第7話
柔らかくて温かくて、良い匂い。
どうしてかと言えば、目の前に良い匂いがあるから。いや。匂いではなくて、ふくよかな胸に俺が顔を埋めているから。
「ああ、起きた?」
「一体、何を」
「膝枕してあげようと思ったんだけどね。顔を下にするから、くすぐったくて」
視線を上げた先に見える、悪戯っぽい笑顔。
膝枕で、顔が下? それって、天国を見てるって事か? あー、睡魔の野郎っ。
訳の分からない怒りを抱きつつ牛車を降りると、鬱蒼とした森が目の前に広がっていた。
空気は肌寒いというより凍えそうな程で、おそらくは標高が高いのだろう。
木々はどれも幹が太く、その高さは天に届くかのよう。時折鳥や獣の鳴き声が響いては静寂が戻り、俺の知る人の世界とは隔絶した場所と強く感じる。
静謐で清澄な空気。自分という存在が薄れ、この場の雰囲気に包み込まれる感覚。聖域、などという言葉がふと思い浮かんだ。
若干恐縮気味な俺をよそに、瞳さんは木々の間を軽快に抜けていく。
勾配は急で、足元はかなり荒れ気味。多少規則性のある段差を登っている事から、かつては整備された道があったのだと理解出来る。
「目的地に泊められなかったんですか?」
「敷地が狭くてね。それに、畏れ多い」
「神様とか」
「まあ、そんなところ」
否定はしない瞳さん。
その彼女が俺達の行く手に続く、急勾配の先を指差す。
そこに見えるのは、苔のむした小さな社。静謐で澄んだ空気は、そのためか。
「昨日の子とか、さっきの陶芸家。あの家の氏神よ。昔は参拝者も多少はいたんだけど、今はまず来ないね」
「どうして、ここに?」
「さあ、着いた」
肝心な部分はいつもはぐらかす瞳さん。
彼女が何も言わない限り、俺は自分の記憶を掘り返すしかない。それとも目的は、むしろそちらの方なのだろうか。
かつては参道だったらしい急勾配を登り切り、こぢんまりとした社の前へとようやく到着する。
苔はむしているが荒廃した様子はなく、意外に手入れがされている感じ。ただ賽銭箱も鈴も何もなく、簡素というか素朴な社である。
「二礼二拍一礼でしたっけ」
「気持ちが入ってれば、それで良い」
不意に目の前に現れる、白い小袖と赤い袴姿の金髪美少女。その体からは微かに金色の光がたなびいていて、普通の人間ではない事を窺わせる。
「私は、ここの主。白鳥命。命と書いて、みことだ」
「神様、ですか?」
「大まかに定義すれば」
小袖の胸元に片手を入れながら話す命様。外見はともかく、態度は無頼だな。
「……久し振りだな」
俺の顔を見て、くすりと笑う命様。
しかしこちらは何の記憶も無いので首を傾げるだけだ。
「ベル。黒い犬と関係あります?」
「いたな、そんなのも」
「瑞樹さんも?」
「当主の孫か。あれもいた」
ここに来て、繋がる線。
ただ俺にはそれぞれの点。瑞樹さんもベルも記憶が辿れないので、繋がったところで仕方ないが。
「この神社に来たって事ですか、俺が」
「神にすがるなど、考えが甘い」
軽くたしなめられ、それもそうかと思い直す。
ただ瞳さんは全ての事情を分かっているはずで、それでも敢えて遠回りの道を選んでいる。
それはおそらく俺のため。だとすれば、確かに安直な方法を進むべきではない。
牛車に積んであった掃除道具を使い、社とその周辺を清めていく。
動いていると寒さも段々気にならなくなり、またここの澄んだ空気のせいか気持ちが落ち着いていく。
「おう。やっとるの、われ」
どこかで聞いたような口調。少し視線を下げると、地獄で出会った子鬼がけたけたと笑っていた。
「どうしてここに」
「そこの命ちんとは、昔なじみなんや。神仏習合って、学校で教わったやろ」
