2話
眠っていても身体中の痛みで何度も目を覚ましていた結果、結局は大した睡眠を得られないまま朝を迎えた。
「寝れなかったな。学校どうすっか」
春乃も一応は高校生をやっているが、学業の方も生活態度も優等生とはいえなかった。
学校全体としても、割と荒れている生徒が多いので決して春乃が特別という事でもない。サボったとしても教員は心配というよりは、またか。という感情しか湧かないだろう。
「昨日は行ったし、今日は行かなくていいか」
学校というものを理解しているのか怪しくなる言葉を吐いて、春乃は再び目を閉じた。
どれくらいの時間が経ったのか、春乃は空腹で目を覚ました。
時計を見ると午前11時。昨日はカップラーメンしか食べていないことを思うと、空腹は当然だった。
重い体を無理やり起こし、家の中の食料を探す。しかし、面倒だからと買物をサボりまくっていた結果、冷蔵庫の中にもどこの引き出しにも食料が入っていなかった。
「昨日のカップ麺が最後だったのか。……仕方ない、どこかに食いに行くか」
ジャージに着替え近くのファストフードの店に向かい、適当にハンバーガーのセットをテイクアウトする。
今日は梅雨とは思えないほどに晴れており、何となく外で食べたい気分になっていた。
公園のベンチに腰掛け、紙袋を開ける。何とも言えない良い匂いが鼻腔をくすぐり、一気に空腹が高まるのを感じる。
ハンバーガーの包みを開け一気にかぶり付く。甘辛いソースが絡めてあるパティとマヨネーズ。シャキシャキのレタスが口の中に収まると、口内の傷の事など忘れるほどに幸福感が押し寄せてきた。
左手を紙袋の中に突っ込んでポテトをつまむ。
カリカリの外側を堪能してからジュースに口を付ける。炭酸の弾ける爽やかさでリセットして、再びハンバーガーを齧る。それを繰り返し、15分もかからずに全てを食べきった。
「はぁー食った食った。やっぱファストフードは最高だな」
満腹になり幾分機嫌が良くなった春乃は、ベンチに腰かけたまま景色を眺めていた。
何を考えるでもなく、ただ時間が過ぎていくのを体感していた。
公園の砂場で遊ぶ子供と母親。楽しそうに砂の山を作っては喜び、母親もそれに合わせて笑っている。その光景は、春乃に過去を思い出させた。
まだ彼女が幼いころ、両親はそれなりに仲良く生活していた。母親と公園に行き、ブランコで遊んだこともある。
あの頃は楽しかった。その思いが湧き上がると同時に、今の母親の顔が浮かんできた。娘を見守ることを辞めたあの表情。自分ではなく、名も知らない男に笑いかける笑顔が嫌いだった。
「クソッ」
考えたくないことが頭を埋めつくす。これ以上は考えたくないので、ベンチから立ち上がりゴミをゴミ箱に投げ入れた。
無性に喉が渇き、公園に設置されている自販機に足を向けた。
お金を入れて適当にボタンを押す。ガコンと出てきた缶を掴み取り、蓋を開けると一気に喉に流し込んだ。
「なんだ、カフェオレか」
全て飲んだ後に自分が何を飲んだのかを知って、それをゴミ箱に入れようとしたが魔が差した。何となく遠くのゴミ箱に投げ入れたくなったのだ。普段ならやらないであろう子供っぽい行為。
「入ったら……」
なにか適当な願掛けでもと思ったが、適当な事も思いつかなかったのでさっさと投げてしまう。だが投げる瞬間に肩に鈍痛が走った。
「痛ってッ」
不自然な投球になった事で手から缶がすっぽ抜け、遠くに飛んだもののあらぬ方向に行った。
「あ、ヤバッ」
と思った時には全てが遅く、なんと飛んでいった先には女性が居たのだった。
女性はスマートフォンでも見ているのか、手元に視線を落していて缶が飛んできているのに気付いていない。
危険を知らせるために声を張り上げるよりも先に、缶が女性に到達してしまった。
いきなりの事に女性は驚きの声を上げ、手元から視線を上げる。そこには春乃がいるので自然と犯人が判明した。
このまま逃げようかと思ったが、そうは行かないだろう。春乃は謝罪をするために女性の元に向かい、頭を下げた。
