3話
近所でもとりわけ高級とされる高層マンション。その1部屋で夫婦が言い争いになっていた。
「お前がしっかりしないから」
「私のせいだけにしないでよ。貴方だってあの子に感心が無いじゃない」
「感心が無いわけないだろ。俺は仕事で忙しいんだよ」
「それが言訳なんじゃない」
「俺が働いてなければ――」
音量こそ控えているが、扉1枚隔てたくらいでは聞こえなくなる事はない。
その声を聞きたくなくて、少年はヘッドホンを手に取る。
外界と完全に隔離するためにノイズキャンセリング機能をオンにする。今まで聞こえていた声が聞こえなくなった。
ベッドに横になり目を閉じる。このまま何もない空間に溶けてしまえたら。そんな幸せを考えながら目を開ける。
何の取柄もない事は自分がよくわかっていた。運動も勉強も中の下で、愛想がいいわけでも要領がいいわけでもない。
学校でも家でも居場所がある訳ではなかった。両親はいい大学に行けというが、そんな頭は無い。努力の真似事はしているが、それが実を結んだことも無い。
何もない人生。
ただ両親に怒られ、同級生にイジメられる日々。
しかし、少年に幸か不幸か転機が訪れた。
その日も渋々高校に行き、昼休みにクラスメイトたちにイジメられていた。
「お前さ、なんで学校来んの?」
「そんなに俺たちに会いたいわけ?」
等と言いながら、代わる代わる少年の肩を小突く。
もしもここで言い返すような事ができれば、また違ったのかもしれないが彼にはそれが出来なかった。
ただひたすらに耐えて終わるのを待つだけ。相手が飽きるか、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴るまで、少年は一言も口を利かなかった。
「ほんと、お前って家が金持ちなだけだよな」
一人がそう言うと、笑いながら少年を突き飛ばす。
ドサッと地面に尻もちを着くと、その反動で首から下げていたヘッドホンが地面に落ちた。
「コレ高いやつだろ? 羨ましいよ」
そう言ってヘッドホンは校舎の壁に叩きつけられた。
派手に壊れてはいないものの、ヘッドホンの耐久性を完全に無視した衝撃なので壊れていないはずがない。
その光景と共にチャイムが鳴り、加害者たちは満足して去っていった。
少年は無言のままヘッドホンを拾い上げ、電源ボタンを入れてみるが反応はない。
「そりゃそうか」
初めての言葉は、誰にも聞かれる事なく空気に混ざって消えた。
その日の放課後、少年は家電量販店にいた。
平日ではあったが、大型量販店という事もあり結構な賑わいを見せている。
いつもであれば、ヘッドホンのノイズキャンセリング機能で周囲の音を完全に消し去って歩いている彼にとって、耐えがたい苦痛だった。
楽しそうな笑い声も、店員と客の会話も、全てがうっとうしく神経に触った。
それに耐えながら歩きヘッドホン売り場に到着し、商品を眺める。様々な色と形のイヤホンやヘッドホンだがどれも高額で、高校生が手ごろに買えるものは無い。
壊れてしまったヘッドホンも親に買ってもらった訳ではなく、自分の小遣いを貯めて買ったものだった。
分かってはいたが、現実を見せつけられると気分が悪くなってくる。
家に帰れば両親のケンカを聞き、学校に行けば馬鹿どもの笑い声を聞く。そんな地獄にこれから耐えなければならないのかと思うと、最悪な気分になった。
欲しいものは有るが金が無い。普段であれば我慢できる状況だったが、少年の中の悪魔が囁いた。
行動を起こしてもバレる可能性が高い。そうなれば何もかもが終わると知っていたが止められなかった。
欲しいヘッドホンを手に取り眺める。ノイズキャンセリング機能も付いた高性能な代物だったが、今はどうでも良い。
辺りを見回しても店員の姿は無い。肩から下げているバッグの中に仕舞って全力で走れば、もしかしたら逃げ切れるかもしれないという、バカげた安易な希望にも気付いていたが実行に移した。
「そんなことしたら捕まっちゃうわよ?」
ヘッドホンをバッグの半ばまで突っ込んだ時、背後から声をかけられた。
心臓が止まりかけるほどに驚き、少年は慌てて振り向いた。
自分よりも少しだけ背の高い女性。どこにいても目立つ銀色の髪、整ったと言うにはあまりにも顔が整い過ぎている。この女性に微笑まれて、魅了されない男などいないと断言できる。
それが男子高校生ともなれば、魅了どころか緊張を覚えてしまうほどに美しかった。
「ソレ、棚に戻した方がいいよ」
未遂とはいえ、この状況の少年にかける言葉としては気軽い口調。少年としても慌ててでも逃げる場面のはずなのだが、女性を1秒でも長く見たいという本能なのか、言われた通りにヘッドホンを棚に戻してから女性に向き合った。
「エラいエラい。素直な男の子は好きよ」
くすくすと笑う女性を、少年は顔を赤く染めながら見つめた。
「そうだ。私のいう事を聞いてくれたお礼をしなくちゃ」
