二十一 過去
『フィオナ、この方がラインハルト様だ。このグランディア王国の王太子殿下だよ』
そうブラウン伯爵が、ラインハルトを前にして言った。
私達が出会ったのは、王太子が七歳になった日のことだ。
王宮で王太子の生誕パーティが行われ、貴族の令嬢達はうんとおめかしして広間に詰めかけていた。
とはいっても、彼女達の大半はラインハルトと年の近い、十歳以下の子供だ。
まだ野心などはなく、親に命じられるままにラインハルトと仲良くなろうとする子供達だった。
そしてその例に漏れず、私も養父母の『王太子に失礼なことをしてはいけないよ。仲良くして彼に気に入られなさい』という言葉通りに、なんとなくラインハルトと仲良くしておこうと思っていた。
そのパーティが王太子ラインハルトの婚約者を選ぶために開かれたものであることも知らずに。
『はじめまして。フィオナ・ブラウンです』
最近覚えたものだ。私がスカートを持ち上げて礼をしてみせると、ラインハルトは目を見張っていた。
ものすごく見つめられている。
私は珍しい虹色の瞳を持っているから、好奇の目にさらされるのには慣れていた。
ラインハルトは照れた様子で胸に片手をあてて、私に挨拶してくれる。
それから彼はその一日ずっと私にくっついて、王宮の色んな場所を案内してくれた。
それから数日後に、私と王太子ラインハルトの婚約が決まった。
パーティで私を見初めてくれたらしい。ラインハルトの方から婚約を望んでくれたのだ。
私が虹眼を持っていること、ブラウン伯爵家が国王派の貴族だったことも、国王から婚約が許された要因だろう。
……ラインハルトはグランディア王国の王太子だし、類まれな美形で、幼いながらも勉学や剣技も優れていると聞く。
そんな彼との縁談なら、誰だって諸手を挙げて喜ぶだろう。
だが婚約に歓喜した義両親とは違って、私は正直、幼いこともあってか、婚約と言われてもピンとこなかった。
恋物語でうたわれているような、出会った時の激しい衝撃や胸の高鳴りもなかったし。
けれど義両親がとても喜んでくれていたし、貴族として生まれたからには王族に伴侶として選ばれることは、この上ない名誉なことだと周りから言われた。私は特に反対する理由もなく縁談を受け入れた。
それから九年間、私達は穏やかな関係を続けた。
毎日のように手紙のやり取りをし、時には護衛付きではあるが二人で馬を駆けさせて遠乗りにも出かけた。
私は紳士的なラインハルトを尊敬し、あまたの令嬢達と同じく、見目麗しい彼にほのかな恋心を抱いていた。
……ただ、たまに彼を怖いと感じることがあった。
私と親しく話した従者を次々と解雇したり、王立学園で私に言い寄ってきた男性が学園を去る事件があった。
私がそれに不満を伝えた時、ラインハルトはこう言った。
『きみは僕の婚約者なのに、彼に味方するというのか?』
『そんなことないわ……』
やりすぎだ、と言いたかっただけだ。
ラインハルトは私に人を寄せ付けようとしない。異性どころか、同性の友人まで……。彼の独占欲は、年を経るごとに強くなっていくように思えた。
『彼は王太子である僕の婚約者に言い寄ってきたんだ。処分されてしかるべきだろう?』
もちろん、ラインハルトの婚約者である私に言い寄ることは、王族である彼を軽んじる行為と捉えられても仕方がないだろう。
しかし、私に好きだと言っただけで、学び舎を追放するのはやりすぎだ。
私がなおも言及しようと時、ラインハルトは私の髪を一筋すくいとる。
『ああ……今日も本当に、フィオナは美しいな』
ラインハルトはうっとりと青い瞳を潤ませていた。
ここは食堂だ。周りには人目もあるというのに、彼はまるで目に入っていない様子だ。
『あ、ありがとうございます……』
なんとなく、落ち着かなくなり距離を取ろうとする。だが、逃げようとする肩をさりげなく掴まれてしまう。
『おや、髪を梳いたら、きみの綺麗な毛が抜けてしまったようだ。……これ、もらっても良いだろうか?』
断られるなんて考えてもいない口調で、ラインハルトは言う。
私は血の気が引いていくのを感じたが、断わることはできなかった。
ラインハルトは私の髪の毛をコレクションしているのだ。九年間ずっと。
先日、私の髪の毛で作ったという、私そっくりの人形を見せられたところだ。
『本当は全部きみの髪の毛で作りたかったんだけど、さすがに毛量が足りなかったから一部しかつけられなかった。でもこれから、きみの抜けた髪の毛はここに植えていくつもりだよ』
そう言って、ラインハルトはその人形の金髪を愛おしそうに撫でていた。
私はおぞけ立ち、その時ばかりはラインハルトへ疑いようもない恐怖を感じた。
──皆は王太子のことを褒めてばかりだ。眉目秀麗、文武両道、性格も穏やかで誰に対しても優しい、と。
美男美女のカップルで、うらやましいと口をそろえて言う。
……こんな完璧な人に愛されているのだから、不安を感じるのは間違っているのだ。私はそう自分に言い聞かせた。
あくる日、何かと対立しているクラウスと授業で一緒に組むことになった。
クラウスはグーラ公爵家の嫡男で、長めの銀髪に青い瞳を持つ、美形だが嫌味ったらしい男である。
私とは犬猿の仲なのだが、なぜか私の隣の席なのだ。
成績や運動で私といつも僅差なため、私が勝手にライバル扱いしている相手だった。
女生徒からうっとりとした眼差しを向けられている彼の姿を見て、私の頬が引きっつってしまう。
