13話 真夜中、ヴァイゼル湖で二人きり
ノアと二人でヴァイゼル湖を警戒し、およそ一時間が経った頃。
夜空には満天の星が煌々と輝いている。湖面に映る月の美しさにうっとりしそうになりながら、二人は湖の近くにある木の幹に横並びで背中を預け、地面に腰を下ろしていた。
「テティス、食事休憩にしようか」
「そうしましょう!」
テティスは持っていた茶色のバスケットを開け、その中に入っている軽食を見て頬を緩めた。
「ノア様、とっても美味しそうですね……!」
香ばしいバゲットがいくつか入っている。その全てに切り込みが入っており、チーズやハム、トマトや緑が鮮やかな葉野菜が挟まれている。
バゲットの隙間にはカットした果物が敷き詰められていて、なんとも美味しそうだ。
(本当にありがたいわ……)
これはつい数分前、魔術師の一人がテティスとノアのために届けてくれたものだ。
屋敷に帰ってから、クロエを通じてシェフに軽食を作ってもらうよう頼んでくれていたのである。
その際にオイルランプもいくつか運んでくれたので、夜空の下でも食事には困らなかった。
「ああ、美味しそうだね。この短時間にここまでの食事の準備をしてもらえるとは思わなかったな」
「本当ですね。ノア様、どうぞ」
「ありがとう」
ノアの手にバゲットが渡ったことを確認したテティスは、今度は自分も一つ手に取る。
そして、自身の横にバスケットを置いて、ノアと目を見合わせた。
「「いただきます」」
パリッとも、カリッともしているバゲットは、一口食べただけで小麦の香りが口いっぱいに広がった。
もう一口食べれば、今度はそのバゲットに具材の旨味や瑞々しさが加わる。
テティスは蕩けてしまいそうなほど緩んだ表情で頬を押さえた。
「香ばしいバゲットとジューシーなハム、シャキシャキとしたお野菜が堪りません〜!」
「テティスの美味しそうに食べる表情が可愛すぎる……。食べてしまいたいくらいに可愛い……」
「ノア様、私を食べても美味しくないかと」
「鈍いテティスも可愛い。大丈夫だよ、物理的に食べるわけじゃないから。結婚したら詳しく話すよ」
「? はい」
それから二人は湖に対しての集中力を途切れさせないようにしつつ、食事をとりながら話に花を咲かせた。
最も盛り上がったのは、数カ月後に挙げる結婚式のことだ。
テティスのドレスについてはもちろん、ブーケはどのようなものがいいか、ベールの長さはどうするか、など話題は尽きなかった。
ノアは自分の正装服に対してはテティスを引き立てられるようにとしか考えておらず、わりと無沈着だったが、テティスのことに関しては真剣そのものだった。
「ねぇ、テティス」
そして食事を終えると、ノアはどこか真剣な声色で囁いた。
「皆の前ではああ言ったけど、二人きりになれたことが嬉しくてしょうがないんだ」
「……!」
「やっとテティスを独り占めできる」
ノアはテティスの髪の毛を一束掬うと、優しく口付けた。
テティスは一瞬で、湯上がりの時のように体が熱くなる感覚を覚える。
(私、こんなに幸せで良いのかな)
長年の夢だった結界魔術師になれただけでも奇跡だというのに、好きな人にこんなに愛してもらえるなんて……。
これが夢ならば一生醒めてほしくない。そう思うほどに、幸せで堪らない。
「私も、ノア様を独り占めできて嬉しいです」
ノアを見つめながら素直な気持ちを口にすれば、ノアは「うっ……!」と言いながら自身の胸を押さえた。
「この世の理を覆すほどの破壊力だ……」
「破壊力?」
「……テティスが好きすぎるって話だよ」
「えっ、あ、ありがとうございます……? 私もノア様が好きです」
「グハッ……!」
ノアはそれから、しばらく胸を押さえて悶絶した。
テティスはノアを心配しつつも、ヴァイゼル湖への警戒を続けたのだった。
「ノア様、大丈夫ですか?」
「うん……。ハァ……ハァ……。本当に天国へ行ってしまうところだった……。ハァ……ハァ……」
ノアが冷静さを取り戻したところで、テティスはヴァイゼル湖を見ながら口を開いた。
「何故、水龍は暴れるのでしょうね」
