その漆
「クソ……クソがぁぁぁぁ!」
「おい止めろ!前に出過ぎた、バカ野郎!」
「ヒール!」
「ファイアボール!」
「死ねぇぇぇ!」
「ぐわぁぁぁぁ!」
「右翼が欠けたぞ!補えろ!」
「切りがねぇんだよクソが!」
「きゃあぁぁぁ!」
「盾を上げろ!矢だ!」
「防げ!」
街にいるレベル二以上の冒険者と街の守備隊が総出にされて、ゴブリンの大進行を食い止める羽目になった。
ゴブリンの数は凡そ数千。
依頼しに来た幾つもの村だけなら、この数は明らかに多すぎる。それでゴブリン軍団の後方を偵察しに行った冒険者の報告より、驚くべき事態が判明した。
その幾つもの村の更に後ろにいる小さな街にも、とうにゴブリンの群れによって滅ぼされた事。
つまり、かなり前から、ロードはもう発生していて、今度はその二回目の大進行という事。
集結されたホブ種とマジシャンの数は百体近くある。軽く四千を越えた通常種の三分の一くらいが魔獣種の狼に乗っている。その上ジェネラルが三体、そしてロード。
これはもう完結した群れだ。国家の一軍に対抗できてもおかしくないレベル。
街一つの守備隊と数十人の冒険者だけでは到底太刀打ちができない。
幸い、先に戻ったルミエラたちの報告を受けて、ギルドは何人かのレベル四冒険者と連絡を取って、今は参戦している。
それでも焼け石に水程度だが、守りを固めて時間を稼ぐだけなら何とかなる。
あとはどれぐらい、レベル五冒険者が到着するかに懸けるだけ。
軍として運用をするから、私たちのパーティーだけでなく、冒険者全員が職種に分かれて、バラバラで部隊に配られていた。
私はゲリラ戦の撹乱部隊で、命令を受けたら一撃離脱するだけで、それほど連携を取らなくても良いのだが、他の皆はかなり苦戦していたらしい。
特に最前線で突撃を食い止めるアニタ。
冒険者たちはそんなに団体作戦に向かない人たちだ。パーティーだけなら平気だが、数十人との連携行動は荷が重い。
隣の人が一足早く、自分が一足遅れれば、突破口が生じられる。
数体だけ突破されるのなら問題は無いが、回数が多ければ多いほど、戦線が崩れる恐れがある。いつも共同行動した仲間が危険に晒されても、勝手に部隊を抜けて助けに行けなかったのもプレッシャーになる。
そんな気持ちで戦うと、どうしても普段通りの実力が出せなくなる。
そして目の前に数え切れないほどのゴブリンがいる。
体力が限界を迎える以前に、心が悲鳴を上げる。
アニタ──ではなく。
しかし運悪く心が潰されたのは、彼女の隣にいる駆け出しだ。
耳障り悲鳴を上げ、盾を投げ捨てて後ろにいる人たちを押し退けて逃げようとする。それに釣れて近くにいる何人かも逃げ始めて、その辺りの陣形が大きく乱れた。
勿論、ゴブリンたちはこの隙を見逃す筈が無い。
そこの一点が突破され、盾の守りを失くした後ろの人たちが次々と殺されて、やがて雪崩のように大軍が推し進めた。
総崩れた。
最前線はすぐゴブリンに埋まって見えなくなった。後方にいる魔法使いや弓使いたちが助けようとしても、敵味方が入り乱れるからできない。
遠く離れた筈なのに、ノランとルミエラの悲鳴が聞こえる。
アニタが覆い被される瞬間──私は全力で飛び出した。
「シャ、ル……ごぶ」
群がるゴブリンどもを振り払った時、既に手遅れだった。
鎧がほとんど剥がれて、破られた服の下には無残に切り刻まれた体。肉片に変わった肌の裏に、白くて赤い、折れた骨が見える。
色深い血溜まりが広がって行く。
その上に横たわったアニタは恐ろしいほどに白い。
「泣か……ないで……」
瞳の色彩が喪われていく。
「──ごめんなさい」
頬に何かが伝わって、蒸発した気がする。
「やはり」
助かる筈なのに。
「私は」
もっと早く、覚悟を決めたら良かったのに。
「──皇帝なんて、向いていなかった」