パートナー、代われるものなら代わってあげたい……。
私はすり鉢で細かく薬草を挽いた。
乾燥した薬草をすり潰し、ポーションを作る作業だ。
すり鉢から薬草をスプーンですくい取り、三角フラスコに入れる。
クラウスは分量通りのお湯を沸かし、フラスコに入れた。
そして私は慎重に魔法陣の描かれた平たい板状の簡易魔導炉の上に載せる。
これは大賢者アガルト・リッターの発明品らしい。最近量産化され、学園でも取り入れられた。とても画期的な発明品だと思う。
クラウスは作業の途中で、ボソリと言った。
『……王太子はお前にベタ惚れだな。毎日、のろけばかり聞かされて、本当にうんざりしている』
彼はげんなりした表情をしていた。
私はちらりとクラウスを見た後、誰にも聞かれていないかと不安になり、周囲を見回す。
ラインハルトは彼の親友のクラウスと私が話すことも良く思わない。
ラインハルトは魔法科ではなく騎士科に所属しているからこの場にはいないが、彼の側近候補がこの科には数名いる。
──私の普段の行動はラインハルトに筒抜けだった。私は監視されているのだ。
けれど今は見張り役の彼らも実験中のためか、私達に注意を払っている様子はない。
私は黒板に問題の答えを書く時みたいに表情も変えず、小声で言う。
『久しぶりに私に話しかけてきたと思ったら、また嫌味? クラウス、貴方も暇ね』
クラウスは肩をすくめる。
『この間、お前の髪が植えられたお前のそっくりな人形をライから見せられて、さすがにアイツの奇行に慣れてる俺でもドン引きしたぞ……』
ライとは、ラインハルトの愛称だ。
私はため息を吐いた。
『……女友達が言うには、とても情熱的で素敵な行為なんですって』
『女友達って、ライが唯一許してるお前の取り巻き達のことか? 狂ってるな』
私の周りにはいるのは、ラインハルトの配下だ。交友関係も彼に握られている。
クラウスが呆れたように言った。
『奴らがライに不利なことを言うはずはない。乗せられるなよ、バカ娘』
『バカ娘とは何よ。……最近はカロートペンダントだって王都で流行ってるし……そんなにおかしいことではないわ』
かつては故人の遺髪を編み込んでペンダントにしたものをそう呼んでいたが、今では愛する恋人同士でも贈り合うようになっている。
だからラインハルトの行動も別に度を過ぎたものではない……そう友人達から言われてしまえば、私も自分の感覚がおかしいのかな? と納得するしかなかった。
『クラウス、貴方は王太子の味方じゃなかったの? そんなに彼のことを悪く言うなんて……』
私がそう咎めると、クラウスは顔をしかめた。
『ライは良い奴だ。もとは平民だった俺を差別せず気さくに接してくれた最初の相手だからな。強くて慈悲深い。賢王になる器だと思う。──だが、お前のことになると途端におかしくなる。お前以外のことは完璧なんだ。……お前だって自覚があるんじゃないか?』
私は押し黙った。
しばらくして、私は瞼を閉じて深く息を吐いた。
『私達は王立学園を卒業したら式を挙げることになっているの。お父様も、お母様も、それを望んでるし。……私だって』
それを望んでる。
そう言う瞬間だけ、唇が震えた。
『私達は両思いで……婚約者なの』
ラインハルトは私にはもったいないくらい素敵な男性なのだ。
だが、ある日から、ラインハルトはおかしくなった。
転入生のオリヴィア・ビュッサー子爵令嬢に出会ってからだ。
オリヴィアは長いストレートの茶色の髪と緑の瞳を持つ美少女で、いつも赤い石のついた蛇の銀細工のペンダントを身につけていたのを覚えている。
学園内でも二人でいる姿をよく見かけるようになり、いつの間にか私の監視はなくなった。
ある日、廊下で大きな箱を両手で抱えたクラウスに会った。
『……その箱は何?』
『これは、ビュッサー子爵の領地で採れる紅茶らしい。安いが香りも良いから、貴族だけではなく一般市民にも広めたいって、ライが俺に勧めてきたんだ。学園の皆にも飲ませてやってくれって。たくさんもらったから、寮生にも配ろうと思ってな。お前も飲むか?』
『……結構よ』
私は首を振った。
紅茶は本来東国から輸入される高級品で、これまで貴族の嗜好品とされていたものだ。
けれど、最近子爵領で見つかった新種の茶樹によって、安価な紅茶が王都に出回るようになったらしい。
オリヴィアはラインハルトに領地で採れる紅茶を勧めて、王家御用達にするつもりなのだろう。
これまで紅茶は高くて手が出なかった者達も気軽に飲めるようになるし、商売として成功しそうな道しか見えない。
オリヴィアの発案なのか、それともビュッサー子爵が裏で手を引いているのか分からないが、かなりのやり手だな、と思った。
クラウスは声をひそめて、私にだけ聞こえるように言う。
『あいつ、一体どうしてしまったんだ? お前、ライに何があったのか知らないか?』
私は首を振る。知るはずがなかった。
突然態度を一変させた王太子に、私が一番戸惑っている。
『あいつはお前にベタ惚れだったのに……今じゃ、まるで別人みたいだ。お前に狂ってないアイツなんて、ライじゃない』
どんな判断基準なのか分からなかったが、クラウスは真顔でそう言った。
『ライはオリヴィアの言いなりだ。……頭でも打っておかしくなったか、魔法で操られているとしか思えないよ』
──そして、あの王太子の誕生パーティで悲劇は起きたのだ。




