26話 鍵を握った少女
「あの、テティス様」
エントランスに続く階段を降りたところ、可愛らしい小さな声で話しかけられたテティスは後ろを振り向いた。
「アーシャ様」
そこにいたのは、血の気の引いた顔をしたアーシャだった。
体が弱いとは聞いていたが、今日は調子が悪いのだろうか。心配になったテティスはアーシャの直ぐ側まで行くと、両膝を床につけて問いかけた。
「寝ていなくて大丈夫なのですか? 顔色が悪いようですが……」
「……体調は大丈夫、です。あの、ノア様って、水龍様と戦って、怪我をしたんですよね……?」
「ええ。そうです」
もしや、ノアを心配して声をかけてくれたのだろうか。
だとしたら、安心させてあげなければ。そんな思いから、テティスはふわりと微笑み、こう言った。
「大丈夫ですよ。今は鎮痛剤の効果で眠っていますが、一度目を覚まされた時は思いの外元気そうでしたから。とはいえ、無理は禁物ですけどね」
「…………」
できるだけ明るい声色で伝えたものの、アーシャの表情が晴れることはない。
何か他に気がかりがあるのだろうかとテティスが考えていると、アーシャがおずおずと口を開いた。
「お姉様が怒られるかもしれないから、本当は言うつもりはなかったんです……」
「え?」
「でも、これ以上水龍様が暴れて、誰かが傷付くのは、嫌だから……」
「えっと、アーシャ様は一体、何を……」
幼い少女が何を言わんとしているのかはっきり分からず、テティスは疑問の表情を浮かべる。
(唯一分かるのは、クロエ様が怒られるのを避けるため、アーシャ様が何かを秘密にしていたということ……だけれど)
それだけでは全く材料が足りない。
急かしたい気持ちをぐっとこらえ、テティスはアーシャ彼女が話すタイミングを待った。
「実は……」
すると、アーシャは目に涙を浮かべながら、胸のうちに秘めていたものを吐露し始めた。
「少し前に、この辺り一帯を襲った豪雨の影響で、水龍様を祀る祠のすぐ近くで土砂崩れが起こったんです。そのせいで、祠は土砂に埋もれてしまっていて……」
「……!」
「その日から、水龍様は暴れるようになったんです」
豪雨があったことは、既に聞き及んでいる。
領民の多くが、何かしらが原因で水龍が怒ったことで豪雨が発生したと考えていることも。
しかし、水龍に天候を操る能力があるとは考えられていないため、テティスは領民たちの考えが正しくないのではと感じており、反対にアーシャの発言はストンと胸に落ちた。
「つまり、豪雨の影響で水龍の祠は土砂崩れの被害に遭い、その日からヴァイゼル湖の奥深くに棲み着いている水龍が暴れ始めた、とアーシャ様は仰りたいのですね?」
「……はい。水龍様は自分の祠が土砂に埋もれてしまったから、悲しくて、真っ暗が寂しくて、助けてほしくて暴れてるんじゃないのかなって……」
そこでテティスは、二日前──花畑でアーシャと話した時の彼女の発言を思い返した。
『水龍様は多分、寂しくて、悲しくて……それで、誰かに来てほしくて、あんなふうに暴れて……』
(なるほど。あの発言は祠が土砂崩れの被害に遭ったことを知っていたからなのね……)
水龍の祠は、いつかその魂が迷うことなく天に昇れるように作られたものだ。
実際の水龍は現在もヴァイゼル湖に棲んでいるため、その魂が祠にあるとは考えづらい。
けれど、水龍は幻獣の一種。
幻獣には、普通では持ち合わせていないような神秘的な能力や感覚が備わっていることがあると聞く。
(とすると……自身のために作られた祠が土砂崩れの被害に遭ったことで、水龍の心が乱れることもあるかもしれないわね)
少なくとも、ここまで水龍が暴れることにまつわる情報がほとんどなかったことを考えると、これはかなりの有力情報だ。
「因みに、アーシャ様は祠が土砂崩れの被害に遭っていることをいつからご存知だったのでしょう?」