全ての変化を解く。
ゴブリンの大軍に振り向く。
何匹か気配に恐れて後ずさったが、それを考えないようにする。
全身の魔力を巡らせ、口元に収束する。
空気が変わった。
楽しげに押し寄せて来たゴブリンどもが急に一斉に動きが止まって、ある場所に振り返ると、次の瞬間で死に物狂いに逃げ始めた。
統率を失ったゴブリンは、ただの弱いゴブリンだ。
数千もある筈の軍隊は増援して来なかった。
雲が渦巻いて、大気が震える。
地面もゴロゴロと振動し始めた。
小石が、砂の粒が、何かに引っ掛かって空に浮いた。
体が勝手に戦慄していた。
それに遅れて、脳もようやく理解し始めた。
ゴブリンどもが振り向いた方角にある何かが、自分達より遥かに格上の存在だと。
痩せた背中に、黒い鱗に覆い尽くされた一対の翼。
猛禽類を連想させた両足。
顔の横から突き出す二本の角に掻き分かれた、真っ黒な長い髪。
地面が爆砕した。
一直線に空間ごと焼き尽くす黄金の魔力の奔流。
進路上にいるゴブリンどもが一瞬で蒸発した。ホブも、ジェネラルも、ロードでさえ逃げようとする事を思い浮かべたところに跡形もなく消し飛ばされた。
抉られて、瞬間超高温に結晶化された地面だけ残った。
多分、見逃された──とゴブリンどもが思った途端、横から半周まで薙ぎ払った二発目で、五千以上もあったゴブリン軍団は先に人間の防衛軍に突っ込んだ数十体だけ残されて全滅した。
「シャル……だよね」
手足と翼と尻尾だけ人間の形に変えて、冷たくなったアニタを抱えて、街の外壁に戻った。
「アニタ……嘘だよ、アニタ……」
冷たい手を握ったまま、泣き崩れたルミエラ。
「ごめんなさい」
「シャル?」
「私が、もっと早くこうすれば、助けたのに」
「……そんな事は、うわ!?」
「きゃ!?」
誰かが手荒くノランとルミエラを押し退けた。
「退け!この方は誰だと心得る!」
「押さなくてもいいだろ!」
「冒険者風情が……」
「──跪いて」
領主は、心臓に重く叩かれた感覚を初めて覚えた。
思わず振り向いた。
数秒掛かって、その六音節はどういう意味だとようやく理解し、慌てて膝をついた。
伯爵である領主が跪くと、側にいる兵士もすぐさまに続いた。それを見てやっと何があったのかを理解した冒険者達も、次々と彼女に跪いた。
いつもなら、ここまで動転しなかった筈。
平民の冒険者などに構う暇があったら、その前に皇女殿下に忠誠を示すべきだった。
しかし今やっと終わったのは厄日の連続だった。
帝都にてクーデター。皇女の失踪。段々と発生頻度が高まる上位種の魔物に、周辺の村に広がる被害。
それらを押し退けて来た、ゴブリンの大群に占拠された離れの村。
ジェネラルがあるという事は、早かれ遅かれロードも発生する。急いで帝都のギルド本部に連絡してレベル五に救援要請をしたが、何故か全てのレベル五が音信不通だった。仕方なくレベル四をできるだけ要請し、近隣の領地に兵の増援を頼んだが、前者が到着する間もなく大進行が始まった。
しかも自分の領地を目指して。
投げやりで自領の兵と冒険者達を組んで、何とか最初の攻勢を食い止めたが、そこで前線にいる新人の冒険者が発狂した。
陣形が総崩れ、今度こそ終わりだと思ったところ、誰かが数千もあるゴブリンどもを、ジェネラルもロードも丸ごと消し飛ばした。
終いに前線兵士の生き残りが報せに来た。皇女らしき人物が戦場に現れたと。
大混乱しているところに、レベル三の認識票をぶら下がる冒険者二人がその皇女らしき人物の近くで話し掛けているのを見てからつい──いや。
それはただの言い訳だ。
皇女殿下に会ったのは、五年前の披露宴での遠い一目だけ。
まだ跡継ぎのない、議会の席も持たない一介の伯爵の自分には遠い存在だった。正直、幾らの伝聞を聞かされても、それも所詮後付けが沢山盛っていた話に過ぎないと決めつけた。
