第78話 盲目のピアニスト
「ここがその家?」
ウィーン市街地から三十分間歩いて、俺達は一軒のマンションにたどり着いた。マンションは比較的綺麗でウィーンでは高級マンション的な奴なのかもしれない。やっぱあの人、お嬢様なんかな?
78 盲目のピアニスト
パイモンがインターホンを鳴らすと、一人の女性が出てきた。高級マンションとはいっても別にオートロックとかがあるわけではなく、エレベーターに乗って玄関までは容易に行けた。
出てきた人は少し、かなり太って……いや、ふくよかな女の人。女の人は俺たちに目をやる。
「Wer sind Sie?(誰?)Ist es das Kind des Fans dieses Kindes?(あの子に何か用かしら?)」
「Ja.(はい)Wir kamen, um Ihre Tochter zu treffen.(娘さんに会いに来たのですけど)」
パイモンが何か返事をすると、おばさんは困ったように微笑む。表情からして怒ってはいなさそうだったけど、首を横に振ったため会うことはできないって言ってるんだろうな。
「Es ist damit.(そう)Aber sie ist blind, wie sie in Nachrichten sagte.(でもあの子はニュースで言ってた通り、目が見えないの)Wenn es Frotzelei ist, halten Sie es bitte an.(冷やかしなら止めてちょうだい)」
「Wir sind keine solchen Absichten.(冷やかしではないのですが)」
女性は帰ってくれとジェスチャーして扉を閉めてしまった。
やっぱり簡単には会わせてくれないのか。
「ダメですね。完全に冷やかしと思われてます。事前にアポを取る必要があったな」
「うーん、新聞記者とかマスコミとかじゃないと駄目ってことか」
そう思われても仕方ないよなぁ。芸能人の家にいきなり知らない奴が押し寄せてきたら、そう思うわな。テレビ局や雑誌と違い、アポを取っているわけでもないし、あのおばさんの反応からするとファンやらなんやらが今までも押しかけていたんだろう。どうすればいいのか分からないままマンションの外から女性が住んでいるであろう部屋の窓を眺めると、人影が見えた。耳を澄ますと、かすかにだがピアノの音も聞こえる。
あ、あの人が弾いてるのかな?
「なんで会わせてくれないかなぁ」
ヴォラクがしみじみと呟く。本当にな、まぁた追い払われちゃったよ。
「でも少しだけピアノの音が聞こえたんだよなぁ」
「あ!それ俺も聞こえた!幻想即興曲弾いてたよなぁ」
え、何?何曲って?専門用語使われてもわかるわけないんだけど。俺、クラシックとかベートーヴェンの運命くらいしか知らない。
「光太郎、なんて?」
「だから幻想即興曲。ショパンの曲だよ。めちゃくちゃ難しいんだぜアレ。手がもつれるもつれる」
光太郎は笑いながらピアノを弾く真似をする。
あ、そう言えば……
「お前、中三までピアノやってたな」
確かそうだった。さらに家にはでけえグランドピアノがあったし、ピアノの発表会だか何だかに出ないといけないのが面倒とか文句を言っていたのを覚えている。やっぱこいつはすごすぎる。
「そーそー。母さんが教養っつってピアノやらせてたんだよ。まあ上手くなんなかったけど」
「嘘だぁ。エリーゼの為に弾けてたじゃんか」
「いや、あれ簡単な楽曲だから」
「ふーん。よくわかんねえけど俺、音楽なんて三以上取ったことないわ!」
中谷はこんな状況でもガハハと大笑いしている。
