33話 救世主な公爵様
ヴァイゼル湖に到着してすぐ、テティスは目の前の光景に全身の血の気が引いていくのを感じた。
「なんてことなの……」
様々な要因から、仲間たちの何人かは怪我をしているかもしれないと考えていた。考えてはいた、けれど……。
(まさか、全員が倒れているなんて……)
見たところ、重症の者はいないようだ。
更に、幸いなことにほとんどの者に意識はあるようだが、戦闘に加わるのは難しいだろう。
(私ができるのは結界魔術だけ……。皆さんの安全を確保しなきゃ)
この場には非戦闘員のクロエもいるのだ。
自分かしっかりしなければと、テティスは心を奮い立たせる。
(まずは、水龍の攻撃がこちらに届かないようにしないと……!)
テティスは水龍の方に手を向ける。そして、自身の手の周りに魔力を留め、今度は薄く薄く引き伸ばし、ヴァイゼル湖を覆うほどの巨大な結界を作り出した。
(本当は独立式の結界を張って、私は皆さんの状態の把握や怪我の処置に当たりたいけれど……)
昨晩、水龍に独立式の結界は破られてしまっているため今は使うべきではない。
従来の結界は発動者本人が身動きを取れなくなるが、独立式のものよりも硬度が高いものを展開できるからと、テティスは判断したのだ。
「クロエ様! 今のうちに怪我人の容態を確認してください……! 出血が多い人がいたら、とにかく止血を……っ」
その瞬間、テティスたちの存在に気付いていなかった水龍の鋭い眼光がこちらに向く。大きな声を出したからか、はたまたテティスが結界を発動させたからなのかなんて、考える余裕はなかった。
「ええ、分かりましたわ……!」
クロエはテティスの背後から離れ、倒れた魔術師たちのもとに走り出す。
すると、水龍は現在最も脅威であるはずのテティスではなく、武器も持たずに救助に向かうクロエへと視線を移した。
「えっ」
その際の水龍の眼差しに、テティスは小さく驚いた。
(さっきまではとても鋭い目をしていたのに、どうして今はそんなに悲しそうな目をしているの……?)
そういえば、初めて水龍を目にした時もそうだった。あの時も確かに水龍が悲しんでいるように見えたのだ。
(思い返せば、あの場にもクロエ様がいらしたわ。そして今は、明らかにクロエ様に対して悲しげな眼差しを向けている……。つまり、クロエ様のことを認識していて……)
水龍はとても聡い。一部の文献には、とても情が厚いとも書かれていた。
更に、水龍が分類される幻獣には、通常では考えられないような神秘的な能力を持ち合わせている場合があると聞く。
(もしかしたら水龍は、ヴァイゼル湖の奥深くから祠を通して毎日クロエ様のことが見えていた? そして、欠かすことなく祠に訪れてくれるクロエ様のことを大切に思っていた……?)
