ジェーンとシャルロット 概念の女
ジェーン・バーキンを娘であるシャルロット・ゲンズブールがインタビューするドキュメンタリー映画「ジェーンとシャルロット」を見てきた。
映画はパリではなくジェーンの東京公演から始まる。
まあ、わからないでもない。パリから始めようとすると全てがぎっちり噛み合ってしまって映画が始まる遊びがないのだろう。
窓を明け放った旅館の広縁で向かい合ったジェーンとシャルロットの問答が始まる。
すごく既視感のある光景だ。
映画「シャルロット・フォー・エヴァー」でセルジュ・ゲンズブールがシャルロット・ゲンズブールの宿題を手伝うという名目で繰り広げたピピとカカの問答の反転だわ。
「シャルロット・フォー・エヴァー」ではパリの暗い密室での父娘の会話。
「ジェーンとシャルロット」では東京の明るく解放された広縁での母娘の会話。
ジェーンは言う。
思春期のシャルロットのおっぱいを触りたかった、と。
セルジュの映画の中でローティーンのシャルロットを裸に剥いて乳触っていたよな。
なんで夫婦で似たようなことをしているのか(正式には夫婦ではない)
シャルロットは私もアリスに同じことを言って怒られた、と。
俺、男だからわからんけど母親って娘のおっぱい触りたがるもんなのか?
それはさておき、ジェーンはシャルロットに、かなり早い時期からあなたには気が引けていたと語る。
なぜ実の娘に気が引ける?という疑問は映画を見ていくと答えが出る。
場面変わって海辺にあるジェーン邸。
ジェーンの生活をカメラを写し出しが若い頃のスレンダーな体型はどこにもなく、顔立ちも昔の美貌を思わせるものはない。
それも残酷ではあるがより残酷なのは自信なく揺れ動く視線とつい娘であるシャルロットに譲ってしまう会話。老いとは思考力、記憶力、判断力が劣ってきている自覚があるからつい他人に譲ってしまう、世界中で名前が知られている大女優が会話の主導権を取れなくて娘とは言えその場の流れを他人に譲ってしまう。
これがなにより残酷だろう。
ニューヨークに場面を移して語られるのはニューヨーク公演の様子を交えながらジェーンの最初の夫のことが語られる。
女を取っ替え引っ替えするひどい男だったと。
映画ではシャルロットの娘のジョー・アタルもちらちら出てくる。
では女三代記なのかというとそうでもない。
構造としてはバーキンがゲンズブールに出会って人生が大きく捻れて、その捻れがシャルロットを通じてジョーに至る物語である。
その捻れはゲンズブール邸に見てとれる。(シャルロット邸ではなくセルジュ・ゲンズブール邸)
ジェーンが12年間セルジュと暮らした家の内部は様々がアーティスティックなガジェットが溢れ、初めて見たはずなのにこれもすごく見覚えがある。
セルジュ・ゲンズブールの色々な曲からイメージするそのまま。
もう一目見て脳の中にあるものが周囲に溢れてくるタイプのアーティストだし、セルジュ・ゲンズブールという概念を生きてきたのだとわかる。
ジェーンもシャルロットもセルジュと一緒に暮らした場所であるのに、ここは私の来る場所ではない、とパンドラの箱かホーンテッドマンションにでも訪れるような様子。
これ私の香水、とセルジュの死後そのままになっている様々な物ついて語りながらもそれは懐かしむというより怖れているようであり。
ここでジェーンがシャルロットにかなり早い時期からあなたには気が引けていたという理由がわかってくる。
映画だけ見ていると分からないけど、そこに映画では語られないセルジュ・ゲンズブールという男を当てはめるとなんとなく分かってくる。
セルジュ・ゲンズブールってブリジット・バルドーと浮き名を流しジェーン・バーキンと内縁関係になり、他にもバンブーやらなにやら女にモテたし才能をアート方面に降っているから分かりにくいけど、その本質ってオタクじゃん。
ゲンズブールの曲に頻出するメロディ・ネルソンやエンジェルといった少女のイメージ、ゲンズブールって生の女性を愛するというよりは女性に自分の内なる女性の概念を重ねて見るとこはあるじゃん。
だからたまにロリコン?と思うようなことがあるじゃん。
それはロリコンというか女性というのはやがて母となり子を育て老いていくものじゃん。
それに対して概念の女は概念であるから時間は関係ない。そこには老いも成熟もない。
不変である。
なので子を生む女性のイメージとはマッチせず、未だ産む性ではない少女とよくマッチする。
セルジュがバルドーに捨てられた後にくっついたのがスレンダーで少女のようなバーキンだったのはいかにもだよな。
セルジュは愛する女性と一緒にいても、どこか概念としての女を重ねてしまう。
だからバルドーにもバーキンにも捨てられてる。
セルジュの方から捨てて破局することはなく、必ず女性から捨てられて破局する。
人が住む場所、生活する場所というよりセルジュの頭の中の美学や概念がガジェットとして溢れた家での生活を想像してみる。
一般社会の騒音や常識と隔絶した小世界、そこはセルジュの美意識ですべてまとめられそこで暮らすことは選ばれた者の優越を感じるだろう。
しかし時間は流れる。
十代だったのが二十代になり三十代になる。
時の流れにつれ身体は変わり、意識も変わる。
しかし、美の小宇宙は変わらない。
選ばれし者の楽園がいつのまにか牢獄に変わっている。
人は成熟しそして老いていくが、概念は老いないし変化もしない。
ほれ詩人は夭逝するって言うじゃん。
あれは自分が産み出した概念に命が擂り潰されている。
そんなもんを他人に重ねて生活してたら、そら逃げられる。
ジェーンがシャルロットにかなり早い時期から気が引けていたというのもここに来ると理解できる。
生まれた時からセルジュの美意識にさらされ濃厚にその概念を受け継いだ娘とか、そら気が引けるわ。
ジェーンに捨てられた腹いせを全部詰め込んだ映画「シャルロット・フォー・エヴァー」は近親相姦の匂いが漂うのだけど、あれは娘とヤリたいとかそういう訳ではないな。
美の概念、セルジュの内なる女性の概念をジェーンからシャルロットに付け替える映画だわ、あれ。
なるほどなるほど。
シャルロットがラース・フォン・トリアーの「アンチクライスト」や「ニンフォマニアック」出演した理由がよくわかる。
あんな過激な映画に出演なんて自傷するようなもんじゃんと思っていたけど、概念を破壊するのは肉体。
肉体へ回帰したかった訳な。
本当にそんなこと考えていたかは知らんけど。
やはり生きてる人間に概念を重ねてはいかんよな。
それをやっていいのはお亡くなりになった人だけだ。
映画の公開に合わせたようにジェーン・バーキンはお亡くなりになってしまったのだが、天国でもセルジュの元にはいかないんだろうなあ。