『音楽的センスは光太郎しかなさそうですね』
「どうみても主と中谷に音楽という言葉は似合わない」
パイモンとストラスがそんな失礼な事を言っていたなんて俺は知らない。
「しかしどうしましょうか。母親があの調子では本人に会えませんね」
広場に戻った俺達はこれからのことを話し合った。でも中々いい案は出ない。どうにかして女性にあわないといけない。でも家に押しかけても当然のごとく門前払いさせるんだ。どうしようもないもんなぁ……
またシトリーに協力を依頼してテレビ局とか雑誌の会社とかにコンタクトとって会いに行くしかないのかなあ。
「何かあるといいんだけどー」
ヴォラクはしみじみと呟いてフラリと歩いて行く。今いる場所は観光客が集まるエリアで、コンサートの客引きをしている人もいる。なんだよコンサートの客引きって。
「ヴォラク?」
「中谷、一緒いこ」
「どこに?」
「んー聞き込みに」
「いーけど」
中谷とヴォラクははぐれない様に手をつないで、広場の中央に歩いて行った。
「いい情報があるといいんだけどね」
『全くです』
どうなんのかなぁ。
***
暫くすると、二人がまた手をつないで戻ってきた。
「池上ーあの人に会えるぜ!」
「え!なんでだ!?」
中谷の急な発言に俺だけじゃなく、光太郎もストラス達も目を丸くした。なんでそんなことになったのか全く分からないが、中谷が振り向いて大きく手を振った先にはひげの生えた爺さんがベンチに座っていた。
「あのじいさんが教えてくれたんだ」
「知り合いなのか?」
「んー。顔見知りって感じらしいよ。なんかその人、毎週水曜にここの広場から少し離れたバーで数年前から演奏してんだって。バー自体も隠れ家的な感じで通ってる人も年配の人が多いから、知る人ぞ知るって感じらしいよ。んで、今日は水曜だからその人が演奏しにくるんだって!」
「でかした中谷ぃ!ヴォラクゥ!」
思わぬ収穫に二人の頭をグジャグジャに撫でまわす。光太郎も混ざってもみくちゃにされている二人はされるがままだ。
「なにすんだよ!」
「俺、お前より背が高いのになんか複雑」
「でも夜と言う事は、また深夜に行かねばなりませんね」
パイモンの一言で空気が固まる。そっか、また夜の二時とか三時に行かなきゃなんないのかぁ。
次の日学校なのに……でも毎週水曜しかやってないっつってるからなぁ。
「しょうがないよな」
俺の呟きに光太郎達も苦笑いを浮かべる。
「今日でテスト終わったのが救いだよな。大丈夫だよ」
「今日は俺、マンションに泊まろ。拓也達もそうしたら?」
「そうする」
「なら一度戻ろうか。また夜に来るんだろ?」
ストラスを肩にのせたセーレが立ちあがる。確かにやることもないし、それなら少しくらいはお願いしてもいいだろうか。
「じゃ、じゃあ少しくらい観光してもいいですか?」
思わず敬語になってしまった俺に後ろにいる中谷も背を伸ばし、そわそわしながら返事を待っている。セーレは困ったように笑い、パイモンにどうするか聞いている。なんでかこの場の決定権はパイモンにあるのだ。
「こ、ここからオペラ座とかシュテファン大聖堂とか?なんか観光地が歩いて行けるらしいんだ。光太郎がユーロ持ってきてくれてるし、あと美女と野獣のモデルになった図書館とかも近いって」
「……行きたいのですか?」
「行きたいです!!」
パイモンは時計を確認している。現在の時刻は日本時間で十九時。まだ時間はあるはずだ。ソワソワしている俺と中谷に、光太郎も自分が案内するから迷惑かけないと助け船を出す。
「いいですよ。活動に支障が出ないのなら」
「きた―――!!!」