「ええ、まあ」
神仏習合は、分かりやすく言えば神道と仏教の融合だ。
命様は氏神なので神道の側。子鬼は三途の川の管理者で、仏教の側。だから命様と子鬼が知り合いというのも不思議な話ではない。
「命ちんの家なんやから、きりきり働きや」
「いや。あんたこそ」
「うっさいな。ちんたらやってると、ケツバットやで」
子鬼が取り出したのは、とげとげの付いた例のあれ。
これで叩かれた日には尻の穴が増えるどころか、俺は穴しか残らないのでは無いだろうか。
俺を働かせ、3人は社の端に座り込んで楽しくガールズトーク中。結局プロレタリアート階級は搾取され、資産家が得をする仕組みだ。
とはいえこういう場にいるせいか、気持ちは落ち着き澄み切っていく。単純に掃除をして、体を動かしているのも良いのかも知れない。
「よし、こんな所か」
社を清め終わり、周りに生えていた雑草を抜き、道の名残の辺りまで掃き清めた。社の上に茂る枝を剪定したい所だが、そこまでの技術もないし時間もない。
それ以前に体力がそろそろ限界で、今日も良く眠れそうだ。
「終わりました」
「お疲れお疲れ」
「頑張ったの、われ」
「良し」
言い方は色々だが、全員にお褒めの言葉を頂いた。
疲労困憊で睡魔が絶え間なく襲ってきて、今にも膝から崩れ落ちそう。それでもそんな事を言われると、つい気持ちが浮き立ってしまう。
「また来ると良い」
「どこか、近道みたいのがあるんですか」
「一歩一歩着実に進む事こそ、一番の近道だ」
軽く頭をはたいてくる命様。さすがに神様の言う事には、重みがある。
「うちは秘密の抜け穴で、すいすいっとここまで来られるけどな」
こういう事を言う人は放っておこう。
命様と子鬼に別れを告げ、再び道無き道を降りていく。
今日は結局、掃除をしただけだな。
「俺は、昔あそこに行った事があるんですか」
「命様、さっきなんて言ってた?」
「物事の近道は、一歩一歩進む事」
「そういう事」
俺を振り返り、にこりと笑う瞳さん。
やはり答えはお預けか。
息が上がりきった所で、牛車を停めた場所まで到着。全身から汗を噴き出して、中へと乗り込む。
冷静に考えると、これって結構迷惑な話だよな。
「汗かいてるんですが、構いませんか?」
「気になるなら、歩いて帰る?」
「まさか」
「大丈夫。脱いで」
真顔で言ってのける瞳さん。
でもって視線は、俺から離れないと来た。
「あの」
「私、平気だから」
俺は平気じゃないんだけどな。まあ、これはこれでありか。
服を脱いだ所で大きなタオルにくるまり、結局そのまま熟睡。
体を揺らされ自宅前に着いたと教えられ、半分寝ぼけたままで牛車を降りる。
「寒い」
標高が高くないのにどうして寒いのか。トランクス1枚で、日の暮れた自宅前に降り立ったからだ。
「これ、忘れ物」
牛車の中から差し出される、俺の着ていた服一式。
とはいえ今更着るのも間が抜けた話。トランクス1枚で立ちつくしているのは、もっと間が抜けた話だが。
「俺のポイントって、結構貯まってます?」
「莫大とは言わないけど、高校生がバイトするよりは確実に効率良いよ。何か使い道でも考えた?」
「いえ。何も思い付きませんし、取りあえずは貯めていきます」
物が欲しければ、それこそバイトでもすれば済む話だ。
ただ自身の幸運を高めるのは、南さんが言っていたように少し違う気もする。仮にそういう使い方をするとしても、今安易に決める必要はない。
「案外堅実だね」
「発想が貧困で、何も思い付かないだけです」
「そう。風邪引かない内に、家へ入った方が良いよ」