もしそうだとして、祠が土砂の下敷きになってしまったことをきっかけに、もうクロエが祠に来てくれなくなるかもしれないと水龍が考えたとしたら……。
(きっと、とても悲しい気持ちになるわ。でもそれを伝える術がなくて、水龍は今回のように暴れているのかも……)
これは全て仮説に他ならない。話がかなり飛躍しているのではないかと、テティス本人でさえ思っているくらいだ。
けれど、そう考えると、ここ数日で水龍の強さが変化したことに説明がつくのだ。
(昨晩、水龍が何故強くなったのかと疑問に思っていたけれど、そうじゃなかったのかもしれないわ。一度目の戦いでは、おそらく現場にクロエ様がいたから、水龍は攻撃の手を緩めていたのかも)
現に今も、水龍はほとんど暴れていない。
一度目の戦いでは戦闘になったが、今はこちらから攻撃を仕掛けていないこともあってか、水龍はジッとクロエを見つめている。
(このまま水龍が暴れることなく、湖の奥深くに潜ってくれれば──)
この危機を脱することができる。
その後は、早くセドリックたちに手当てを施して、アーシャも休ませて、クロエには全てを打ち明けてもらって……。
──そう、希望を抱いたというのに。
「お姉様ぁ……!」
「!? どうして来たの、アーシャ!」
「だって、やっぱりお姉様が心配で……っ」
突然現れたアーシャはクロエが無事なことを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
しかし、倒れている多くの魔術師たちを見て、更に水龍の瞳がアーシャを捉えたことで、彼女はビクリと肩を揺らした。
「……っ」
アーシャは息を呑み、恐怖に怯える。
しかし、彼女なりにこの状況をどうにかしなければと考えたのだろう。
「もう傷付けちゃだめ……! 早く湖の底に戻ってよ……!」
アーシャはそう叫びながら、地面に落ちている小石を手に取ると、水龍に向かって腕を振り上げた。
「……っ、だめ……!」
虚しくもテティスの制する声はアーシャには届かず、彼女の手から投げられた小石は結界魔術にコツンとぶつかった。
体の弱い女の子が投げた小石に、大した威力はない。
だがそれは、その行動は、水龍に攻撃と判断され、戦闘開始の合図になってしまったのだ。
「ギャオォォォォォ!!」
結界内で激しく暴れ始める水龍に、テティスの額には大粒の汗が滲む。
(まずいわ……っ、こんなに暴れられたら……!)
結界魔術を発動するのに大切なことはいくつかある。魔力量や技術にセンス。そして、集中力だ。
しかし、テティスは今、集中力を大きく欠いていた。
理由の一つは、アーシャの行動をきっかけに突然水龍が激しく暴れ始めたことで動揺していたから。もう一つは、自分の結界が破られれば、この場にいる全員を危険な目に遭わせてしまうと恐怖心に襲われたから。
「……っ、もう、だめ! 結界が壊される……!」
どれだけ集中しようと思っても、動揺と恐怖に支配されたテティスの精神では無理な話だった。
結界には歪が生まれ、水龍の攻撃によって亀裂が入る。
もう時間の問題だと悟ったテティスは、勢いよく振り向いた。
「クロエ様、アーシャ様……! 早く逃げてください……!」
──テティスは必死に叫んだが、時すでに遅し。
クロエが少し離れたところにいるアーシャに駆け寄ろうとした瞬間、テティスが発動していた結界は、割れたガラスのように飛散したのだった。
「……っ、お願い、早く逃げて……!」
更に、問題はそれだけではなかった。
水龍は標的をアーシャに定め、大きく鋭い爪を彼女に向って振り下ろしたのだ。
「アーシャ様……! 逃げてぇぇ……!」
テティスはアーシャを守らんと結界を張ろうとするが、精神的なものと魔力の消費から発動することはなかった。
「アーシャァァァ……!!」
「あ……あ……っ」
クロエはアーシャを助けようと足を急がせるが、水龍の動きのほうが速い。
アーシャは驚きと恐怖から足が竦み、体を震わせるだけで一歩も動けそうになかった。
(悔しい……っ)
せっかく結界魔術師になれたのに、女の子一人助けられないなんて──。
(お願い、誰か……)
絶望的な状況の中、テティスの頭には自身の婚約者で、この国で最も強い者の存在が鮮明に映し出された。
「ノア様ァァ……! 助けて……っ!!」
来てくれるはずもない、屋敷で療養しているノアの名前を呼んだ、次の刹那。
「──もちろん」
聞き慣れた、重低音の優しい声。
グレーアッシュの髪に、少し長めの前髪から覗く、神秘的な淡い菫色の瞳。風に揺れる、白い魔術師のローブ。
(起き上がるのも、やっとのはずなのに……っ)
怯えるアーシャを庇うようにして立っていたのは、魔法で水龍の攻撃を跳ね返したノアだった。




