8話 それは確信めいたもの
テティスがクロエと話している頃、ノアは用意された部屋のソファに体を預け、寛いでいた。
「ふぅ……」
皆の前では平然とした態度でいたけれど、マーレリア領地までの道のりにノアの体は疲弊していた。
昨日の深夜に皆を巻き込んで魔術の実践訓練を行った影響と、寝ずの番をしていたからだ。
本来ならば寝ずの番はノアの部下たちが担当するはずだったのだが、ノアが強行した訓練により彼らが死んだように眠ってしまったからである。
そんな彼らを叩き起こすほどノアは鬼ではなかったし、疲弊させたのは自分のせいだ。
更に、テティス──好きな女性の隣で平然と眠れるほどノアは神経が図太くなかったため、昨晩は一睡せずに今に至る。
「それにしても、まさかクロエ嬢に会うとは……」
約十年前、人生で初めてできた友人──クロエ。
ノアが隣国への留学していたことで、今日まで一度も彼女と会うことはなかった。
文通などもしていなかったため、幼い頃の記憶はどんどん風化していき、正直ここ数年はクロエのことを思い出すこともなかった。
クロエがマーレリア領の領主の娘であることも、彼女が名乗ってくれた際に、そういえばと思い出したくらいだ。
(自分がこんなに薄情な奴だとは知らなかったな。テティスとは一度しか会っていないが、再会するまで一日たりとも彼女のことを忘れた日はなかったのに)
クロエの印象が薄いわけではない。
おそらく、テティスの印象があまりに強過ぎたのだ。初恋とは、自分で思っている以上に心に刻み込まれているのだろう。
とはいえ、テティスを愛しているのは初恋の相手だからというわけではない。
婚約を打診した際は、初恋の相手に近付きたい、テティスを不遇な環境から救ってあげたいという思いが強かったけれど、今はそうではなかった。
(テティス……)
美味しそうに料理を食べる姿や、恥ずかしくなると顔を真っ赤にするところ、それに使用人や誰に対しても優しいところも。
結界魔術師になる夢を諦めずに、ひたむきに努力を続け、夢を叶えた今でも努力を怠らない姿も。
困ったり、悲しんだりしている人に対して、当たり前のように手を差し出し、救ってしまうところも。
(愛おしくて、仕方がない)
紆余曲折あったものの、そんな彼女と思いが通じ合えたことにノアは心から喜びを感じている。大切にしたい、幸せにしたいと強く思っている。
けれど、テティスが魅力的であるからこそ、どうしたって彼女に心を奪われる者もいるわけで──。
「ノア、少し時間ある?」
愛おしい人のことを思い浮かべていると、男性にしてはやや高い声が扉の前から聞こえた。声からしてセドリックだ。
「何のようだ」
「話したいことがある。入るよ」
セドリックはノアの返答を待つことなく入ってくると、ソファに座るノアを見下ろした。
「セドリック、俺は入室の許可をしていないんだが」
「今更でしょ、そんなの」
セドリックもノアと同様、魔術の勉強のために留学していたことがある。その留学先がノアと同じだ。
互いの両親が知り合いだったことと、学園の寮の部屋が隣だったことから自然と仲良くなった。
「……で、何の話だ。手短に話せ」
「あの女──クロエ・マーレリアってどんな奴? 良い奴なの?」
「は?」
突然部屋に押しかけてきて何を聞くのだろう。
ノアは訝しげな表情を見せた。
「何故そんなことを聞くんだ? 何かあったのか?」
「……いや、そうじゃないけど、気になって」
「…………」
セドリックは親しくない人間には比較的攻撃的な性格だ。それこそ、テティスにも初めは悪態をついていた。
だが、こんなふうに特定の人物を探る姿を見たのは、これが初めてだった。
「……いっときクロエ嬢とよく話していたが、もう十年前のことだ。その頃の印象でいうと、明るくてよく喋る女の子。現在の彼女についてはよく知らない。相変わらずよく喋り、昔のことをよく覚えているなと思ったが」
「……じゃあ、あの女がノアのことを好きな可能性ってあると思う?」
「は? 何なんだ、次から次に……」
セドリックの表情から、興味本位で聞いていないことは分かる。
男同士で恋の話に花を咲かせたいわけではないのだろう。
ノアは小さく息を吐き出し、窓の外を眺めながら答えた。
「……あるかもしれないな。テティスが知らない過去の話を広げようとしていたし。他にも思うところはあった」
「…………」
「とはいえ断言はできない。それに、クロエ嬢は領主の娘だ。水龍の調査には彼女が協力的な方がスムーズに事が進むだろうから、ここに滞在する間はあまり関係を悪くしたくない」
ノアの発言に、セドリックは顔を歪めた。
「それはつまり、もしあの女がノアにアプローチしてきても、拒否しないってこと?」
「誰もそんなこと言ってないだろ。俺はテティスしか欲しくないし、テティス以外から好意を向けられても何も感じない。むしろ俺とテティスの邪魔をするかもしれない危険対象として認識するわけで、告白なんてされようものならバッサリ切り捨てる」
「いや、それもどうなの」
酷い奴だと言わんばかりに、セドリックは軽蔑の目を向けた。
「だが、今回は俺なりに、できるだけ丸く収まるように善処すると言ってるだけだ」
「……でも、テティスはあんまり良い気しないんじゃないの。ノアの態度に不安になったりするかもしれないじゃん」
「それも考えた。……だがテティスは、俺が必要以上にクロエ嬢を拒否して、彼女が傷付くことを望まない」
それだけは、確信めいたものがあった。
もちろん、テティスの気持ちを蔑ろにするつもりはない。どころか、ノアにとって最も大切なのはテティスだ。
「できるだけ不安にさせないよう、テティスにはしっかりと言動で愛を伝える。セドリック、お前の意見はもっともだが心配いらないよ」
ノアは窓の外からセドリックに視線を移し、続け様に口を開いた。
「お前がテティスのことをここまで心配するとはね」
「……! 別に……。深い意味はないけど」
「へぇ、そうか。……まあ、お前がそう言うのなら、それで良いけどね」
ノアがそう告げると、セドリックは「話は終わり。じゃあね」と言って、そそくさと部屋を出ていった。
すぐさまバタン、という扉の閉まる音が聞こえたことから、用意してもらったここの隣の部屋に戻ったのだろう。
「セドリックの奴……」
一人きりになった部屋で、ノアはポツリと友の名前を呼ぶ。
少し攻撃的で、素直じゃなくて、けれど、実は仲間思いで世話好きな、自慢の友。
「絶対テティスに気があるな……。ハァ……」
ボスンと、ノアは倒れるようにソファに横になる。
さっきまで横になったらすぐに落ちてしまいそうなほど眠かったのに、眠気なんて欠片も失くなってしまっていた。