第186話 地獄突入
光太郎side ―
「光太郎君、本当に私達は行かなくていいの?」
「はい、大丈夫です。直哉君だけは守って見せます」
拓也の家の玄関で心配で仕方がないといった感じで直哉君を俺に付いて行かせるのを渋るのは拓也のおばさん。今日、直哉君はマンションに来る。拓也を連れ戻すためにパイモンたちが地獄に突入するからだ。その依り代として常にストラス達の側にいなきゃいけないため、しばらくマンションに缶詰めになる。
何度も不安を口にするおばさんを見ていて仕方がない反応だと思う。現に自分の息子が一人いなくなったんだから。直哉君までいなくならないか、おばさんはそれが恐いんだ。
だから俺が直哉君を守らなきゃいけない。
186 地獄突入
「平気だよ。俺行ってくる」
リュックに荷物を詰めた直哉君が出てきて俺の後ろに隠れるように回った。あんまり話すと止められるのが目に見えているからであろう。あまり目を合わせずに俺の背中から行ってきますと小さく伝える。
そんな直哉君におばさんは悲しそうに顔を歪めた。
「直哉、行きたくなかったら行かなくていいのよ。貴方をあんな人達に渡しはしないわ」
「違うよ、これは俺の意志で行くんだ。俺が行かなきゃ兄ちゃんを助けられないんだ。だから行くんだ」
直哉君のピシャッとした声におばさんはそれ以上何も言わず、涙を堪えた様な声で小さく「行ってらっしゃい。ちゃんと帰ってきてね」と、それだけ告げた。
直哉君は頷いて玄関に手を掛けたと思ったら、おばさんに振り返った。
「俺、帰ってきたらオムライス食べたいな」
直哉君がにっこり笑って放った言葉。その言葉におばさんは泣きそうな顔で笑って何度も頷いた。直哉君は今度こそ振り返らずに歩いていき、俺もその後を追いかけた。二人で松本さんを迎えに行って三人でマンションに向かっている間、会話はなかった。それぞれが緊張した面持ちで下を向いているからだ。
この暑い八月中旬にきっと俺たちは昼間から冷や汗だらだらなんだろうな。
それに……結局俺はあの指輪の事をパイモンには言えなかった。だって返ってくる返事が恐かったから。言われる事は分かってるんだ。きっとあいつはこう言う。「間違いなくこれだ」って。そうなった時、松本さんに説明できる勇気が俺にはないし、正直これ以上問題を増やしたくないって言うのもあった。
そう、簡単に言えば恐かったんだ。
***
『いらっしゃい光太郎、澪、直哉。暫くこちらに貴方達は住んでもらう事になります』
マンションにはストラスが神妙そうな表情で待っていた。いつもと違うマンション内の空気に大きく息を吸ってしまった。それを感じ取った直哉君の瞳が不安げに揺れる。これからビッグイベントが待ってるんだから緊張しないほうが無理だろ。直哉君が息を飲み、俺は腕にはめたシトリーの契約石であるトパーズのブレスレットを握りしめた。
中に入ってびっくりしたのは、ものすっごいでかい紙に漫画で見たことのあるような魔法陣が書かれていた。寸分の狂いもなく仕上げられているだろうそれに、これだけで相当の時間がかかったことがうかがえる。
触ろうとした直哉君をヴォラクが体を張って止めた。少々乱暴に手を払いのけられ直哉君が唇を尖らせた。
「わっ!何すんだよ!」
「下手に触るなよ。この魔法陣は1cmでもずれたらお終いなんだ。お前の手汗で魔法陣の線を滲ませたくないからね」
「失礼だな!」
見た目の年齢が近いせいか、直哉君はだいぶヴォラクと打ち解けたみたいだ。ヴォラクも茶々を入れながらも、少しだけ楽しそうに笑ってる。でも時折見せる悲しそうな顔はやっぱり中谷がいないからだ。ヴォラクと中谷がどれだけ仲が良かったかなんて俺でも分かる。
暇な時は二人で遊びに行っていたし、よくキャッチボールしたりゲームしたりしているのを見たことがあったから。やっぱりヴォラクにとって中谷の代わりなんていないんだ。それは俺にとっても同じだけど。早く拓也と中谷を見つけて連れ戻したい。今の状況を笑って話せるような未来にしたい。
こんなんじゃ……一生思い出したくもない過去になっちゃうよ……
俯いてる俺を見かねてか、シトリーが相変わらず乱暴に俺の頭をグジャグジャにしてきた。
「ちょっ……止めろよ。セットくずれんだろ」
「この非常事態に髪整えてる場合かよ。いいじゃねえか今の頭。突然の暴風ヘアーみてえで」
「ふざけんな!ったくもー」
慌てて髪の毛を直した俺を見て、いつものむかつく笑みを浮かべていたシトリーから表情が消える。緊張した面持ちのせいでこっちまで伝染してしまう。そんな俺の表情に察したのかシトリーが罰が悪そうに頭を掻いた。
「あーくっそ……だせえな。お前にまで伝わっちまうよな。めちゃくちゃビビってるよ。手なんか震えてっしな。俺はもともと戦闘に特化してねえし、どこまでやれるかもわかんねえ」