それは間違いだった。
あの一言から沁みり出る威圧感が全てを物語った。この方は本物だ、と。
「醜態を晒して、誠に申し訳御座いません──皇女殿下」
「構わない。もう立って良いよ、館までの案内、頼んだ」
「は、直ちに」
領主は急いで兵士たちに命令を下し、冒険者たちを隔てた。
ノランとルミエラを除いて。
二人に向けて、アニタをノランに渡した。
「ごめんなさい」
「……何で謝るんだ」
「騙した事。アニタを……死なせた事」
「それは──」
視線を逸らした。
返事を聞くのが、怖い。
「誰か!殿下に靴を!」
私の裸足に気付いて、領主は大急ぎで次の命令を飛ばした。暫くして戻った兵士は真新しいブーツを献上するように私の前に置いた。
「……」
久々だからか、それとも庶民の暮らしに少し慣れたのか、今はこういう扱いされるのはちょっと恥ずかしい。
そして真新しい靴は履き辛い。硬いから。
領主の後について、二人に見向きもしないまま、城壁から離れた。
「シャルを会いにいくのよ」
「いきなりどうしたルミエラ」
「あの子今、きっとありもしない事ばかり考えているわ」
「え、どういう事?」
「シャルには一人で、あのゴブリンの大軍を殲滅できる力を持っているのよ」
「そう……だけど?」
「でもあの子は最初からそうしなかった」
「うん」
「だからアニタは死んだ」
「はあ?ルミエラ、君まさか」
「そんな訳無いでしょう。ノランがそんな事をまったく思ってもいないのと同じで、私もそう思わないのよ」
「じゃあ?」
「シャルが、そう思っているの。行った時のあの子の目、見てたの?」
「ああ。すっごく綺麗な金色だったぜ」
「違うわよ。あの子がとっても悲しい目をしていたの」
「そうか?……そうか」
「だから会いにいくわ。そんな事はないってはっきりと伝わないとね」
「……そんな簡単に会えるのか。お姫様だろう、しかも帝国の」
「物は試しよ。正面からできなければ侵入でもすると良いわ、暴れてでもあの子を引き摺り出すの」
「領主官邸に侵入か。牢屋の直行便だな」
「ビビったらノランはここに残れば良いわ」
「いつ行く?」
正直、領主の館に訪れて、皇女殿下の謁見を求めた時に、ルミエラもかなり緊張した。
杖を握り締めた手が汗まみれだと気付き、何度もローブで拭いた。返答次第で魔法を撃ち込むのも躊躇わないと決めていても、怖いものはやはり怖い。
貴族出身であっても所詮男爵家。伯爵という本物の貴族とやり合うのは流石にプレッシャーも半端ではない。
そういえば。
シャルも──貴族は疎か、帝国全体でも天辺に居る最高位の貴族だった。
でも、それ以前に大事な仲間だ。
ノランを見る。
同じく緊張しているノランは視線に気付いて、ルミエラと目を合わせた。
二人とも深呼吸をして、覚悟を決め──
「お待たせ致しました。ノラン様にルミエラ様、こちらへどうぞ」
──礼儀正しい執事さんの歓迎に気を抜かれた。
「止め……は、しないのでしょうか」
柔らかい絨毯を敷いた長い廊下で、ルミエラはおずおずと執事に聞いた。
「止められるとお思いになられたのか?」
「普通、そうなるのでしょう。平民が皇女殿下に謁見を申し込みましたのよ」
「無関係な者か、野次かならそうかも知れませんが、お二人は無関係な者でも野次でもありませんのでは?」
「で、でもその、厚かましいとか、恥知らずとか思って……」
「ははは、そんなに卑下する必要はありませんよ、ルミエラ様。お二人は殿下のご友人である、その事実だけでも、胸を張って構いません」
「……」
こんな貴族もいるのか。
この領主に与えられた第一印象は最悪だが、部下はそうでもないようだ。
「因みに、領主様からも二人に謝罪をしたいと仰っていました」
「……心を読まないでもらえます?」
「ははは」