7話
その日、竜司が家に帰ると母親が待ち構えていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
それに気づかないふりをして部屋に向かおうとしたが、先手をうたれた。
「学校はどう?」
「…………」
最悪な聞き方だと竜司は思った。自分がイジメられている事に母親は気付いているし、確信もしている。そのうえで、学校はどう? という聞き方はあまりにも辛かった。
「普通だよ」
何もないように振る舞う事ももうできない。だが、最後まで相談は出来ないとも考えていた。
「そう。ところで、そのヘッドホンなんだけど」
その言葉に竜司の心臓が跳ね上がった。
「な、なに!?」
思わず身構えた息子に、母親は慎重に言葉を重ねた。
「少しの間だけ貸してもらえないかしら」
そう言われた竜司は、内心穏やかにいられるはずがなかった。このヘッドホンの話をするのであれば、あの人のことを話さなくてはならない。
あの喫茶店での甘い思い出に、母親は必要なかった。
「絶対に嫌だ」
微かに殺気立った竜司は、急いでその場を後にする。背後で母親が何かを叫んでいたが、そんなものを聞くだけ無駄に思えた。
竜司は自室の扉を閉めて鍵をかける。
「はぁ」
溜息を1つ吐くと乱暴に鞄を放り投げ、制服のネクタイを外す。
自分でも何かがおかしいとは感じていた。最初はちょっとした違和感から始まった。あの女性にヘッドホンを貰った夜、試しに音楽を聞いてみると、音質の事は詳しくは分からないが決して安物ではないと思った。暫く音楽を流し続けていると、一瞬だけノイズが走った。しかし問題なく動いていたのでたいして気にしていなかったのだが、2日目に気付いた。ノイズの中で声が聞こえる。
注意深く聞かなければ分からないほどの一瞬に、何かが喋っている。
1度気になってしまうと音楽など楽しめない。ノイズが走る刹那に集中していると、聞こえた気がした。
「……目を覚ませ?」
そう言っている気がしたが確証は無い。モヤモヤとしていると、再びノイズが走った。
【目を覚ませ】
今度はハッキリと聞こえた。耳元で囁かれたような距離感に驚き、思わずヘッドホンを外してしまった。
しかし今度は
【目を――覚ませ】
次の瞬間、竜司の意識は途切れた。
どのくらいの時間が経ったのか、竜司が目を覚ますとリビングルームに立っていた。
「?」
意味が解らず立ち尽くしていると、自分の周りの異変に気付いた。
強盗が荒らしまわったのかと思えるほどに散らかった部屋。食器類が散乱し、椅子は倒れ、テレビの画面が割れていた。
ソファには何かで裂いたような傷が大量に付けられていた。
「これは?」
一体何が起こったのか分からない竜司に、背後から声が掛けられた。
「竜司?」
反射的に振り向くと、父と母が肩を寄せ合って立っていた。
この状況を尋ねようとした時、右手から何かが落ちる。
カランという音と共に床に転がったのは包丁だった。
もしかして、これをやったのは自分なのか? そんな疑問が頭を埋めつくす。
「竜司ッ!」
母親は涙ながらに息子を抱き寄せる。
「大丈夫、貴方は悪くない。お母さんが何とかするから」
強くあろうとする母親に対し、父親は冷徹に言葉を紡いだ。
「こんな事が世間にバレては困る。何か別の事で発散しろ。犯罪行為はするなよ」
家具が壊れたことでも、息子が錯乱状態で暴れた事にも感心はないらしかった。
その後、両親の言い合いがあったが、今日の出来事は忘れることで決着が着いた。
世界から逃げるためにヘッドホンで耳を覆い、ノイズキャンセリング機能を使う。何も聞こえなければ何も起こらない。
【目を覚ませ】
しかし、音楽を聞いていなくても時折聞こえてくる声は止むことが無かった。コレが異常なことは理解しているのだが、その声を不快に思わなくなっていた。
女性の声と男性の声が混じったような、不思議な声色。そして何処となく似ている気がした。
「あの女性に会いたい」
頭の中で、何度も再生されるあの日の事。ヘッドホンを通じてでしか会えないもどかしさ。自室のベッドで天井を見ながら彼女の微笑みを思い浮かべるのだった。