俺の手を握ったシトリーの手は震えている。シトリーも怖いんだ。死ぬかもしれないから。何も返事ができない俺にシトリーがペラペラ話してくるけど、それは全部弱音だった。
「お前に弱音はいたって仕方ねえのは分かってっけどよ……どうしようもねえ不安しかねえ」
「ごめん。俺、なにもできない」
「……本当にな」
俺はシトリーの役に立てない。本当になという肯定の言葉が突き刺さって少しだけ泣きそうになる。シトリーは大きく息をついて手を離した。なんだかその手を離したらもう二度とシトリーには会えなくなりそうで、慌てて再び手を握った俺に向こうは目を丸くした。
「絶対、絶対かえって来いよ。俺ずっと待ってるからな。俺、お前がいなくなるなんて嫌だよ……死ぬなよシトリー」
「……おう」
シトリーの手の震えはまだ収まらないけど、泣きそうな俺を励まそうとしてくれる。本当にこいつに頼ってばかりで肝心な時に何もできない奴だ。俺達の会話を松本さんが悲しそうに見つめており、直哉君とヴォラクも無言で見つめていた。
準備が大方できたのか、パイモンとセーレが奥の部屋から出てきた。ヴアルとストラスも魔法陣が間違ってないかの最終確認をして、俺達の前にやってきた。
「いい?三人とも、いつ契約石にエネルギーの反応が行くか分からない。契約石はこれから常に身に付けとくようにしてね。それと……仮契約でいいから誰かヴォラクと契約してくれないかしら」
ヴアルの言葉に俺と直哉君と松本さんは目を丸くした。でもすぐに何でかは分かった。察した俺達と違い、まだ理解してない直哉君にヴアルは丁寧に説明していく。
「あのね、地獄から再び皆が正式な儀式もなく人間界に帰ってくるためには契約者と契約石の力が必要なの。つまり今のままだと契約者のいないヴォラクは帰ってこれなくなっちゃうの」
「別にいいんだよ。もしかしたら中谷のいる場所に飛ばされるかもしれないんだから」
「本人があんな調子だから話し進まなくて……」
どうやらヴォラクは俺と松本さん、直哉君と契約する気はなさそうだ。
まぁ中谷のエネルギーが届いてるんだ。ヴォラクの言うとおり、中谷のところに地獄から帰る際に召還されるかもしれない。そしたら中谷を探し当てれる可能性だって……でもそれに釘を刺したのはパイモンだった。
「駄目だと言っているだろう。お前も納得したはずだ。いいから仮契約をしろ。すまないな光太郎、お前を契約相手にするとこちらで勝手に話をつけた。悪いが飲んでくれ」
ヴォラクは黙って契約石を俺に差し出してきた。どうやら仮契約の相手は俺に決まっていたようだ。
それにしても仮契約って何なんだろう……
「パイモン、仮契約って何?」
「契約者と悪魔が契約をしている場合に、一定の短い期間だけならもう一人の人間と契約することが出来る。それが仮契約、しかし期間が過ぎれば契約が一方的に切れてしまうから、まぁ短時間で悪魔との等価交換を果たしたい場合にだけ用いられる契約だ」
「ペナルティとかは?」
「内容によりけりだ。ただ、俺達がペナルティでお前たちに不利益を与えると思うか?」
いや、思ってない。
首を横に振った俺にパイモンはそれなら問題ないだろうとでも言うように、話を打ち切った。ヴォラクから渡された赤い宝石はキラキラと俺の手の中で輝いている。本来の持ち主はここにはいない。ヴォラクは未だに不機嫌そうで、俺が持ち主だと認めていない様だった。
口をとがらせながら一言嫌味を発する。
「割らないでよ」
「割らねえよ。どっかの誰かと一緒にすんなって」
以前、中谷がポケットに入れていた契約石を落として後続の自転車に轢かれたと泣きながら報告してきたことを思い出した。契約石は結界が張ってあったから無事だったけど、ぞんざいに扱われたとブチ切れたヴォラクと逆切れした中谷で大喧嘩をしていたんだったな。
でも結局数十分後には二人でお菓子食いながらゲームしていて、なんで喧嘩したかも忘れたなんて言ってたから笑ってしまった。
俺の発言にヴォラクも同じことを思い出したのか少しだけ笑ってくれた。うん、お前は笑った顔が似合うよ。仮契約の話が終わり、全員揃ったかと思ったが、光の姿が見当たらない。昨日話したのにリビングにはいない。大分に帰ってしまったんだろうか。
セーレに光の場所を伺うと、苦い表情をして自室を指さした。
「引きこもってる。決意がまだ固まらないんだろうな。いくらフォラスがいるとはいえ、光自体は人間だからな。俺達がとやかく言うのもあれだからフォラスに任せてる。でも光太郎なら何とかできるかもね、今俺の部屋にいるよ」
「あ、うん……」
俺なんかが説得できんのかな。
そう思いながら俺はセーレの部屋に繋がるドアに手を掛けた。扉を開ける音も気づかないのか光はブツブツ独り言を話している。しかし内容が明らかに会話になっており、声に出してフォラスと会話をしているようだった。
「あー……マジ行きたくない。なんか途端に現実味帯びてきた。地獄行くってやばいやろマジで」