中谷の大声上げてのガッツポーズに周囲の視線が突き刺さる。しかしそれを気にする余裕などなく俺と中谷ははしゃいで光太郎の腕を掴み観光地に連れて行ってもらうよう促した。
半ば引きずられるように歩いて行った俺達をパイモンとセーレとヴォラクは苦笑いして追いかけた。
ウィーンの観光地は一言で言って最高だった。中には入れない場所があったから外観だけだったけど、教会とかオペラ座とかハプルブルク家が住んでいた屋敷とか。
教会に関しては内部の写真を撮ったと見せびらかしている中谷にセーレが苦笑いして「教会の写真なんてよく撮れるね」と若干引いていた。確かに悪魔からしたら教会をこんなに観光地扱いすることが信じられないのかもしれない。
ヴォラクに至ってはマジのハプスブルク家ゆかりの地に興奮しており、俺の先祖は誰だと写真を指差して聞いてくるほどだった。日本語で聞かれたからよかったけど、現地の人が聞いたら俺は殺されるんじゃないだろうか。不敬罪で。
「ああ、ここがシェーンブルン宮殿ですか。一度だけ来たことがあるような」
「え、パイモン来たことあるの?」
「この時代に一度召喚されまして、確かハプスブルク家の人間だった気がしますが、契約期間が短かったから覚えていないです。ただ、この建物には入ったことがあります。なるほど、今はこのような観光地に……感慨深いな」
そっか、悪魔って不老なんだっけ。パイモンからしてみたら、過去に来たことのある場所が観光地になっているのは不思議な感覚だろう。思いのほかパイモンも観光を楽しんでいるようで、セーレやストラス達と思い出話に花を咲かせている。
ヴォラクに関しては中谷と興奮して走り回って観光地を回っている。
「現地でこんなにゆっくり回るの初めてだよな」
「すげえ楽しいんだけど。これからもこんな感じのゆるいやつやってくれねーかな」
光太郎と話しながら足を進める。ウィーンは観光地がまとまってくれているお陰で比較的歩きやすくて助かる。バスとかにのらなくていいからお金かからないし。
二時間程度の観光を終えて、一度マンションに戻ろうと言う話があがる。もう少し観光したかったけど、短くも濃厚な時間に俺と中谷も満足だ。
***
「っつーわけなんだよ。ウィーン最高だった」
「え――いいなあ。あたしも行きたかったなあ」
マンションに戻った俺達はとりあえず一度解散し、ストラスと一緒に家に帰ると澪がいたので俺は今日のことをすべて話した。もちろん直哉のことも。澪を連れていけなかったことは本当に悔やまれる。
「でも悪魔ってすごく怖い」
ウィーンの話に目を輝かせていた澪だったが、直哉の話を聞いた後は表情を曇らせ、最近直哉がずっと落ち込んでいた原因を理解したようだ。澪の言葉に澪の膝に乗っていたストラスも澪に目線を向ける。
「だってやっぱり人間の姿して近づかれたら分からないもん。直哉君じゃなくてもあたしでもきっとわからないと思う。直哉君……すっごく辛かったと思う。あたしにも話してたもん。友達ができたって」
「直哉は俺のせいだって悪魔に言われた。俺の弟だから狙ったんだって。俺がもっと直哉を気にかけてたら、防げたのかなって思うと悔しくて仕方ないんだ」
情けない話だけどな、と恥ずかしそうに話す俺に澪が眉を下げる。その表情が心配しか宿しておらず、申し訳なくなる。もっと強くなれば話は違うのだろうが。
「泣いてた直哉見て、とんでもなく苦しくなって、本当に情けないけど一人で泣いたよ。どうやったら直哉を傷つけずに済むのか分からなくて母さんも父さんも皆泣いてた」
