第201話 色欲と純愛1
このお話は旧約聖書外伝トビト書のアスモデウスとサラの物語をこの小説内で脚色した物です。
なのでこの内容が聖書の内容そのものとは思わないでください。
“ねぇダリル、私もう分からないの。本当に貴方は私でいいのかって”
そう言って涙を流す君に何か言葉をかけれたらいいのに。
指にはめ込まれた指輪は俺からの物じゃなくてトビアからの物。倒れている俺を見下しているのは愛しい君じゃなくてラファエルとトビアの姿。
その時に理解した。
俺は……彼女に裏切られたんだと。
201 色欲と純愛1
『くそっ』
傷口を抑えながら必死で深い森の中を走り続ける。奴らはもう撒けたんだろうか?剣を持ち俺を追いかけまわしてきた愚かな人間達。
元はと言えばお前達の主が俺を裏切ったのが始まりじゃないか。俺は奴に契約分の恩恵を与えた。しかし奴はその見返りを寄越さなかった。だから見返りに契約者の魂を譲り受けたんじゃないか。正式な契約に乗っ取っての行為。ここまでやられる謂われはないはずだ。
不意を狙われたおかげで人間ごときに怪我を負わされて情けなく逃げていると言う訳だ。
流石に数時間も逃げ回ったんだ。後ろを振り返った先には木々が生い茂り、奴らの足音や怒声は聞こえない。どうやら完全に撒けたようだ。
やっと息をついて歩き続けた先では森が終わりと告げ、細い一本道に辿り着いた。その道をひたすら歩いた先には小さな村が広がっていた。
どうやらメディアの田舎町に来てしまったようだ。これまた随分長距離を逃げてきてしまったな。人間に化けているお陰で難なく村の中には入れたが、傷だらけの俺を村人は奇異のまなざしで見つめるだけで助けようとはしない。
まぁいいけどね。
そう心で唱え、道端の隅にズルズル座りこむ。人間の姿のままだと傷の治りが遅いから、元の姿に戻りたいけど、今戻る訳にはいかない。
はぁ……だから嫌なんだ人間なんかに召喚されるのは。さっさと戻りたいけど、今戻ったら確実にサタンに馬鹿にされる。
数万年前からの付き合いの友人。いつも俺をからかってくる可笑しな奴だけど、まぁ悪い奴じゃないから良く一緒につるんでる。稽古がてらの喧嘩はいつも大規模になってルシファー様に怒られて……そんなどうでもいい日常に戻りたい。
ここに楽しい場所なんてねえや。
自分の契約石であるラピスラズリの指輪を見て溜め息をつく。とりあえず怪我が治ったらさっさと地獄に帰ろう。人間の姿のままじゃ時間がかかるし腹が減ったから、どっかで飯食った後に森に戻って悪魔の姿になって傷を癒そう。
そう思っている最中に運が悪いのか、ポツポツと雨が降り出した。
それを確認した村人たちは布を頭にかぶせ、それぞれが慌てて家に戻っていく。これは丁度いい……人がいなくなってくれたら、こっちも行動がしやすいからな。
でも顔を上げた先には一人の女が立っていた。
女は俺の傷を見て顔を真っ青にさせている。なんだよ、驚くぐらいなら見るなっつーんだよ。なんだよこの女は。睨みつければ少し怯えながらもオドオドとこっちに近寄ってきた。待てよ、近づけなんてアイコンタクトは送ってない。さっさと失せろって送ったんだ。また面倒くさい奴だな。
「あの、大丈夫ですか?」
「は?」
「傷、痛くないですか?」
「痛いに決まってるだろ。何言ってるんだお前」
厳しく当たれば相変わらずビクついてたけど、その女はどこうとしない。雨が少しずつ酷くなる中、俺の前に立ち尽くしている。
布もどんどん染みを作って行き、意味をなさなくなっていっている。
「戻れよ。雨、酷くなるぞ」
「でも……」
「さっさと消えろって言ってるんだ」
「その怪我……」
なんだよ。また痛くないですか?って聞いて来る気なのか?痛いに決まってるだろ、この馬鹿女。
いい加減イライラしてきて、本気で怒声を浴びせてやろうと口を開いたのと同時に女も口を開く。先に声を出されて言葉を飲みこんだ。
そしてそれは意外な物だった。
「良かったら家に来ませんか?その怪我、治さなきゃ……」
「はぁ?」
俺の怪我を?何言ってるんだ。怪我を治してあんたに何のメリットがあるんだ。そう言いたかったけど、女の表情は真剣そのものだった。
何も言えない俺の肩を女が貸して布を頭にかける。そのお陰で女はどんどん濡れていく。
「おい、あんた……」
「家、すぐ近くなんです。さぁ行きましょう」
何だか流されてしまって、そのまま連れて行かれた。初めてだったから。こんな何もしてないのに好意を受けたのは。そしてなぜかくすぐったく感じられ少しだけ身をよじった。