「え?」
少年の口から疑問が漏れる。
反省を促すでもなく、逆にお礼をすると言い始めたのだから当然だった。
「言ったでしょ? 素直な男の子は好きなの」
そこから半ば強引に家電量販店から連れ出された少年は、近くの喫茶店に連れて行かれた。
「ここは私のお気に入りなの。コーヒーは飲めるかしら?」
「の、飲めます」
本当は好きではなかったが、子供っぽく思われたくないという理由から何故か見栄を張ってしまった。
女性はそれすらも見透かしているのか、優しく微笑んでコーヒーを2つ注文した。
落ち着いた雰囲気の店内にはBGMすらかかっておらず、店主がコーヒーを淹れている音だけが微かに聞こえていた。
「この店の良いところは、本当の静けさが在るところだと思うの。店主もお客も全員が静かに過ごす事に夢中になってる」
囁くように告げる女性。事実、店には数人の客の姿があるが、窓から外を眺めたり本を読んだりしていて、その誰もが音を持っていないようにすら感じる。
2人が入ってきたときすら誰も女性を見ていなかった。これがもし別の店であれば、銀色の髪の美女に騒がないわけがない。と、少年は確信していた。
普段からヘッドホンで耳を覆い、強制的に音を遮断していた彼にとって不思議な空間だった。
「お待たせいたしました」
店主がコーヒーを持って現われ、それぞれの前に置く。
「ごゆっくり」
無駄な言葉も行動もなく、店主は去っていった。
少年はミルクと砂糖を入れるか迷ったが、女性が何も入れずに飲んだのを見て自分もそれに続いた。いつもなら不味いと感じるはずだったのだが、なぜかそれが無い。
「あまり苦くないのよね。淹れ方にコツがあるのかしら」
女性は静かに言う。
やはりコーヒーが飲めないことを見透かされていたと確信したが、もはやそれはどうでもよかった。この不思議な空間で起こることは魔法のようで、少年に非日常という世界の前には見栄など霞に消えていた。
一体どれくらいの時間が経ったのか分からないほど、長い時間をかけてコーヒーを堪能した。
「そう言えば貴方の名前、聞いてなかったわね」
不意に女性が言葉を紡いだ。
「え、あぁ。永井竜司です」
「ねぇ竜司君、なんであんな事しようとしたの?」
あんな事。それは先ほどの家電量販店でヘッドホンを盗もうとした事だった。
「それは…………」
どう言葉にすれば良いのか分からず戸惑ったが、女性は詰問するでもなく微笑んでいた。
その顔を見ると、竜司は意を決したように喋り始めた。自分の事、両親のケンカ、クラスメイトたちからのイジメを包み隠さず、恰好を付けずに何もかも話した。
全てを吐き出した竜司は喉の渇きを覚え、残っていたコーヒーを飲み乾す。
「そっか、大変なのね」
彼女は否定も意見もなく、ただ共感している。
「それで、いけない事だとは理解していたんですけど、つい」
竜司はヘッドホンを盗もうとしたことも認めた。
すると女性は、言葉を選ぶようにしながら話し始めた。
「人は弱いわ。群れで行動することでその弱さを補ってるの。人がケンカをするのもそう。自分の責任に押しつぶされないように相手に責任を押し付ける。その被害者はいっつも群れで弱い者に向けられる」
静かに、しかし断言するように力強く言い切る彼女を見つめる竜司。その姿は預言者からの信託を待つ信者のようだった。
「だからね、竜司君が教えてあげればいいのよ。お前たちは間違っている、って」
「……そんなの、怖くて出来ません」
「大丈夫。私にも経験があるの。最初は怖いけど、1度出来てしまえば怖くなんかないわ」
そう言って彼女はテーブルの下からある物を取り出して置いた。
「このヘッドホンを君にプレゼントするわ」
「え、なんで」
竜司の頭に浮かぶ様々な疑問を無視して女性は話し続ける。
「これは私からの親愛の証し。人はね、ちょっとしたことで変われるの。きっかけさえあれば、例えそれがヘッドホンであったとしても簡単に変われる」
「俺が変われる?」
テーブルに置かれているヘッドホンに釘付けになってた竜司は、それに手を伸ばした。
彼がヘッドホンに手を触れた瞬間、その上から女性の手が被さった。
陶器のような白く美しく冷たい手。重ねられただけでも息が止まったのに、力強く握られたのならば、もう生きた心地がしなかった。
「竜司君には私が付いてる。このヘッドホンが君を守ってくれると信じてみてくれない?」
その言葉に竜司は黙って頷いた。
「やっぱり素直な男の子は好きよ。頑張ってね、君ならできるわ」
そう言って女性は席を立った。
「もう盗みなんてやっちゃダメよ」
去っていこうとする女性に対し、竜司は最後に聞いた。
「あの、名前を聞いてもいいですか?」
女性は立ち止まり、
「そうね。次に会った時に教えてあげるわ」
それだけ言い残して店を出ていった。その背中が見えなくなっても竜司は視線を外すことはできなかった。