意図せず他人を殺してしまった弟になんて声をかけるのが正解だったんだろうか。何も悪くないと俺は言った。今も悪くないと思っている。それでも直哉からしたら間接的に殺人に追い込んだのは紛れもない事実で、何の慰めにもなっていなかったのかもしれない。
少しずつ元気を取り戻してくれているけど、前みたいに屈託なく笑う直哉はもう戻ってこないのかもしれない。
思い出したらまた涙がこぼれそうで鼻をすすり、目元を拭った。
「拓也も直哉君もだれも悪くないよ。悪いのはラウムだから」
澪は悲しそうだけど、引きつった顔で笑みを作った。ベッドから降りて俺の目の前に膝をついた澪は俺の手を握る。
「気にしないでって無理な話だね。でも拓也も直哉君も悪くない。それだけは、知っててほしい。拓也は直哉君を必死で説得したし、直哉君もラウムの言葉に惑わされずに最後は拓也の所に帰ってきた。それでいいんだよ」
「良かったの、かな……俺がしたことは間違いじゃない」
「うん、拓也は頑張って最善を尽くしたんだよ。だから、大丈夫」
暖かい腕が背中に回り、肩に澪が頭をのせる。自分が間違っていない、悪くない - それが慰めで何の意味がなかったとしても、その言葉をどこかで欲している自分がいて、澪の背中に縋るように腕を回した。
「澪、ありがとう」
その言葉に澪は首を横に振る。
「拓也も直哉君も頑張ったんだよ。だからもう自分を責めないで」
「……うん」
ストラスは泣きそうな顔で俺たちを見ている。
頑張ろう、直哉が笑ってられるように。もっともっと強くなって皆を守れるように。
***
「拓也、ストラスいらっしゃい」
「ちす」
俺は荷物を持って、マンションに向かった。
マンションではもう着いていた中谷がヴォラクとゲームをしている。全身を使うゲームをしているせいかすごいポーズになっており、シトリーが爆笑していた。
「光太郎は?」
「まだだけど、もうすぐ来るんじゃないかな?」
そっか、まだ来てないんだ。荷物を置いて中谷とヴォラクのゲームに割り込んだ。
「来たよ~ん♪」
あ、光太郎が来た。光太郎も荷物を置いて、俺たちに近寄ってくる。
あー本当にテスト終わってくれてよかったなぁ。もう勉強しなくていいし、気兼ねなくできるよな。
「お前ら寝なくていいのか?行くの夜中の二~三時だろ?」
ビスケットをバリバリ食いながら、雑誌を見ていたシトリーが俺たちに目をやる。今の時刻は夜の二十二時半だ。
やっぱ少しは寝た方がいいのかなぁ?
「どうする?」
「じゃあ寝よっかなぁ。昨日までテスト勉強してたからあんま寝てないし」
確かにそう言われればそうだ。
俺も昨日四時間くらいしか寝てないや。
「中谷は?」
「んーこの面クリアしたら寝るー。ヴォラクのベッド使うから気にしなくていいぜー」
盛り上がってるしな、その気持ちは分かるから何も言えない。
セーレがコーヒーをカップに注ぎながら、部屋を首でクイと指す。
「拓也は俺のベッドを使うといい」
「いいのか?さんきゅ」
「……」
「なんだその期待する目は」
光太郎はシトリーを見つめたまま。シトリーはバツが悪そうに雑誌で顔を隠したけど、光太郎は目を逸らさない。
「……あ~~~!わかったよ!使えよ!俺のベッド使え!!」
「ありがとー♪」
強制的に言わせたな光太郎……スキップしてシトリーの部屋に入っていきやがった。
セーレとシトリーは同じ部屋。当然俺もその部屋に行くわけで。
「なんか修学旅行みたいだな」
光太郎がウシシと笑う。確かに、なんかおもしろいな。こうやって泊まるっていうのも楽しいかもな。今度三人で泊まろうよと少しだけ話をして、そのまま眠りについた。
***
「主、主……起きてください」
ん?何?