「……理由は分からないが、先日起きた豪雨が水龍の怒りによるものだと言う人は多いね。テティスはどう思う?」
「正直、私はあまりそう思えなくて」
「それはどうしてだい?」
水龍は水を好むが、雨などの天候を司る力は持ち合わせているとは、どの文献にも書かれていない。
だからといって、それが完全な否定材料になるかと言われればそうではないけれど、テティスには一つ思うところがあったのだ。
「昼間、水龍が姿を現して暴れている時、怒りよりも悲しみを感じたんです」
「悲しみか……。確かに、あり得ない話ではないね」
水龍と言葉がかわせない以上、表情や咆哮、行動からその意図を読み取るしかない。
多くの者には怒りが原因のように映ったかもしれないが、テティスの意見も的外れではなかった。
「まずは、明日にでも領民に聞き込みをしてみようか。この様子だと水龍はしばらく大人しくしていそうだから、この場は何人かに任せておけば良い。マーレリア領はかなり小さいから、何かあってもすぐに駆けつけられるしね」
「はいっ!」
「なんにせよ、テティスはあまり心配したり、考えすぎないように。分かった?」
ふわりと微笑みながら、ノアはテティスの頭にぽんと手を置く。
安心させてくれる、優しくて大きな手。こちらを気遣うような言葉と、穏やかな声色。
(ノア様は、筆頭魔術師として、婚約者として、いつも私を支えてくださる。私にも何かできることはないかな)
テティスはノアに礼を伝えてから、良い方法はないかと思案する。
「そうだわ……!」
「どうしたの? テティス」
そして、それは不意に思いついた。
いちごのショートケーキを食べた時のように華やかな笑みを浮かべるテティスに、ノアは困惑の視線を送った。
「ノア様、もしも私──術者がいなくてもヴァイゼル湖に結界を張り続けることができれば、今回の任務がとても楽になりませんか!?」
「……! 常に結界さえあれば、水龍がいつ暴れても湖の周辺や領民に被害が及ぶことはないから、ということかい?」
「その通りですわ……!」
結界魔術とは、術者が手の周りに魔力を留め、それを薄く薄く引き伸ばすことで発動する。
結界魔術が発動している間、常に術者は魔力を注がなければいけないことがこれまでの常識だったのだが、テティスはふと思ったのだ。
「結界魔術は魔力量はもちろん、術者のイメージがとても大切なんです。ですから、結界を作る時に結界内で魔力が循環するイメージを持って発動すれば、結界の強度の限界を超えるような衝撃が加わるまでは、かなりの時間、結界を維持できるのではないかと……!」
「なるほど……。確かにそれが実現すれば、この任務はおろか、これから多くの人の助けになる」
魔物の拠点に結界を張り、その中に魔物を留めるのもよし。人里に結界を張り、魔物が侵入しないようにするのもよしだ。
「とはいえ、思いついただけなので、まずはできるのかやってみないと!」
テティスは両手でグッと拳を作ってから、勢いよく立ち上がった。
ノアもすかさず立ち上がると、テティスの頬をそっと撫でた。
「分かった。だが、初めてのことだから、もしも何か異変を感じたらすぐにやめること。結界の維持は素晴らしいことだけど、テティスの安全が一番大切だからね」
「分かりました!」
テティスとノアはヴァイゼル湖のすぐ近くまで歩いていく。
そして、ヴァイゼル湖に向かって、両腕をピンと伸ばした。
(結界内で魔力を循環させる。循環……循環……)
脳内でイメージを作りながら、手から魔力を流す。
そして、ヴァイゼル湖を囲む結界ができあがったのを確認したテティスは、魔力を注いでいた自身の手をゆっくりと結界から離した。
(お願い、一瞬でいいから、結界の形を維持して……!)
そう願いながら、テティスとノアは結界をじっと見つめる。
そして一秒、二秒……十秒……一分と経過が経過した、のだけれど。
「え、嘘……。もしかして、成功……?」
「テティス! 君は本当に凄い……!」
結界が破れたり消滅する様子はなく、ノアに抱き締められたテティスは、あまりの驚きに空いた口が塞がらなかった。