笑顔は閉まる牛車の扉の彼方と消える。ホルスタインが小さく鳴くと、牛車は緩やかに浮遊をしてすぐに夜の帳へと飛び去っていった。
いつまでもそれを見送っている場合ではないな、トランクス1枚で。
さすがに服を着込んでから夕食を食べ終え、風呂に入った後で古いアルバムを母親に見せてもらう。
勿論昔の思い出に浸るためではなく、白鳥瑞樹さんと黒犬のベルに関する写真を探すためだ。
ちなみに俺が覚えている最も古い記憶は、幼稚園の給食。その後は断片的な記憶が混在し、ある程度明確なのは小学校低学年の授業中である。
人間の記憶などその程度で、生まれてから今ままで全てを記憶している人などいない。そういう言い訳を自分の中で作りつつ、リビングでアルバムをめくる。
赤ん坊から徐々に成長を果たしていく、写真の中の自分。
それを見ていても思い出す事は無く、記憶があるとすればもう少し先のはず。
幼稚園くらいまで行かないと、さすがに無理だろう。
「……・これか」
手入れされた雑木林を背景にした1枚が、自分の目に留まる。
そこにはぎこちない笑顔を浮かべている幼い俺が写っていて、ただ写っているのは俺だけではない。その傍らには女の子が1人、さらに犬が1頭足元で寝そべっている。
おそらくこれがポイントとなる写真だが、どれだけ眺めても全く記憶が蘇って来ない。また前後の写真はどうも無関係で、そこから記憶を辿る事も出来はしない。
結局自分だけでは埒が明かず、何故か1人でジェンガに興じている母親に尋ねてみる。
「この写真、何か分かる?」
「……確か、誰かからもらった写真だと思う。裏を見てみて」
言われるままに写真を抜き取り、裏を確認。するとそこには、日付が記載されていた。
「白鳥神社別宮前にて。これ、どこ?」
「隣町にあるでしょ」
「大きい屋敷?」
「何言ってるの?」
結構核心をついたと思ったら、見当外れだった様子。ただ若干ではあるが、つながりは見えてきた。
スマホで地図のサイトを呼び出し、別宮の場所を確認する。
昨日の白鳥邸からさほど遠くない場所で、航空写真は緑が多い。写真に写っている背景の雑木林は、おそらく鎮守の森なのだろう。
「どうしてそんな所に行ったのかな」
「昔変なゲーム機が欲しいとか言って、隣町まで探しに行ったでしょ」
「全然覚えてない」
「とにかくその時に隣町へ行って、変なゲーム機を買って。途中に神社があったから、なんとなく立ち寄ったのよ」
変なゲーム機か。改めて、つながりが分かってきたぞ。
「俺、迷子になった?」
「なったもなってないも。お父さんは神隠しだなんて騒ぐし、人気の無い神社だったから確かに薄気味悪かったし。変なゲームのせいで、もう」
とにかくそこにこだわる母親。
俺は記憶にないが、かなり迷惑を掛けてしまったようだ。
「写真も、その関係?」
「そう。あなたを見つけてくれた人が、その人の子供と犬と一緒に撮った写真だったはず。せっかくなので記念にどうぞって」
「名前は?」
「お互い名乗らなかったと思う。それっきり会ってもいないし、結局あれは呪われたゲームなのよ」
嫌な結論を得てくれるな、この人は。
自分の部屋に戻り、改めて写真を確認する。
少女は確かに、瑞樹さんの面影があると言えばある。その足元に寝そべっている犬は真っ黒で、また首には小さな鐘。
牧羊犬が付けるようなあれが付いていて、なるほどと思わず手を打った。
「だからベルか」
鐘が先か名前が先かは分からないが、明らかに関連性はある。合点がいかないのは、何故瞳さんは白鳥家に関する所へ俺を連れ回すか。
見えてきた点と、見えない線。それがつながる時は来るのだろうか。