体を揺すられて目を覚ます。目の前にはパイモンの姿。
「あれ?」
「おはようございます。現在の時刻は朝の二時です」
もうそんな時間なのか?俺三時間以上も寝てんじゃん。
隣のベッドにいたはずの光太郎がいない。
「光太郎は?」
「もう起きています。あいつは一時にすでに起きていました」
そっかあ、起こしてくれればよかったのに。
目をこすりながら、リビングに移動すると、ソファにはシトリーが雑誌を顔にのせて横になっており、ヴアルもシトリーの上で横になっている。光太郎はテレビの前にストラスと座っていた。
「中谷は?」
「セーレが起こしに行っていますが、まだ起きていません。ヴォラクと眠っていましたが」
あー中谷寝起き悪そうだ。
「二人とも起きてってば!」
セーレの声が聞こえる。苦戦してんなぁ……
暫くして、眠そうな顔をした中谷とヴォラクがリビングにはいってきた。
「眠いー死ぬー」
「俺も眠いー死ぬー」
本当にそっくりだなこいつら。
眠そうな中谷を揺さぶって、俺たちはオーストリアに向かった。
***
「うおー人が多いなぁ」
今の時刻は夜の十九時半。広場は昼間よりも人が多く活気に満ちていた。光太郎と中谷と共に、とりあえずカメラで写真を数枚撮って、本題に入る。
「で?そのバーってどこにあるんだ?」
「えーっと……どこだっけヴォラク」
「んー忘れた」
はあ!?なにやってんだこいつら!お前らの情報が頼りだったのに!!
『何をしているのです』
「貴様、なぜ覚えていない」
「二人とも、ふざけてる場合じゃないんだよ」
「中谷ー何やってんだよー」
全員から責められて、二人が顔を見合わせる。しかし二人に反省している気配はなく、どっちだったかな~あっちだったよな~とか呑気に話している。
「じゃあこっち」
「待てよ!てきとーだな!!」
二人は本当に適当に歩いて行き、俺達は人ごみをかき分けて必死で後を付いて行った。
そんな状態で歩くこと二十分。いい加減歩きすぎじゃないか?ぜってー間違ってる気がする。
パイモンもストラスも少し苛立った顔をしてる。ヤバいって中谷ぃ……
「あ、中谷ここじゃない?」
「え?そうなの?」
ヴォラクが指差したところは小さな看板が立ったバーだった。
「本当にここなのか?」
俺とストラスはマジマジと覗き込む。
なんて書いてるか分かんないけど、確かにバーっぽい。
「あー確かあの爺さんが言ってたのここと思う。屋根にピンクのイルミ飾ってるし」
「だよね。ここと思う」
中谷もそう言っているので、俺達は中にはいってみることにした。地味な外見に反して中は結構お洒落で広い。縦に広い建物なんだな。店の中には結構な人がお酒を飲んでいる。
そしてこじんまりしたステージに今はバイオリンとチェロを弾いている人たちがいて、空いている席に案内されて腰掛ける。
「すげえな」
光太郎がどっから出したのか知らないが、再びカメラでカシャカシャ写真を撮る。
「それ、データ宜しく」
「任せとけ」
何やってんだ中谷、光太郎。
「Was machen Sie dem Getränk?(お飲み物は何になさいますか?)」
「へ?」
急におばさんがメモ帳みたいなものを持って、俺たちに話しかけてくる。店員なのか?
だとしたらやばい。俺ら客ってわけじゃないんだよな……
あたふたしている俺を横にパイモンが自分とセーレの分、俺達の分も注文する。おい、どうすんだよ!?まさか食い逃げする気か!?日本に逃げたら捕まらないけど!店員はメモを取って奥に入っていく。
「お、おいパイモンどうすんだよ頼んじゃって……確かに頼まないのもおかしいけど、俺達お金なんて持ってないぞ」
「私も持っていませんが、カードが使えるみたいなので何とかなるかと」
カード?
