだが、突如として瘴気に侵されて、魔物が徘徊する「迷宮」となってしまったのだ。
その湧き出た魔物を抑えるため、両親は最前線に立って、魔物に殺された。
村人からは一人死者が出た。それを憤って、リーナの両親は「役に立たなかった」と言っていたが、リーナには訳が分からなかった。
両親はリーナの手元に戻って来た。遺体となって。今ではどのようにして帰って来たかは覚えていないが、魔物に襲われたとは思えない綺麗な姿だった。
さすがに遺体を放置されることはなかったが、墓を掘るだけで埋葬など誰も手を貸してくれなかった。唯一司祭だけは両親を弔って、死を悼んでくれた。司祭も他の街から来た人で、同じく余所余所しく扱われていたが、女神信仰の厚いこの地で、司祭という地位はおいそれと粗末に扱うことのできないものだったのだ。
何故、みんなあんな酷いことが言えるのか、と泣いて尋ねたリーナに司祭は、困ったような顔をしてゆっくりと聞かせた。
この土地は、大地と豊穣の女神の土地であり、農業や酪農に携わる人間は、女神の権能の恩恵豊かな職種だという意識がこの国にはあるらしい。
そして、リーナの両親は戦士であり、女神の「命を育む」という権能の真逆の生業で、不浄の職だというのだ。女神の教えでは、職に貴賤などないと説いているのに、大陸中の食を支える自分たちを事実より大きな誇りを持つようになってしまっているようだ、と。
私はね、そう言った連中が嫌で、中央で派閥争いを嫌ったため飛ばされて来たんだよ、と笑いながら言った老司祭は、リーナが十五の歳に身体を壊してこの世を去った。それでリーナはとうとう本当に一人になった。
リーナは庇ってくれる人間がいなくなり、村人たちはいよいよリーナを蔑視するようになる。
食わせてやっていると言って、森の危険な仕事や、牧畜の石垣を修復する重労働や、果ては夜間の物見など、普通は大人の男手複数人で行う仕事をリーナに押し付ける。今日だとて、本来なら若い衆が交替でやるはずの水汲みを、体よくリーナに押し付けて行ったのだ。
家に帰れば、薄いスープを啜って固いパンを齧り、泥のように眠って、また夜が明ける前から起きて仕事する。この毎日の繰り返しだった。
リーナはもう何年もまともに人と口を利いていない。でも、それでもいいと思っていた。
両親が残してくれた家や小さな畑があり、これがある限り、わたしはここで生きていける。
外にはとても広い世界が広がっていると聞く。成人しているから、この村を出ることも可能だ。でもそれは、独りぼっちのリーナの小さな足では、次の街に辿り着くことさえできずに魔物の餌食になるだけの世界だ。
いや、本気を出せば出来ないことは無い。
それをしないのは、ここには両親の思い出が残る場所で、それはリーナの唯一生きる拠り所だったから、その場所を捨てられないからだ。
それならば、わたしはこの小さな箱庭を守っていく。それで十分だった。
道すがら言いつけられた仕事を終え、自分の庭の畑の草を取って、ふと見上げると夏の日差しが陰って来た。
急速に湧いたような分厚い雲に、酷い雨にならなければいいけど、と顔を曇らせた。
※※※※※※
「おい、リーナ!」
ふいにドンドンと乱暴に扉を叩く音がする。まだ夕方だというのに辺りは真っ暗で、ついに降り出してきたらしい雨音が激しく聞こえる。
慌てて扉を開けると、牧場主の男が酷い形相で立っていた。
「この愚図が、さっさと開けないか!」
「……す、すみません」
雨がすごい勢いで吹き込んでくる。乱れる髪を押さえて謝ると、引きずり出されるように腕を引っ張られた。
「風が酷い、柵を見回ってこい」
柵は、村の先の森との境界までを囲うものだ。距離もあり、この暗い雨の中を行くのは随分と難儀だった。躊躇う様子を見せると、牧場主は苛立ったようにリーナを引き倒した。
「穀潰しのくせに、口答えでもするつもりか!?」
リーナは、ああ駄目だ、と諦める。この人にとって、リーナの命は牧場の柵よりも軽いのだ。
はい、と頷いて、雨具を取りに納屋へ向かう。そして、透けるほど薄く削いだ木を蝋で固めた防水の囲いをしたランタンと補修用のロープを持って、風で唸る森に向けて歩き出した。
雨と風で歩くのがやっとで、ほんのちょっと先の足元しか見えない。それでも柵に辿り着くと、一カ所一カ所丁寧に継ぎ目を見ていく。緩みそうな場所は湿って固くなったロープを止めなおし、浮きそうな場所は石で叩いて打ち込んだ。
作業も終わりが見えてきた頃、森の方に生き物の気配を感じた。こんな雨の日だから、獣はもちろん魔物ですら動かないだろうと高を括っていたのだが、暗い森の中に浮かぶ黒い影にゾッと身をすくませた。
こちらの気配を感じ取られないようにランタンを消し、息を殺して一歩ずつ後退った。ここで死んでも誰も気に留めないだろうが、それでも死にたくはなかった。
ザッと向こうが動く気配がし、リーナは一目散に逃げようとした。
「待て! 人間か?」
突然、意味の分からない問いを投げかけられ、目の前に影が立ちふさがった。先ほどまで二十歩ほど先にいたはずの影は、一足飛びにリーナの前に躍り出たのだ。