「すいません。缶をゴミ箱に投げ入れようとしたら外れました」
言訳などせずに素直に謝罪をしたが、女性は何も言わない。
恐る恐る顔を上げた春乃は、思わず息をのんだ。
近くで見た女性は人形のような美しさだった。陶器の様に白い肌と漆の様な黒い髪。ぞわりとするほどの冷淡な眼。そのどれもが美しさを確かなものにしていた。
同じ女であるはずなのに、どこかドキリとしてしまうほどの美人だった。
「素直に謝りに来たのは認めよう。でも、君が投げた缶はコレに直撃した」
見せられたのは懐中時計。文字盤の上にはめられているガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、見た感じでも針は動いてはいなかった。
「すいません。弁償します」
これにはただ謝る事しかできなかった。
「そうか。コレは精密な代物で1点物なんだ」
それを聞いて春乃は青ざめる。修理にしても弁償にしても一括は無理だ。分割にしてもらわなければ絶対に払うことは出来ない。
「修理するにしても200万くらいはかかる」
その言葉を聞いて、今度こそ本当に春乃は絶句した。たかが時計に200万は尋常ではない。
「てめぇ、ガキだと思って舐めたこと言ってるだろッ!」
思わず反射的に凄んでしまった。自分に100パーセント非がある事は理解しているが、それでも言わずにはいられなかった。
しかし、目の前の女性は眉1つ動かすことも無く、淡々と言葉を紡いだ。
「なら仕方ない。警察に届けるしかないな」
「ッ、待ってくれ。警察は、待ってくれ」
警察に通報でもされれば、嫌でも親に連絡が行く。そんなことは死んでも御免こうむりたい事態だった。
「わかった。200万は返す。けど一括は無理だから分割にしてほしい」
春乃の精一杯の交渉だった。学校を辞めて働いたとしても親に連絡が行く。なので知られずに返済するにはアルバイトの給料しかなかった。
数年かかるだろうが、交渉するしかない。
「返す当てはあるのか?」
「アルバイトする。毎月の給料全部渡すから分割にしてくれ」
「親に泣きついた方が楽だぞ?」
「頼りたくねぇ」
「……そうか。ゴネるようなら容赦なく対応するつもりだったが、給料を全部渡す覚悟があるか」
女性は面白そうに思案を巡らせ、1つの提案を口にした。
「君、私の所で働かないか? 学生のバイトの給料など高が知れてるが、ウチで働けば成果次第で給料が上がるぞ?」
明らかに嘘臭い。というよりも危険な香りしかしてこない。
「……いや、自分で探す」
「君は何か勘違いをしてるんじゃないか? 私はこういう仕事をしていてね」
言いながら女性は名刺を取り出して春乃に手渡した。
そこに書かれていたのは、古屋敷探偵事務所 所長 古屋敷紫月と書かれていた。
「助手は既に1人居るんだが、もう1人くらい欲しくてね。臨時のバイトでどうだい? 少し危険だが給料は保障しよう」
「で、その時給は?」
「1500円。プラス依頼解決の貢献度でボーナスもある」
普通に考えて、高校生のバイトで1500円とボーナスは有り得ない。探偵という仕事がどれほど危険なのかは知らないが、破格の待遇と言えた。
「乗ったッ」
春乃は即答し、アルバイトが決まった。
「そうか、即決できるのは良いことだ。ところで名前を聞いてなかったな」
「木戸春乃、です」
「わかった。では早速だが事務所に行こうか」
紫月に連れられて歩く事30分。ビル街の端の端にある事務所に到着した。
2階建ての建物で、1階は空き店舗らしくシャッターが閉められている。しかも建物全体を何かの植物の蔦が覆い、明らかに不気味さが増していた。
「ここの2階だ」
紫月は階段を登り進んでいく。
「ホントに探偵事務所なのか? アタシ騙されてんじゃ」
一瞬嫌な予感が脳内を掛け巡ったが、今さら逃げ出すのも遅い気がした。
もしヤバそうなら、全力で暴れて殴り倒そう。そう覚悟を決めて紫月に付いて階段を登っていく。
薄暗い階段を登りきると、目の前に扉があった。そこには擦れた白文字で古屋敷探偵事務所と書かれていた。