パイモンは手にクレジットカードを持っている。なんでそんなの持ってるんだ?身分証もないし収入もないのに作れるはずないじゃないか。カードを借りて名義を見ると、パイモンの前契約者の鈴木さんの名前があった。
「これって……」
「私の能力を貸した見返りに借りています。彼の収入の一部を私に渡すことが契約条件でしたので。勿論、無駄遣いはしていませんよ。必要経費です」
パイモンってすげえちゃっかりしてる。確かにカードが使えれば問題なさそうだ。
「とりあえず私とセーレはビール。ソフトドリンクはリンゴジュースしかなさそうなので、それにしました。ついでに軽くつまめるものも頼んでおきました」
あ、良かった。そこは一応ソフトドリンクにしてくれたんだ。飲み物とスナックやナッツが届き、机に置かれていた目次のような物を手にとって眺めるが、何かいてるかわからんな。
鞄の中に忍んでいたストラスが顔を覗かせて、紙を見ている。
『ピアノの演奏はどうやら二十時からみたいですね』
「マジで?もうすぐじゃん」
今の時刻は腕時計では三時を指している。
となると、いまからか……
そう思った時に、バイオリンとチェロを弾いていた男性が挨拶をして、その場を去っていく。皆が拍手したので俺達も拍手をした。一気にざわめく会場……来るか?
喝采と共にステージに上がってきたのは、杖をつきながらゆっくりと歩いてくる女性。目は固く閉じられており、本当に目が見えないんだ。店員さんが彼女の名前をマイクで読み上げていく。
その人はこっちに頭を下げて、ピアノの座席に着く。
流れてきた音楽はとてもきれいで心地いい。音楽なんてさっぱり分かんない俺でもすっごい綺麗な音に聞こえた。目が見えないのにこんなに弾くことができるんだな。
その人の演奏が終わるまで、俺達はそのピアノに聞き惚れていた。
「主、行きましょう」
「え?」
演奏が終わって、その人がステージの奥に引っ込む。
「おそらくもう帰るのでしょう。出待ちしましょう」
「ファンみたいだな」
睨まないで、すいません。
俺達は裏口と思われる出口で彼女が出てくるのを待った。三十分後、彼女が出てきた。周りに誰もいないけど、どこかで待機しているんだろうか。
「あ、出たよ」
「よし」
セーレが彼女の前に歩いて行く。
「Mir tut es leid.(すみません)」
「Sind Sie für etwas für mich?(私に何か?)」
セーレは少し困った顔をしてこっちに振り返る。
「パイモン、なんて聞けばいいんだ?」
「単刀直入で聞けばいい。反応で見極めるから」
「わかった。Schließen Sie kein Vertrag mit dem Teufel?(貴方は悪魔と契約しているのではないのですか?)」
女の人は目を丸くした後、すぐにほほ笑んだ。
「Ach……Warum wissen Sie es?(まぁ……貴方はなぜ知っているの?)」
「は?」
どうしたんだセーレ。
パイモンもストラスもヴォラクも目を丸くしている。
「何があったんだよ」
『あっさりと白状したんですよ。しかも嬉しそうに』
たしかに女の人はニコニコしている。
へ?なんで……?
「Ich sage dieses nicht, Plötzlichkeit zu bemuttern.(私は母以外にこのことを言っていないのに)Es gibt Intellekt.(でも貴方は知っている)Ich bin schrecklich.(すごいわね)」
「Können Sie sich an ihn anpassen?(彼に合わせてもらっても?)」
「Ich kümmere mich nicht.(構わないわ)」
「あっさりすぎる……なんかあんじゃない?」
ヴォラクが中谷の後ろに隠れながら、顔を覗かせている。女の人が歩いて行って、セーレが俺達に手まねきしている。俺達は急いで後を付いて行った。
家に向かっている間に、セーレを介して少しだけ話をした。女の人はアンジェラ・カリウスって言う名前で小さいころからピアノを習っていたってこと。夢はピアニストだったこと。そして十五歳の頃、事故で両目を失明してしまったこと。そのことが原因で家族と確執ができてしまったこと。
ピアノができないことへの絶望から部屋に引き籠っていつも泣いていたこと。でも少しずつ、見えない目で鍵盤をたたきだしたこと。コンテストでいい成績を残せなくても、懸命に練習していたこと。
悪魔と出会ったこと……
「Weil ich fähig war, ihn zu treffen, war ich fähig, vorwärts zum einen Schritt zu treten.(彼に会えたから私は前に進むことができたの)」
アンジェラさんは嬉しそうに笑い、ストラスに訳してもらって少し複雑な気分になる。
本当にそれでいいのかな。だってその悪魔がいなくなったら、またピアノができなくなるとか……そんなペナルティはないよな?