あまりの事に悲鳴を上げる。上げるが、すぐにそれは大きな掌に抑えられてしまった。恐怖に目の前が真っ暗になる。
「大丈夫だ、落ち着け。俺も人間だ。ゆっくり息をしろ」
その陰は、そっと手を離しながら、ゆっくりと低い声で諭すように言う。心地よく通る害意のない声の響きに、警戒が緩んだ。皮膚を破って出てきそうなほど早鐘を打つ心臓に手を当て、大きく息をつくと、少し落ち着いてくる。自分が濡れるのも構わず、リーナを包むように外套を翳して雨を遮ったまま、相手はこちらを観察しているようだった。
「いい子だ。そのまま息を続けるんだ」
相手はリーナが完全に落ち着くまで待って、腰が砕けそうになるリーナの腕を掴んで立たせてくれた。
そして手を離しても大丈夫だと判断すると、ランタンに手を翳した。
すると、火種を持っていた訳でもないのに、ポッと灯りが付いた。が、あっという間に辺りが明るくなるくらいの大きな炎になってしまい、パキンとランタンが壊れる。
それまで雨で輪郭くらいしか分からなかった影だったが、炎が躍った一瞬だけ照らし、彼が人間であることを確認することが出来た。
この人、魔法が使えるんだ。
……でも、とっても不器用なんだ。
この辺境で、魔法が使える人間は少ない。リーナには素養があったので、簡単なものであれば使えるが、それが災いして村人に酷使される原因になっていた。
「す、すまない。ランタンに火を付けようとしたんだが……」
それまで抑揚のなかった平坦な声だったが、なんだか焦った声音が聞こえ、思わずクスッと笑ってしまった。
それでなのか、リーナは不思議とこの影を怖いとは思わなくなった。
「大丈夫です。ここからなら、灯りがなくても帰れますから」
小さく言った声だったが、相手はちゃんと聞きとってくれたようだ。柵を辿っていけば、迷うことは無い。
「ああ、帰れるのか。では、できれば村へ連れて行ってほしいんだが」
遠慮がちに言う声には、ほとんど覇気がなく、疲れに倦んでいる様子だった。そうだろうな、とは思った。この雨で難儀しているのは言われなくとも分かった。
夜に旅人が村に連れて行ってくれというのは、限りなく怪しい状況ではあるが、こんな嵐の中、いるかもわからない外に出る住人を、命を削って待つ盗賊がいるはずもなく、勘もあるが、本当に遭難しかけた旅人であると確信した。
だが、あの村は、旅人といってもすんなり受け入れてくれるか怪しかった。
「あの、旅の方ですか?」
警戒しているとでも思ったのだろう。相手はゴソゴソと何かを懐から取り出した。細く長い鎖の先に指輪のようなものがあった。
「俺は、自由組織の剣士だ。この近くに「迷宮」があると聞いて来たが、この雨で立ち往生していた」
迷宮と聞いて、リーナの身体が震える。リーナの両親が命を懸けて周囲を一掃してから、最近まで大量に魔物が湧くことは無かったが、ここのところ少し活発に動き出したと知っていた。無理やりその下見にやられたことや、近くまで行って薬草などを採らされたことがあったのだ。その時のことを思い出し、リーナはゴクリと喉を鳴らして唾をのんだ。
「あ、あの、確認してもいいですか?」
相手が取り出した物を指さしながら恐る恐る言うと、「火を出すか?」と聞かれたので、丁寧に断っておく。鎖は長いと言っても顔をお互いに近付けなければならない程度で、そんな中で先ほどの炎を出されたら、リーナは丸焦げになってしまいそうだった。
そして自分の掌に小さな炎を出した。
「……魔法が使えるのか」
どこか感心したような声に恥ずかしくなり、急いで相手が差し出したものを確認した。
それは幅広の指輪に、ひし形の中に翼の意匠が彫り込まれたものだった。間違いなく自由組織の紋章だ。リーナの両親もかつてそれを持っており、今も形見として一つだけ大事にしまってあって、その意匠を忘れるはずもなかった。どこかで聞いた知識だが、国家連合の騎士団は、ひし形の中に聖杯と交差する剣の意匠らしい。
しかも材質は銀のようだった。普通の組織の人間は銅またはその合金で作られたもので、銀は上から二番目の等級であり、銀を持てる人間はかなりの手練れでほんの一握りだと聞く。
確かに銀級ですね、と確認したことを告げると、相手は驚いたようだった。出しては見たものの、それを本当に知っているとは思ってもいなかったのだろう。
「小さいのに偉いな」
ああ、とリーナは嘆息する。リーナはどう頑張っても年相応に見られることは無い。相手も恐らく数歳は低く考えていたのだろう。
暗いからはっきりとは分からないが、相手はどう見積もっても成人した男性だ。しかもしっかりとした体躯のようだし、こちらが成人した女性だと知られない方がいいと思う。
相手の誤解をそのまま利用し、村へ案内することにした。取りあえず相手はリーナを傷付けるようなことはしなかったし、誠実に証拠を見せて安心させようと努力をしてくれたように見て取れたからだ。
炎を出し続けることは、リーナの魔力では無理だったので、暗闇を案内することにした。
相手が付いてきているか何度か振り返りながら、リーナは先導を続けた。
そういえば、他人とこんなに話をするのは、久しぶりだな、と思いながら。