20話 ノアとクロエの心のズレ
友人であり、領主の娘であるクロエが蹲っているのを放っておけるほどノアは非情になれず、テティスのもとへ向かおうとしていた足を止めた。
そして、ノアも地面に膝をつくと、クロエにどうかしたのかと問いかけた。
「急に、目眩が……っ、少し休めば治ると思うのですが……」
「屋敷の使用人たちとは一緒に来ていないのか?」
「はい……。一年に一度の『水神祭』ですから、私のことは気にせず祭りを楽しんで来るよう伝えてあります……」
ノアはどうするかと思案し、ハッとひらめいた。
「それなら、自警団の誰かを呼んで来るよ。この規模の催しならそこら中にいるだろう。屋敷なら医者もいるだろうから、連れ帰ってもらって休むといい」
「……っ、待って!」
立ち上がろうとするノアの手を掴んだクロエは、懇願するような瞳で彼を見つめた。
「この地の自警団は若い男性ばかりなんです。このような時間に、名前も知らないような男性と二人きりになるのは怖いですわ……」
「…………」
自警団に入る者は基本的に真面目で、領主に忠誠を誓っている者も多いが、中には己の欲に負けてしまう者もいる。
クロエが怖がる気持ちが全く分からないわけではなかったノアは、返答に困った。
「それに、もう少ししたら私は挨拶に回らなくてはならないのです。ですからノア様、私の体調が落ち着くまで、お側にいてくれませんか……?」
「…………」
「テティス様だって、露店を回って楽しんでおられると思いますし……。ね? ノア様、お願い……」
潤んだ瞳で上目遣いをし、甘ったるい猫なで声を出したクロエは、ノアの腕を優しく撫でる。
体調不良故に友人に頼る姿ではなく、体調不良を盾として男に縋る、女の姿のようにノアには見えた。
「……ハァ」
クロエに対し、ノアは溜め息を零す。そして、ノアは彼女の手を振り払った。
「クロエ嬢、どういうつもりなんだ」
「えっ」
「テティスを巻き込んで、一体何を考えている?」
少し離れたところには、『水神祭』ではしゃぐ人集りがあり、熱気に溢れている。
というのに、ノアの声は酷く冷たかった。それは、テティスに向ける者とはもちろん、仲間に向ける者とも違う。
「な、何って……っ、私はただ、目眩で……」
「あまりこんなことは言いたくないが、それは咄嗟についた嘘だろう? 俺がテティスを追おうとしたから」
「……!」
ノアが確信めいた声で指摘すると、クロエの顔はさぁっと青ざめた。
「この広場に来る前から、テティスは何か考え込んていて様子が変だった。だから、何かあるのかと心配をしていけれど、案の定これだ。……さっきテティスがこの場を立ち去ったのは、君がそうするよう指示したんじゃないのか」
テティスの表情や雰囲気からして、クロエに脅され、無理矢理この場を立ち去ったわけではないのだろう。
しかし、テティスは『水神祭』を楽しみにしていた。いや、自惚れてもいいのならば、自分とともに周ることを楽しみにしてくれていたようにノアは思えた。
だから、テティスがこの場を立ち去ったのは本人の意志だけでなく、クロエの言動が関係していると感じたのだ。
「……で、どうなんだい? 本当は君を放っておいてテティスを追いかけたいが、テティスがこの状況を少しは望んでいるかもしれないことを汲んで話くらいは聞こう」
「……っ、あの、私……」
恐ろしいのか、ギクリと肩を揺らすクロエに、ノアは小さく息を吐きだした。
(我ながら、幼い頃の友に向ける言葉じゃないな)
それに、クロエは領主の娘だ。敬うとまでいかずとも、決して軽んじて良い相手ではない。
だが、ノアは苛立っていたのだ。
クロエがテティスを利用してこの場を作り上げたことに、テティスとのデートを邪魔されたことに、そして、自分がそれを事前に阻止できなかったことに。
(テティスは今頃一人で──。大丈夫だろうか)
テティスへの心配が募る中、ノアはクロエに鋭い視線を送る。
すると、彼女はゆっくりと立ち上がり、二人の視線が交わった。
「実は、二人で話したいことがあったのです。……ですから、テティス様にご協力をお願いしました」
ときおり声を震わせながら、クロエは必死に言葉を噤む。
