11話 ノアの惚気と怒り
二人きりのお茶会の日の夜。
ようやく仕事が終わり、自身の屋敷へと帰ろうとするリュダンを捕まえたノアは、半ば無理やりソファへと座らせた。
片手には酒のボトルを持ったノアは、有無を言わさぬ瞳でリュダンに視線をやる。
「ノア、悪いが今日は疲れてるんだ……」
「一杯付き合え。上司命令だ」
「職権乱用で目も当てられないな」
そう言いつつも、付き合いの長いリュダンには分かっていた。
こうやってノアが酒を誘ってくるときというのは、何か話したいことがあるのだと。
ノアもノアで、リュダンが自身の要求を飲んでくれることは分かっているので、彼の好きな酒を自らグラスに注ぎ、そっとローテーブルに置く。
自身も同じ酒を一口呷ってから、愛おしい人のことを思い出しながらノアは口を開いた。
「実はなリュダン。何故俺が婚約を申し入れたのか、テティスは知っているみたいなんだ」
「ほう、つまり?」
「察しが悪いな。つまり、十年前のあのことをテティスは覚えていてくれたってことだ」
「嬉しくて発狂しそうだ」という声は淡々としているのに、ノアの頬はテティスのことを話すたびに緩んでいく。
カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
「そりゃあ、良かったな。十年前となると、当時ノアは八歳とかか?」
「ああ、当時テティスは七歳だったんだが、今思い出しても天使のような可愛さだった」
今と変わらぬ菫色の美しい髪の毛に、素朴さの中にキラリと光る上品さがある面持ち。ふんわりと微笑む姿なんて、本物の天使が霞むほどの美しさだった。
そこに十年という月日が重なると、洗練された美しさが纏われているテティス。
あまりに魅力的な姿に成長したテティスに、ノアは十年越しの対面に胸が痛いほどに高鳴ったのは記憶に新しい。
「久々に再会したら、美しさに磨きがかかっていて本当に驚いたよ。ドレスは何を着ても似合うし、甘いものを食べる姿は俺が彼女を食べてしまいたくなるくらいに可愛いし、今日なんてあんなに積極的に声をかけてくれて……」
ふわりふわりと花を飛ばすようにして語るノアに、リュダンは片側の口角を上げて、呆れたように声音を漏らした。
「二個目のやつ、ツッコんだ方が良いか?」
「事実なんだから仕方がないだろう」
「……はいはい」
「それに、テティスは努力家で凄いんだ。毎日毎日、夢のために努力を絶やさずに──」
そこで、プツン、とノアの言葉が途切れた。
「…………ノア?」と、酒を呷っていたリュダンが不思議そうに声をかけると、先程までの柔和な雰囲気から一転して、尋常ではなく殺気立ったノアの眼光がそこにはあった。
おもむろに立ち上がり、窓の外にその視線を向けたノアが、ゆっくりと口を開く。
「──それなのに、どうしてそんなテティスが、無能だと罵られ、酷い扱いを受けなきゃいけないのか」
リュダンがテティスの護衛のためにアルデンツィ伯爵家へ行ったとき、見送りは誰も来なかった。
サヴォイド邸で自身の部屋に案内されたテティスは、壊れたものがないと喜んでいた。
これらのことをリュダンとルルから聞き、そしてノアは、「こんな素敵なドレスは着たことがない」というテティスの発言を自ら耳にした。
「分かっていたつもりだった。テティスが姉と比べられて、実家で肩身が狭い暮らしをしていることも、頼る人がいないことも」
貴族界隈には知れ渡るほど、テティスはヒルダと比べられて軽んじられてきた。その中でも家族たちの存在は、彼ら彼女らの言葉や態度は、テティスにとって一番辛かっただろう。
ノアは、それを分かっていたけれど、直ぐにテティスに手を差し出すことは出来なかった。
「仕方がないだろう。二年前、ノアの両親──前公爵と夫人が不慮の事故で亡くなるまで、お前は隣国に留学してたんだ。学園で魔法の勉強をするのも忙しかっただろうし、物理的に距離があるんじゃあ、助けたくてもどうしようもないだろ」
リュダンのその言葉は事実だ。しかし、ノアは三日月の薄っすらとした光しか差さない外を見ながら、下唇を噛み締めたままだった。
「それに、アノルト王国に戻ってきてからは父親の代わりに直ぐに公爵の爵位を継いで激務だったし、同時に筆頭魔術師も兼任しているんだ。いくらテティスのことが気掛かりだったとしても、手が回らなかったのは仕方ないだろう」
公爵として、領民を飢えさせる訳にはいかない。貴族との横の繋がりも大事にしなくてはならない。
筆頭魔術師として、魔法に関する報告はすべて頭に入れなくてはいけないし、有事の際には必ず駆け付けなければいけない。
そんな中でも、ノアは自身の体力が擦り切れながらでも、いつも頭の片隅にはテティスの姿があった。
「それでも、実際にテティスと再会して……彼女の口から今までの生活の様子を窺える言葉を聞くと、後悔せずにはいられない。……俺は何よりも早く、テティスをあの家から連れ出さなければいけなかったんだ」
そうすれば、少しくらいはテティスが傷付かずに済んだだろう。夢を否定されることも、少しは減ったかもしれない。
今日の昼間、自信なさげに夢について語ったテティスを思い出し、ノアは奥歯をギリと噛み締める。
すると、リュダンがゆっくりとした足取りでノアの隣まで歩いて来る。人一人分空いた距離に立ったリュダンは重低音の声で「少なくとも」と呟いた。
「…………公爵として、筆頭魔術師として、しっかり地に足をつけて万全の状態にしてから、テティスを迎えたお前のことを、俺は凄いと思うがな」
その言葉は、しっかりとノアの耳に届いたらしい。
奥歯を噛みしめるのをやめ、やや肩の力が抜けたノアの、ちらりと隣のリュダンへと視線を移した薄い菫色の瞳が、それを物語っていた。
「…………お前に褒められても、嬉しくない」
「ひっどいやつだな」
「……よし、飲み直すか。あと二時間は付き合え。因みにずっとテティスの素晴らしさについて語るから、そのつもりで」
ノアのまさかの発言に、リュダンは「一杯だけ付き合うっていう話はどこへ行ったんだ……」と愚痴りながらも、結局はノアが満足するまで席を離れることはなかった。