女の家は広く、家を見て女が中々の金持ちだと言う事が分かった。でも中に使用人等は一人もいなく、どうやら一人暮らしをしてるようだった。
椅子に座らされて、女は薬草やらなんやらを持って来て下手糞な手当てをする。手慣れてないんだろうな。かなり痛いけど文句を言う気にはなれなかった。
手当てに随分時間がかかって出来上がった時には、外は真っ暗になっていた。
そろそろ出ていくか……飯を食って森に引きこもろう。そう思って立ち上がった俺を女は見つめている。
「あんたのお陰で助かった。俺はそろそろ行くよ。いつか礼が出来たらいいな」
「そんなの要りません。それより出て行くの?外は真っ暗よ」
「あぁ、まぁ適当にやるさ」
出ていこうとしたのを女は引きとめた。
そのまま今日は泊って行けと言われて、目が丸くなった。全くどこまでお人よしなんだ。でも断れなくて頷いてしまった俺に女は嬉しそうにした。
そのまま台所に立ち、料理を始めた女を椅子に腰かけてジッと見つめる。
「あんた、名前は?」
「サラです」
サラ、ねぇ。中々いい名前を貰ってるじゃないか。そしてそれと同時にサラと言う名前に聞きおぼえがある。
もしかしたらこいつは地方豪族の娘なんじゃないか?でもそうだとしたら一人暮らししてるっておかしいよな。
「一人で暮らしてるのか?」
「そうです。家族はいるんですけど、一人暮らしをしてみたくて……」
「あんたの父親ってもしかして貴族か?」
問いかけにサラは肯定をしたけど、余り語りたくなさそうだったから、それ以上は何も聞かなかった。それにしても資産家の娘が一人暮らしってきな臭いな。もしかして虐めにでも遭ってるのか?
まぁ関係ないんだからどうでもいいんだけどな。
サラに名前を聞かれたけど答えれなかった。流石にアスモデウスです、なんて言える訳もない。何も言わず黙っている俺をサラは追求することなく笑って話を逸らしただけだった。
不思議な女だな。最初の第1印象はそれだけだった。
「どうですか?今日はいいお野菜が安く買えたんです。味付けも上出来です!」
「まぁ普通。不味くもないし美味くもない」
「そんな事言ってぇ~もう3杯目じゃないですか。認めてくださいよぉ」
サラの作ってくれた飯は正直言って美味かった。でも言ったら負けな気がして、ノーコメントのまま口の中にかきこむ。
サラはその光景をニコニコしながら眺めていた。一体何が楽しいって言うんだ。
「家庭を持ったらこんな感じなんでしょうかね……」
「ん?」
「うち、お父さんが仕事熱心なんです。だからある程度の資産があるんですけど、でもそれで幸せになれる物なんでしょうか……お母さんはいつも悲しそうでした。そして最後はお父さんを見限って出て行った。その時、お父さんはお母さんの事を見向きもしなかった」
次第に辛そうな顔になりながら、サラは食事をしながら思い出すように言葉を落としていく。
相槌は打たなかったけど、ちゃんと聞いている俺を見て力無く笑うだけだった。
「私、お父さんが嫌い。お父さんはお母さんよりもお金を選んだから」
「でもそのお陰で、あんたは一人でもこうやって生活できてるんだろ?我儘してるんじゃないのか?」
「……そうですね。一人で暮らしたいって意地を張って喧嘩になったんですけど、結局お父さんは家を用意してくれました。でも私決めたんです、自分で料理とか洗濯とか一人でこなして大好きな人と結婚して子どもと一緒に幸せに暮らそうって」
夢を語るサラは嬉しそうだけど、今のご時世、資産家の娘が恋愛結婚なんてパターンは少ないだろうな。
大体親にとってメリットのある相手との政略結婚がこの時代ではほとんどだ。サラの夢は叶わないだろう。そしてそれを少し残念に思った。
なぜだかこの少女には幸せになってもらいたい。何でか分からないけど、柄にもなくそう思ってしまった。
「ねぇ、名無しさん」
「誰が名無しだテメェ」
「名前を教えてくれないんですもの。仕方ないでしょ?傷が治るまで家にいない?」
「はぁ?」
「だってその傷じゃ一人旅とかも危険でしょう?私も誰かと一緒にいるの楽しいし、ご飯とか食べてもらえるのって幸せなの」
どこぞの主婦だ、そう言いたかったけど喉で止めておいた。悪い気はしない、少しだけ寄り道して帰るのもいいだろう。そう思っていたから。
その頃の俺はまだまだ餓鬼で自分が楽しい事をするのが最優先で、周りの事なんか考えない奴で、本当に悪魔って感じだと今だと思う。
でも彼女との出会いが全てを変えていく。それさえ気づかなかった。
出会った事は正解?それとも間違い?
大切な気持ちを手に入れた代償は、余りにも大きくて苦しい物だった。