「そう言ってもな……引き受けたのはお前だぞ」
「引き受けるってか、断れなかったっつーか……大体あんな話聞いて断るとか出来る!?流されるだろ!」
「流されたお前が悪い。もう後戻りは出来ないぞ」
「だってさー……フォラスーどうしよう」
「光」
俺の声が聞こえて、光は肩を大げさに揺らした。恐る恐る振り返った表情には少しだけ怯えが入ってる。そりゃそうだよな……行きたくなんかないはずだ。そんな光に強制で行けなんて俺は言えない。だって俺はただ待ってるしか出来ないんだから。俺が光に何をしてやれるんだろうか。
当の本人は罰の悪そうな顔をして、気まずそうに立ち上がった。明るく接してはくるが空元気なのが見え見えだ。
「あー、うん。大丈夫、行ける行ける。なはははは!」
そんな冗談通じないよ。行きたくないんだろ。今からでも間に合うんじゃないか。光は俺達と同い年だ。高校生で、一般人なんだ。地獄に行くなんて、想像できないくらいの恐怖だろう。
「別に行きたくなかったら無理にとは……こんなの行きたくないに決まってるし」
「それはそれで後悔すんだよ」
ピシャンとした声に体がはねた。光はさっきまでの情けない表情とは違い、真剣そうな顔で俺を見ている。でも恐怖と不安、怒り、色んな感情が混じっている気がする。
「そりゃ行きたくなんかねえよ。でも実際行かんで待ってろっちなってもどうすりゃいいんだよ、絶対後悔するやん。こえーよ。怖くてたまらない。どうしたらいいかなんてわかんねえよ」
「光……」
「拓也は俺に審判を止めるっち約束してくれた。俺は拓也を信じたい。お前も、俺とフォラスを信じろ」
光は少々乱暴に俺をどついて部屋を出て行ってしまった。残された俺はその後を慌てて追いかける。
リビングではもう準備が出来上がっていて、ストラスとヴアルが念入りに最終チェックをしていた。その横では何かを話しているパイモンとセーレの姿があり、光君はその中で深呼吸をしており、マンションに置いてあった竹刀を握り締めている。
パイモンは魔法陣を見て、不安げに呟く。
「本当にこれで上手くいくのか?正式な魔法陣の割に道具が一切揃ってないぞ」
「でも仕方ないだろ。蛇の干物や鷲の爪や人間の内臓なんて中々今の状態では手に入らないさ。多分大丈夫だろ。道具が大量に要る儀式は人間がやる物だ。俺達は本物の悪魔を媒体にして行うんだから失敗しないさ」
「だといいがな」
「失敗しそうなのか?」
ヌッと現れて呟いた俺にパイモンとセーレは肩を震わせた。会話に入っていいか分からなかったけど、どうしても気になってしまったから。何も答えないパイモンにセーレが大丈夫だと答えてくれるけど、どうしてもさっきの会話が気になってしまう。失敗したらどうなるんだろう。
ヴアルとストラスのチェックが完了してパイモン達に頷いた時、室内に嫌な空気が流れた。
直哉君が息を飲み、松本さんが胸の前に手を重ね合わせた。悪魔の姿に変わったパイモンとセーレが立ち上がって、光の手を引いて魔法陣の上に立ち、その中にヴォラクも入る。そして……
「シトリー……」
「まあ、なるようにしかなんねえな」
シトリーは苦笑いしてソファから立ち上がり、魔法陣に向かっていく。その後ろ姿を見てるともう会えなくなるのではないかという不安が襲い、気づいたらシトリーの腕をつかんでいた。何も言わずにシトリーの腕をつかんでいる俺の手は震えていて、シトリーが困ったような顔をしたのが分かった。パイモンたちは急かすこともせずに俺達を見守っている。
「戻ってこなかったらグレモリーと地獄でイチャイチャしてると思ってくれ」
「はあ?」
「じゃあな光太郎、またあとで」
シトリーは俺の腕をほどき、頭を一回軽くたたいた後に魔法陣の中に入ってしまった。何も言えずに溢れそうな涙をこらえ鼻をすする俺の肩にストラスが飛び乗ってくる。頬に当たる羽毛が温かくて柔らかい。なんだか少しだけ落ち着いた。拓也も普段こんな気持ちなのかな。
俺が落ち着いたことを確認して、ストラスとヴアルが魔法陣の前に立つ。
『いいですか?今から私とヴアルが魔法陣の力を利用してゲートを開きます。一瞬しかできないので見逃さないでくださいよ』
『そうよ。五人も一気に一つの魔法陣で連れてくって大変なんだから』
息を吸い込んだヴアルに不安そうな表情の松本さんが話しかけた。
「ヴアルちゃん。一つ一つ魔法陣を作ることは出来なかったの?」
『飛ばされる先は結構ランダムだから……皆ばらばらに飛ばされたら大変じゃない』
「そっか……」
『さて私達の方の準備は整いました。そちらはいいですね?』
『いつでも行ける』
遂に始まるんだ。パイモン達が地獄に突入する日が……ずっと待ちわびてた。やっと俺達がやらなきゃいけない事の一つが実行されようとしてる。絶対に失敗は許されない。必ず拓也を助け出すんだ!!
