10話 水龍との対面
目の前に広がるのは、新緑の木に囲まれた、大きな湖。
太陽の光が反射したキラキラとした水面。まるで底が見えそうなほどに透き通った、緑色に近い水の色。
テティスは湖の間際に近寄り、ジッと底を覗き込む。
「さすがに水龍は見えないわね……」
水龍は湖の最も奥に住処を作っている。これだけ透明ならばもしかしたら水龍が見えるのではと思ったが、それは叶わなかった。
水龍が棲まうくらいだから、よほど水深は深いのだろう。
「テティス、あんまり覗き込むと湖に落ちてしまうよ」
「きゃっ」
背後からお腹に腕を回されて引き寄せられる。
聞き心地の良い低い声と、これまで何度も抱き締めてくれた逞しい腕をテティスが間違えるはずがなかった。
「ノア様……!」
「俺が付いてて、テティスに危険が及ぶような真似にはならないけどね。とはいえ、水龍がいつ暴れ始めるか分からないから、少し距離を取ろう」
「は、はい!」
ノアに抱き締められるようにして、テティスは湖から少し離れる。クロエはというと、湖から少し離れたところでこちらを見ていた。
それからテティスはノアに礼を伝えると、彼は腕を解いて、夜通しヴァイゼル湖の警戒を行っていた魔術師たちに異常はなかったかと問いかけた。
「水面が激しく揺れる様子もなく、水龍が現れる気配はありませんでした」
「そうか、ご苦労だった。お前たちはマーレリア領主の屋敷に戻り、休息を取れ」
「「ハッ!」」
数名の魔術師たちが近くの木に繋いでおいた馬で屋敷に向かうのを見届けた後、テティスは再び湖へと視線を戻した。
(信じられないくらいに穏やかね……)
ヴァイゼル湖の水面は、昨夜の報告と同じく大きな揺れはない。
肌を撫でる温かなそよ風や、囁くような葉音がとても心地良くて、任務のためにここを訪れたことを忘れそうになるほどだ。
「ん? あれは……」
ノアが魔術師たちをどの位置に配置しようかを思案している時、テティスははたと気付いた。
ここから見て湖の左側。その一角だけ木が少なく、何やら小道になっているように見えるのだ。
「あの、クロエ様、少しよろしいですか?」
「何ですか?」
テティスはクロエのもとに駆け寄ると、気になった箇所を指さしながら問いかけた。
「あの場所のことなんですが……。もし道になっているのなら、どこに繋がっているのか気になって。申し訳ありません、水龍とはあまり関係のないことかもしれませんが」
「いいえ。あの道の先には水龍様に所以がある場所に繋がっています。皆様に知っていてほしいので、ノア様に声をかけてきますわね」
クロエはそのままノアのもとに行き、「皆様に聞いてほしい話がある」と話した。
ノアは魔術師たちを湖の周辺に散るよう指示しようとしていたが、それを一旦取りやめて皆を集める。
そして、テティスも含めた全員で、クロエの話に耳を傾けた。
「まずは皆様、あちらをご覧ください」
クロエは再び、先程テティスが指摘した方向を指さした。
「あの木が少ない箇所……あそこは、小道の入口となっていて、しばらく進むと水龍様を祀る祠がございます」
祠は一般的に亡くなったものを祀るが、クロエが話す祠は水龍がヴァイゼル湖に棲み始めた頃からあるという。
この土地の守り神となってくれた水龍への感謝の気持ちを忘れないため、そしてこれからもこの土地を守ってくださいという思いから作られたそうだ。
「水龍様の祠は、この領内で最も神聖な場所とされており、あの入口より奥は立入禁止になっております。祠の管理のため立ち入ることができるのは、そのお役目を代々受け継いできたマーレリア家の人間だけです」
これは領民ならば誰でも知っている決め事であり、先に派遣された魔術師たちにも既に伝えてあるという。
今屋敷に戻った魔術師たちにも、昨夜ここに来る直前、屋敷の者が伝達してあるようだ。
「マーレリア家の人間以外が祠に近付けば災いが起きると言われているため、必ず遵守してください」
「……つまり、たとえ調査のためであっても、俺たちが祠に立ち入ることは絶対に叶わない、ということか?」
クロエはニコリと笑みを浮かべ、首を縦に振った。
「その通りですわ、ノア様。水龍様の祠に供物を捧げたり、汚れなどを清掃したり、お祈りを捧げたり……。もちろん何か異常がないか、不法侵入者がいないかなどの確認も、毎日私が行っておりますのでご安心くださいませ。因みに、水龍様が暴れ始めた以前と以後で祠の様子は一切変わりませんから、今回の件とはなんら関わりはないと思いますわ」
「……そうか、分かった」
ノアは祠へと繋がる入口を見ながら、考え込むような表情を見せた。おそらく、祠のことが気がかりなのだろう。
(水龍を祀る祠。そこに特定の人物以外が近付くと災いが起きる、ね……)
信じがたい話だ。
しかし、もしもそれが本当ならば、誰かが祠に近付いてはいけないという禁を破り、その結果水龍が怒りを露わにして暴れ始めたとも考えられる。
ヴァイゼル湖の観光客には必ず一人案内役がついて、祠の方には近付けさせないらしいが、目を盗んで……という可能性もないわけではない。
(とはいえ、それも憶測の域を出ないわ。それに、クロエ様がここまで仰るんだもの。確信もなく、まだ調査が進んでいない状況で強硬手段に出るわけにはいかない)
更に、もしもテティスたちが祠に近付いたことが原因で、何かしらの災いが起こらないとも限らない。
領民の安全を第一に考えるのならば、避けるべきだろう。
(多分だけれど、ノア様も同じように考えているはず……)
だから、気がかりであることを口にしないのだろう。
「さて、祠について理解した者は、さっきは説明した場所に配置についてくれ。湖の周辺に異常がないか細かく探り、時間になったらまたここに集まるように」
「「「ハッ……!」」」
それから、二人一組になって湖の周りに調査することになった。
クロエにはノアと、テティスがつくことになっていた、のだけれど。
「ノア様……! 水面を見てください……!」
視界の端に水面のおかしな揺れを捉えたテティスは、湖を指さす。
まだ近くにいた魔術師たちにも聞こえたようで、皆が水面を凝視し、そして目を見開いた。
「風はほとんど吹いていないのに、水面が揺れてる……! ノア、まさかこれ……」
「ああ。そもそも揺れ方が変だ。まるで下から何かが付き上がるような……。これは……来るぞ!」
ノアの言葉を合図に、湖は大きなうねりを見せ、皆が一斉に距離を取る。
そして、次の瞬間だった。
「グォォォォォォ!!」
耳を塞ぎたくなる程の咆哮を上げながら、水龍が姿を現したのだった。