「あの!契約内容とか何だったんですか?」
日本語が通じるわけないよな。アンジェラさんキョトンとしてるし……
そんな俺を見かねてセーレがドイツ語に訳してくれ、アンジェラさんはそれを聞いて笑って何かを話してる。
「契約内容、特にないそうだよ」
え、ない?じゃあ無償で力貸してるってこと?
それとも直哉みたいにただ騙されてるってこと?
『まぁ行ってみないとわかりません。それは後で考えましょう』
「うん……」
しばらくして、アンジェラさんの家についた。ここからバーまでは多分三十分くらいの道のりだろうけど、アンジェラさんは目が見えない。当然、歩くスピードも遅い訳で……ここまで来るのに四十五分近くかかった。
アンジェラさんは見えない目で器用に鍵を開けていく。やっぱもうずっとこんなんじゃ慣れちゃうもんなんだな。
家の中にはおばさんの姿がいない。
それを気になったパイモンがアンジェラさんに問いかける。
「Weil meine Mutter Krankenschwester ist, ist es heute eine Nacht von Pflicht.(私の母は看護師をやっていて、今日は夜勤なの)」
アンジェラさんの返事をストラスが俺たちに訳して伝えてくれる。目が見えないのに一人で大丈夫なのかな?でもアンジェラさんは手で壁を伝い、廊下をまっすぐ歩いて行く。
そして一つの部屋にはいって行った。
俺達も後をついて中にはいる。部屋の中はシンプルで、あまり物は置かれてなく、中心に大きなグランドピアノ。そしてその横に角を生やした馬が座っていた。
「Amudoukiasu」
アンジェラさんが名前を呼ぶとその馬はこっちに目を向けた。
こいつが悪魔アムドゥキアス……マジのユニコーンじゃん。ゲームに出てくる奴そのまんまだ。とてつもなくファンタジーな世界に迷い込んだ錯覚すらしそう。
馬は愛おしそうにアンジェラさんに歩み寄る。
「すげーユニコーンだ」
中谷が光太郎に耳打ちする。
アンジェラさんを気遣う様にアムドゥキアスはソファにアンジェラさんを連れていき、その行動に悪意は微塵も見られない。純粋に彼女のサポートをしているように見える。
「アムドゥキアス、お前は何をしてるんだ?」
パイモンの視線を感じ、アムドゥキアスは俺たちに近寄ってくる。反射的にセーレの後ろに隠れてしまう俺達三人をアムドゥキアスは一瞥し、パイモン達に振り返った。
『ソウカ……遂ニオ前達ニ見ツカッテシマッタカ。ルシファー様カラ帰還命令デモ出タノカ?』
アムドゥキアスは少しだけ残念そうに項垂れる。冗談めかしているけど、パイモンがそんな生ぬるいことを伝えに来たとは思っていない様子だった。
「なぁ、あんた何でアンジェラさんと……」
『ナゼ契約シタト?』
そうだ、なんでアンジェラさんと契約したんだ?
