3話 夜中の来訪
同日。サヴォイド公爵邸の自室でテティスがふと時計を見ると、既に夜の十一時を超えていた。
(さすがに寝ようかしら……)
結界魔術師としての仕事に加え、約三ヶ月後に控える結婚式の準備が忙しく、時にはベッドに入るのが日付を超えてしまうこともある。
寝不足が原因で仕事をおろそかにするわけにもいかないため、テティスはベッドに向かおうとソファから立ち上がった。
「テティス、起きてる?」
すると、扉の向こう側からノアの声が聞こえたので、テティスはパタパタと駆け足で入口の方に向かい扉を開いた。
「ノア様、お仕事お疲れ様です。もしかして、今お屋敷に戻られたのですか?」
未だに白いローブを羽織っていることからそう予想したのだが、どうやら当たっていたらしい。
テティスにソファに座るよう促されたノアは少しだけ疲れた顔をして、コクリと頷いた。
「水龍の調査のために俺が王都を抜けるとなると、色々と確認事項が多くてね。こんな時間になってしまったんだ」
「そうだったんですね……。あっ、お茶をお淹れします!」
「いや、良いよ。もう夜も遅いし、用件を伝えたら私室に戻るから。テティスも座って」
「分かりました……って、えっ」
ノアの隣に座ろうと思っていたテティスだったが、彼の姿にピシリと体が固まった。
何故なら、ノアがおいでというように両手を広げているからだ。しかも、満面の笑みで。
「テティス、早く座ってくれ。そうしないと話ができないだろう?」
「え、あの、ちょっと待ってください、ノア様! そのポーズは一体……」
「ん? もちろん、俺の膝の上に座ってほしいっていう意味だよ」
「な、何故ですか……!?」
こんなに夜遅くまで仕事して、ろくに休まずこの部屋に来たのなら、相当ノアは疲れているはず。
だというのに、そんなノアの上にテティスが乗ってしまったら、彼の疲労が増すばかりではないだろうか。
ノアの婚約者としてそれはいただけないと、テティスは首を横に振った。
「テティスが膝の上に乗ってくれたら、疲れが吹っ飛ぶと思うんだけどな」
「どういう原理ですか……!」
「ん? 俺の場合は、愛する人がくっついてくれたら、体も心も癒やされるんだ。テティス、だめ……?」
「……っ」
甘い声に加え、縋るような目で見つめてくるノアに、テティスは言葉が詰まる。
(こ、こんな目は反則よ! それに聞き方もずるいわ!)
ここまで甘えた様子のノアを見るのは初めてだ。つい、可愛いなんて思ってしまった。
もしかしたら、想像していたよりも、うんと疲れているのだろうか。
(だったら今私にできることは、少しでもノア様の疲れを取り除いて差し上げること。──そのためならば自身の常識は捨てて、ノア様の要求を早く叶えてあげなきゃ!)
テティスは「よしっ」と呟くと、ノアの両肩にそっと手を置いた。
「あ、あの! 失礼いたします……!」
そして、その掛け声と同時に、できるだけノアの負担にならないように彼の膝の上に向かい合わせで腰を下ろした、のだけれど。
「えっ」
「え?」
真正面にあるノアから上擦った声が漏れたことに、テティスは驚いた。
(言われた通り膝の上に乗ったのに、何故こんな反応を?)
しかしその疑問は、頬を朱色に染めたノアの言葉によって解決されることになった。
「……まさか、向かい合わせで座ってもらえるとは思わなかった」
「あっ……!」
確かにノアは膝の上に座ってほしいと言っていたが、向かい合わせにだなんて言及していなかった。
おそらく彼の様子から察するに、テティスがノアに背中を預ける形で座ると予想していたのだろう。
しかし、テティスは違った。
話をするために膝の上に乗るのであれば、顔を合わせたほうが良いだろうという考えから、そもそも選択肢がなかったのだ。
「も、申し訳ありません、ノア様……! ……あ、あれ?」
向きを変えなければと、テティスは慌ててノアの上から一旦退こうとしたのだが、不思議と体がびくともしない。
ノアの両腕が自身の腰に回されていると気付くのには、そう時間はかからなかった。
「離れていかないで。こうやってテティスとくっつけて、近くで顔も見られるなんて幸せなんだ」
「〜〜っ」
「はは。耳まで真っ赤になってる。可愛いね──」
テティスは羞恥心が限界を迎え、両手で顔を覆い隠した。
しかし、次の瞬間、そんな自身の手の甲に一瞬感じた温もり。
それがノアの唇であることは疑う余地はなく、テティスはゆっくりと手を逸らして目の前の男性を弱々しく睨み付けた。
「……っ、ノア様、意地悪です」
「こうすれば、テティスが可愛い顔を見せてくれるかと思って。ごめんね?」
「も、もう……!」
唇を尖らすテティスに対して、ノアは嬉しそうに喜びの花を飛ばす。
「ずっとこうしていたいけど、時間も遅いから本題に入るよ」
「は、はい。お願いします」
ノアはテティスの腰を手を回したまま、真面目な声色で話し始めた。
「水龍の調査に向かう日程が決まった。来週に出発して、滞在は一週間の予定だ。一度魔術省に出勤してから、皆とともに馬でマーレリア領地に向かう。到着までは一日くらいかかるから、おそらく野宿することになると思うけど、大丈夫そう?」
「もちろんです!」
アルデンツィ伯爵家内でテティスは虐げられていたが、一応部屋は与えてもらっていた。
結界魔術師になってからも運良く日帰りできる距離にしか出向かなかったので、これまで彼女は野宿の経験がなかったのだ。
(野宿ということは、食事も自分たちで作らないといけないわよね)
実家では料理をしていたので、多少の戦力になれるはず。しかし、屋敷内と外とでは、料理といっても勝手は違うのだろう。
「皆様にご迷惑をおかけしないよう、野宿について可能な限り勉強しておきます!」
「テティスのそういう何にでも一生懸命で頑張りやなところは大好きだけど、大丈夫だよ。仕事の関係上、別件でも野宿することがあるだろうから、こういうことはゆっくり慣れていけばいい」
「そういうものですか……?」
「ああ、気負わなくていいよ」
ノアに頭を撫でられ、テティスはふにゃりと頬を緩ませる。
「それと、皆で交代でヴァイゼル湖の周辺の警備や調査に当たるから、自由時間も取れると思う。せっかくだから、マーレリア領内をデートしよう」
「よ、よろしいのですか? 任務として向かいますのに」
「他の連中にも自由時間は好きなように過ごして構わないと伝えてあるから問題ないよ。ま、羽目を外したり、任務に支障が出ないようにとも言ってあるけどね」
「分かりました! そういうことでしたら……!」
ノアとともに他領を回るのは初めてだ。最近は互いに忙しくろくにデートもできていなかったので、テティスは彼の提案に胸が躍った。
もちろん最重要なのは任務だけれど、楽しみに思うくらいならば天罰は下らないだろう。
「ノア様、任務、頑張りましょうね!」
右手で拳を作り、意気込むテティスにノアはふっと微笑んだ。
「そうだね。じゃあ、俺はそろそろ私室に戻るから……最後に──」
「えっ」
ノアはテティスの腰に回していた手の片方を彼女の後頭部に添えて、ゆっくりと顔を近付けた。
「昼間の続き、一回だけしてもいい?」
「んっ」
返答を待たずに口を塞がれたテティスは、内心で確認の意味がなくないかしら!? と思ったものの、柔らかなそれを受け入れた。