紫月は扉を開けて中に入っていくので、春乃も追いかけて中に入る。
探偵事務所は、廊下と比べて清潔感と光量に溢れていた。
「戻ったよ」
紫月が誰かに声をかけた。春乃は室内を見回すと書類の片付けをしていた青年が居おり、彼は振り返りながら返事をした。
「おかえりなさい。猫は見つかりましたか?」
「いや、でも別の拾いものはあったぞ」
「どうもっス」
春乃が軽く頭を下げると、青年のほうも反射的に頭を下げ、紫月の方を見る。
「誰です、その子?」
「臨時バイトだよ。先輩として色々教えてやってくれ」
「木戸春乃っス。よろしくお願いします」
呆気に取られていた青年は、何とか言葉を紡ぎ始めた。
「い、いやいやいや。なんで迷子の犬探しに行って、人間を連れて帰ってくるんですか!? しかも未成年っぽいし」
「15っス」
「警察案件ですよ! 下手すりゃ逮捕レベルでしょ」
「問題ないだろ。バイトとして雇うんだから。それに、本人の意思でここまで付いてきたんだから大丈夫だろ」
特に気にしていない風の女性陣に対し、青年は懐疑的な態度を崩さなかったが、結局は古屋敷が上手く言い包める形で収まった。
そして、初山睦樹と名乗った青年は、再び書類整理に戻っていった。
「さて、仕事の具体的な話をしようか」
ソファに腰を下ろした紫月と春乃。
「ウチの主な依頼は浮気調査、イジメの証拠集め、ペット探しだ」
「意外と地味っスね」
探偵という職業について詳しいわけではないが、なんというか地味という言葉しか出てこなかった。
「探偵業は時代を反映するものさ。少し前までイジメの調査なんて無かったんだが、今じゃどこの探偵事務所でも扱ってる仕事だよ」
そんなもんなのか。と納得しながら紫月の話しを聞く。
「地味な仕事かもしれないが、証拠集めにおいて調査相手にバレる事や、迷子のペットに逃げられる事は君の給料にも影響する事態だ。実際にバレて、1時間追いかけっこする羽目になった奴もいる」
紫月と春乃の前にお茶を置いてくれていた睦樹に視線を送る。
「彼の場合は近づき過ぎたんだ。逃げ足が速いのが幸いして難を逃れたが、アレはヤバかったな。あと少しで依頼がパァになるところだったから」
紫月は大雑把な性格なのか、特に気にする様子もなく懐かしんでいた。
「バイト初日に僕に押し付けた結果でしょ。大したことも教えないで、素人に尾行をやらせたんですから」
睦樹は苦虫を嚙み潰したように苦情を言うが、紫月にそれは通じない。
「だからしっかりと助けたじゃないか」
「そうですね。笑いながら車で駆け付けて来ましたもんね」
嫌味を言っても紫月は気にする様子もなく、出されたお茶を啜った。
その後も雑談を挟みながら、春乃が行う仕事のレクチャー等を受けながら3時間が経過した。
「君に任せる仕事はこのくらいかな。今後はわからないことがあったら、睦樹に聞いてくれ」
「了解っス」
時計を見れば午後4時を過ぎていた。
「じゃあ、仕事は明日から始めようか。明日は祝日だから学校もないだろ?」
「そうっすね。何時に来れば良いっすか?」
「午前10時までに来てくれれば問題ない。よろしく頼むよ」
「よろしくお願いします」
春乃は頭を下げる。
そして彼女は帰宅し、事務所には紫月と睦樹だけが残っていた。
「所長、本当にあの子雇うんですか?」
「さっきも説明しただろ。あの子が私の懐中時計を壊したんだ」
「弁償させるだけだったら、仕事なんて何でもいいじゃないですか」
「本人の希望だよ。どうやら親子関係も拗れているようだし、相談しにくいんだろ」
睦樹は溜息を1つ吐くと、話しを変える。
「彼女にどこまでやらせるんですか?」
「それはわからない。才能次第というやつさ。君のように才能があるかもしれないし、必要なら話すさ」
その言葉に納得をするつもりのない睦樹は、ただ無言で紫月を見つめた。
すると、いままでどこに居たのか分からない黒犬が睦樹の足元で座っていた。
「ワフ」
短く鳴くと、犬はトコトコと歩き出して室内を歩き回った。