こいつは思っていたよりも、温厚そうで優しそうでもあった。攻撃をしてくる気配はなく、俺の質問にも答えてくれそうだ。
『私ハ己ガ能力ヲ渡ス者ハ、ソノ者ノ今マデノ人生デ決メル。アノ娘ハ事故デ失明シ、絶望シテイタ。シカシソレデモ前ヲ向イテイタ。ソノ過去ト現在ノ姿ヲ見テ、我ガ能力ヲ渡スニ相応シイト思ッタノダ。人間ハ……意志ガ強イ』
アムドゥキアスは少しだけ微笑んで……多分俺にはそう見えた。馬の表情変化はわかんないけど。アンジェラさんに歩み寄る。
『Angela.(アンジェラ)Ich muß zur Hölle zurückkommen.(私ハ地獄ニ帰ラナケレバナラナイ)Können Sie sich allein verstehen?(一人デモヤッテイケルナ?)』
『……Ich verstand es.(……そうなの)』
アンジェラさんが残念そうに微笑む。最初から覚悟は決まっていたと言うようにアンジェラさんは泣き叫んだり抵抗したりせず、大人しく話を聞いている。
『Sie sagten.(前から言っていたわね)Wenn die Zeit kommt.(その時が来ちゃったのね)』
アンジェラさんがソファから立ち上がって、ピアノの前に座る。
『Angela?』
『Zu Ihnen Dank…(貴方に感謝を…)Ich gebe Ihnen all meine Gefühle.(私の気持ちを全て貴方に送るわ)』
ピアノの蓋を開く。こんな夜中にピアノの練習して大丈夫なのか?あ、でも流石にプロのピアニストだし、この部屋って防音なのかな。
「どうなったの?」
『彼は地獄に戻ることになりました。アンジェラはピアノで彼に感謝を伝えようとしているのです』
アンジェラさんはピアノを弾きだす。
あまりにも綺麗な音色は心地よく、アムドゥキアスも目を閉じて聞き惚れている。
「なんか上手く行き過ぎてるねぇ」
「嫌なのかぁ?」
「別に。戦わなくていいのはいいことだよ」
中谷とヴォラクは演奏を聞きながらも軽く談笑している。二人は演奏にあんまり興味がないのか雑談してはくだらない事をして笑いをこらえている。悪魔って本当に不思議だ。ラウムやマルファスの様に危険な悪魔もいれば、ヴェパールやこいつみたいに人に危害を出さない悪魔もいる。
悪魔が全部悪いってわけじゃないんだよな。いい奴もいるんだよな。
アンジェラさんの演奏が終わりに近づいていくにつれて別れの時が近づいてくる。そして演奏が終わった室内は静まり返った。
「主、召喚紋を」
「うん」
浄化の剣を出して、パイモンが召喚紋を描き、アムドゥキアスは大人しくその中に入った。
アンジェラさんはその中に石の付いたネックレスを入れた。
「あれって……」
「ヘマタイトのネックレス。彼の契約石だね」
セーレに教えてもらい、俺は再びアンジェラさんに目をやる。アンジェラさんはストラスに呪文を自分の後について言う様に教えられている。アンジェラさんはストラスの後を追って呪文を詠唱し、アムドゥキアスの姿が薄くなっていく。でも最後の呪文を言う前にアンジェラさんがアムドゥキアスに手をのばして抱きしめた。
「Danke.Danke schön.(ありがとう、本当にありがとう)」
『Auf Wiedersehen.Meine schöne Angela.(さようなら。私のかわいいアンジェラ)』
そしてアムドゥキアスは消えて行った。
残された俺たちの空間に気まずさが残る。
「Danke.Danke schön.」
アンジェラさんはずっとそう呟いていた。
ありがとう。私を絶望から救ってくれて、暗闇しか見えなかった私に光を与えてくれて。
またピアノをする喜びを与えてくれてありがとう。
貴方は私の光だった……
アムドゥキアス…ソロモン72柱序列67番目の悪魔。
29の軍団をもつ公爵であり、その姿はユニコーンとして現れる。
しかし召喚者が望めば人間の姿でも目の前に現れるとされている。
音楽の才能を開花させる力を持ち、楽器演奏だけでなく、ダンス、歌唱、作曲の能力も開花させる。
非常に温厚な性格で音楽をいかに愛すかを判断して無償で力を分け与えた。
アンジェラをかなり気に入っており、その目は慈愛に満ちていた。
契約石はヘマタイトのネックレス。
アンジェラ・カリウス…盲目のピアニスト。
もとよりピアノの才能はあったが、アムドゥキアスの力によってさらに研ぎ澄まされた。
性格はいたって温厚で前向きである。
アムドゥキアスを家族のように思っていた。