ヒルデ2
出来た食食事はテーブルに移動させなければならないのに、わたくしは手が止まって動かなかった。
アヒムが訝しげな表情でわたくしを見る。
「ヒルデ、どうしたの?」
「ごめんなさい。ぼうっとして。そういえば、帝国について何か話を聞いたことがなかったかしら?」
「帝国……か。皇太子殿下がお亡くなりになったという話は出ているね。公女殿下のご婚約者だった」
「ええ、そうね。わた……公女殿下は今どうされているのかしら?」
「そこまでは聞かないね。ここは公国の中でも端のほうだから」
「そう、だったわ」
ここは公都ではないのね。そして、ジェルヴェ様はお亡くなりになっている。
そうなると、帝国軍は侵略を始めた頃になるのかしら? アヒムはここは公国の端のほうだと言ったけれど、帝国に近い方なのか、遠い方なのか……遠ければ、帝国軍に関してはまだ話題に上がらないのかもしれない。
いくら小国といえど、端の村にはそういった重要な話もなかなか行き届かないから。
「アヒム」
「どうした、ヒルデ?」
わたくしは、これからの事を思うと、恐ろしくなってはしたなくもアヒムに抱きついた。まるでお兄様に抱きついて慰めてもらったように、アヒムに同じ事を無意識に求めていた。
アヒムはわたくしの言動が可笑しいと思いながらも、小さく震えるわたくしを抱きしめてくれた。
「何を考えているのか分からないけど、ヒルデが心配するような事はないよ」
「そう、かしら? ジェ……帝国の皇太子殿下がお亡くなりになって……この国は、どうなってしまうのかしら? そう思うと、とても怖いの」
「まだ帝国の皇太子殿下がお亡くなりになったと聞いたばかりだよ。それに事故のようだし、公女殿下はお気の毒だけれど、他の婚約者を探すことになるだろうね。でも、僕らにはどうしようもないことだ」
アヒムの言葉は正論で、わたくしはこれ以上、言葉を重ねることは出来なかった。
帝国が皇太子の事故を公国のせいにしたこと。
そのせいで、帝国が公国に侵略したこと。
父――大公も公女も、帝国の手に掛かり亡くなったこと。
それらはまだこの村では知る由のないこと。いえ、それ以上に、まだそこまで行ってないのかもしれない。
わたくしが皇帝の剣によって胸を貫かれ、絶望を感じながら死したことも。
アルマが飢えに苦しんだ末、帝国の兵に肩から深く切りつけられて絶命したことも。
あくまで、わたくしが体験してきたという事だけ。わたくしにしか分からないこと。
神様、何故わたくしは公国の民として甦るのでしょうか?
わたくしには、死者の国へと降ることは許されないのでしょうか?
それは、ジェルヴェ様の婚約者として、帝国への説明の不足と、公国の民を犠牲にした罪なのでしょうか?
どれだけ考えても、誰も答えてはくれない。
ただ、帝国兵に殺され、別の誰かになる――今分かっているのは、これだけだった。
「ヒルデ、とにかく食事にしよう。せっかく作ったスープも冷めてしまうよ」
「え、ええ。そうね」
今は何も言えない。
エーファではないけれど、他人の体の体だけれど、それでも今はこの幸せを噛みしめよう。
アルマが言ったとおり二人は新婚で、今が一番幸せなとき。
それがいつまで続くのか分からないけれど、今は少しでもこの幸せな空間に居たかった。
***
それから数日間、わたくしはヒルデとしてアルムと過ごした。
さすがに新婚ということで、その……夜の経験もしたわ。閨事についてはジェルヴェ様と婚約した時に教わったけれど、実際に経験するのとは別だった。
もう、わたくしは『エーファ』ではない。
だから、このまま『ヒルデ』として、アヒムと二人で幸せになりたい――そう思い始めていた。
そう思いながら、そっとベッドから起き上がると、アヒムに「おはよう」と声をかけられる。わたくしも少し照れながら「おはよう、アヒム」と返した。
それから、二人で食事の支度をして――未だに料理が上達しないのでアヒムに手伝ってもらっている――二人で向かい合って食事をする。
その後はアヒムは仕事に出て、わたくしは家の掃除や洗濯を行う。慣れないながらも、アヒムに少しでも過ごしやすいと思ってもらいたいという思いから。
洗濯をするようになって、たった数日で手は荒れ始めた。けれど、平民の手はきっとこのようなものなのだろう。『アルマ』の母も同じようだった。
けれど、幸せな時間は続かない。
わたくしが懸念していたように、この村に帝国軍が公国に攻めて来ているという話が届いた。
公都はすでに公国軍に囲まれ、公都以外の街や村は、帝国の一大隊が蹂躙しているとの事だった。
この村に帝国軍が来るのも、もう時間の問題だった。