この言葉はおそらく本当なのだろうと、ノアは頷いた。
「それは分かった。だが、わざわざ今じゃなくても良いんじゃないのか? これまでも二人で話す機会は作れただろう?」
「……そ、それは、その……勇気が、出なくて」
「…………勇気ね」
その割には、腕に絡みついてきたり、テティスと会話に割り込んできたりしたものだが。
ノアはそう思ったけれど、今は話を聞くべきかと口に出すことはなかった。
「それで、話とは何だい? 済まないが手短に頼むよ」
ノアのその発言にクロエはこれでもかと眉尻を下げると、両手で顔を覆い隠した。
「私、ノア様にずっと謝りたかったのです……!」
「……謝罪って?」
「幼かった頃、社交界シーズンが終わりに近付くにつれ、私たちが話さなくなったことには理由がありますの……」
タイミングが合わない、もしくはクロエには別の友人ができたからだと思っていたノアは、彼女の言葉に耳を傾けた。
「オッドアイは不吉の象徴だからノア様には近付いてはならないと両親に言われ、私はそれを鵜呑みにして、貴方を避けたのです……」
「!」
「私は最低なことをしてしまいました。ノア様を傷付けてしまったことが本当に申し訳なくて……っ、ごめんなさい……っ」
声色や深く頭を下げる様子から、クロエが本当に申し訳なく思っていることが伝わってくる。
ノアの鋭い眼差しが、僅かに柔らかくなった。
(なるほど。そういうことだったのか)
クロエと話せなくなったことしかり、彼女がテティスにノアと二人きりで話す時間を設けて欲しいと頼んだことしかり、理由が分かった。
確かに、この話をするにはかなりの勇気が必要だっただろう。もしかしたら激昂されるかもしれない、と恐ろしささえあったかもしれない。
「わざわざ話してくれてありがとう、クロエ嬢」
「ノア様……!」
手を退け、バッと顔を上げたクロエと目が合う。
彼女の勇気に応えなければいけないからと、ノアは穏やかに微笑んだ。
「だが俺は、傷付いていないし、気にしていないよ」
「えっ……」
「確かに、当時は君と話せなくなったことが不思議だった。だが、その理由なら仕方がないさ。君のご両親がそう思うのも何らおかしいことじゃないし、気にしなくていい」
「け、けれど、私のせいでノア様のお心に傷を……っ」
まだ罪悪感が晴れないのか、クロエは眉尻を下げたままでいる。
そんな彼女に、ノアは優しい声で言葉を続けた。
「問題ない。オッドアイを持つゆえの寂しさや心の傷は、テティスが癒やしてくれたから」
「……!」
「テティスがいてくれたから、俺は君と話さなくなってからも、ずっと幸せだった」
ここまで言えば、クロエの罪悪感を消し去ることはできるだろうか。そんな思いから、ノアは言葉を紡いだ。
「だから、本当に気にしないでくれ。むしろ、今まで気にかけさせてしまって済まなかった」
「……そんなに、テティス様が特別なんですか?」
テティスは魔力が少なく、無能だと蔑まされていた。
だというのに、膨大な魔力を要らないというノアに苛立つでもなく、恨むでもなく、ノアの気持ちを汲んだ上で、沢山の人を救える素晴らしい才能だと教えてくれた。
あの時のテティスのキラキラとした瞳と、美しく、清らかな心。再開してからも変わらない可愛らしい笑顔に、美味しそうにイチゴのケーキを食べる姿、絶対に夢を諦めずに必死に努力する姿と、誰かを助けたいという強い思い。
「ああ、特別だよ。俺にはテティスしかいない。……俺はテティスを愛してるんだ」
幼かった頃のテティスを、そして現在の彼女を頭に思い浮かべたら自然を頬が緩んでしまう。
一方で、クロエの瞳には影が指した。
「……っ、そう、ですか。分かりましたわ……。お話を聞いてくださり、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。それじゃあ、俺はテティスのところに行くから」
愛おしいテティスに、早く会いたくて堪らない。
ノアは足早にクロエのもとから離れ、人混みの中に消えていく。
「何よ、それ……」
クロエの悔しそうな呟きは夜の空気に溶けていき、ノアの耳に届くことはなかった。