「……テティス様たちが来る少し前に知りました。私は体が弱くて、あんまり外に出ちゃいけないって言われてるけれど、お姉様は毎日祠に行くから、ひっそりとその後をつけたことがあったんです。豪雨の次の日から、なんだかお姉様の様子がおかしくて、何かを隠しているみたいだったから……気になって……」
水龍の祠は、マーレリア領で最も神聖な場所とされており、祠の管理のため立ち入ることができるのは、マーレリア家の人間のみだ。
とは言っても、祠に供物を捧げたり、汚れなどを清掃したり、お祈りを捧げたり……など、毎日のその役目は、クロエ一人が担っている。
更に、マーレリア家の人間以外が祠に近付けば災いが起きると言われているため、他の者たちが立ち入ることは禁止されている。
(つまり、クロエ様だけが豪雨の次の日から、祠が土砂崩れに遭ったことを知っていたということ)
それなのに、クロエはこう言っていた。
『因みに、水龍様が暴れ始めた以前と以後で祠の様子は一切変わりませんから、今回の件とはなんら関わりはないと思いますわ』
──祠の異常のせいで、水龍が暴れているかもしれないということ。
この関連性に、確信はない。関連付けて考えられないことも不思議ではないだろう。
けれど、クロエは祠の様子は変わらないと言っていた。
土砂崩れの存在を、誰よりも早く知っていたはずなのに。
「それに、お花も……沢山ドライフラワーになってて……おかしいなって」
「ドライフラワーって、クロエ様が趣味で作っているのではないのですか?」
テティスに用意された部屋には、沢山のドライフラワーが飾ってあった。
素敵な趣味ですねとクロエにも伝えたが、ぶんぶんと首を横に振るアーシャの様子からして、何やら事情があるらしい。
「お姉様は今まで、私が摘んできたお花を毎日水龍様の祠に供えてくれていたんです。私、体が弱くてあんまりお姉様のお役に立てないから、調子がいい時にお花を摘むくらいはしたくて……。でも、豪雨の次の日から、お花をドライフラワーにするようになって」
(そういうことだったのね……)
花畑でアーシャに会った時、彼女は花を摘む理由を『……好きというか、私にはこれくらいしかできないから……』と意味深な発言をしていた。
どういう意味だろうと思っていたけれど、クロエの役に立ちたかったらしい。
しかし、土砂崩れによって祠に近寄れない状況になり、クロエはアーシャが手折ってきてくれた花をどうしようか考えたのだろう。
大切な妹が摘んできてくれた花を捨てるのは忍びなかったため、ドライフラワーにしたのかもしれないとテティスは思った。
「……ごめんなさい。テティス様たちが着た時に、祠のことをすぐに伝えなくて……。一度お姉様に祠の話をしたらはぐらかされてしまって、何か事情があるのかなって黙っていたんですけど……ノア様が水龍様に襲われたって聞いて、言わないといけないって、思って……。本当に、ごめんなさい……」
頭を下げるアーシャの肩にテティスは手を伸ばし、優しく撫でた。
「アーシャ様が気に病む必要はありませんよ。むしろ、話してくださってありがとうございます」
「テティス様……」
「ただ、何故祠の現状について黙っていたのか、クロエ様に聞かなければなりません。……アーシャ様の大切なお姉様を困らせてしまうかもしれないことを、お許しください」
今度はテティスが頭を下げる番だった。
アーシャはそんなテティスに目を見開いてから、再び大きく首を横に振った。
「秘密にしているのは、きっと苦しいから。……お姉様を、助けてあげてください」
「……分かりました」
それからテティスは、アーシャにクロエの居場所を聞いた。
彼女がヴァイゼル湖に向かったことを知ったテティスは、セドリックに状況を説明してからクロエと話をさせてもらおうと考えつつ、急いで目的地へと向かったのだった。