『悪いけど邪魔をされたら適わないね』
その時、どこかから声が聞こえた瞬間ヴアルとストラスが吹き飛ばされた。
ガラスが割れる音が響き、光や直哉君、松本さんが悲鳴をあげる。何が起こったんだ!?何が何だか分からない状況にとにかく竹刀を持って状況を確認する。そして分かったのは悪魔が襲撃してきたという事、それも三匹も。
スーツを着こなした優男が笑みを浮かべて立っている隣には、鋭利な剣を持っている男にライオンの様な獣に跨ってハルバートを構えた色黒の少年がいた。ちょ……ライオン連れて上がってこないでよ。
心の中で突っ込みを入れれば、パイモン達の表情が歪む。セーレがヴアルを支えながら立ち上がらせ、悪魔達を睨んで声を出した。
『バティン……どうしてここに』
バティン……その言葉に聞き覚えがあった。前に拓也が言っていた。パイモンと連絡を取り合っている悪魔がいるって。パイモンが自分たちを裏切るかもしれないって。その悪魔の名前がバティンって言っていた。なんで、今ここに……
バティンは虫も殺さぬような笑みを浮かべて一歩前に出る。
『ああ申し訳ない。本当は玄関から入るべきだったかな?素直に入れてくれないと思ってね、こんな入り方になって悪いね』
『なんでここが分かったんだ?』
『こんな魔法陣まで描いて同胞の魔力を感じるんだ。不思議に思って可笑しくないだろう。って言うのは冗談で……垂れ込み元がいるんだよね』
垂れ込み元……思い当たる人物は一人しかいない。咄嗟に視線を送った先にいた人物は険しい表情を浮かべている。パイモンだろ、こいつがバティンに場所を教えていたんじゃないのか。このタイミングでの乱入といい、間違いないだろ。
魔法陣から出てきたシトリーが庇うように俺の前に立つ。
目の前のバティンは人のいい笑みを浮かべながらもやってる事はかなりえぐい。しかもバティン以外はかなり殺気立っている。何だかよくわからなくて、シトリーの背中に隠れて状況を伺い、ストラスに他の悪魔について問いかける。
「ストラス、あいつらって……」
『悪魔バティンはルシファー様の側近でパイモンと同じ位の悪魔です。彼については貴方も存じているでしょう。そして後ろにいるのがマルコシアスとキメジェス……彼らはそれぞれパイモンとセーレの親友とも呼べる悪魔です』
それってかなり戦いづらいんじゃないのか!?
ストラスが説明してた色黒の悪魔、キメジェスがセーレに手を伸ばした。
『セーレ、いつまでそいつらとのお遊びに付き合ってやってるんだ。情にかられる必要はないよ。もう戻ろうよ』
キメジェスはかなり必死にセーレに呼び掛けている。そしてキメジェスが喋るたびにセーレの顔が悲しそうに歪んだ。雰囲気から見るにかなり仲が良さそうに見えるけど……
セーレに手をとる気がないのを確認してキメジェスの表情が歪む。でも横にいるマルコシアスは無表情だ。その視線はジッとパイモンを見つめており、その視線を受けたパイモンは顔を背けた。
とにかく何とかしないといけない。でもヴアルとストラスが下手に動いたらパイモンたちを地獄に送れなくなる。それだけは避けなきゃいけない。
一体なんなんだよ!こんな大事な時に!!




