第168話 揺らぐ決意
アスモデウスside ―
『ふん、まだまだだな』
「うあ……ひ、ひぎ!」
その日もベルゼバブの希望を引きだす特訓が行われていた。
希望の悲鳴が室内に響き渡り、その光景を見るに耐えれなくなった俺はただ目を閉じた。こんなこと、無理やり続けて彼の体が壊れる方が先か、覚醒するのが先か……正直前者ではないかと思う。
168 揺らぐ決意
『随分手こずってんな、あいつもさっさと殺っちまえばいいのにな。多分、サマエルのが早く事が進むと思うぜ。お前もそう思うだろアスモ』
サタンは柱の陰から希望とベルゼバブの様子を眺めている。希望の悲鳴が響き渡る中、ベルゼバブは何も言わずに希望を見つめているが、俺達に気づいているらしく、時折こちらに視線を送ってくる。その視線は邪魔するなとか、もう面倒だから何とかしてくれとか、いろんな意味が込められていて、サタン軽く手を上げて挨拶すると、相手の目が不機嫌そうに細められた。
肝心の本人は痛みに涙を流し息も絶え絶えで冷たい床に倒れこんでいる。体中から出血し、ひっかいたのか床にたてた爪は割れている。あまりにも痛々しいその姿に不本意ながら同情すら抱いてしまう。あんな子供が本当に指輪を使いこなせるんだろうか?ただジッと見つめていればサタンが茶々を入れてきた。
『ベルゼバブは一週間あれば何とかなるっつってたのによぉ、このままじゃ数年はかかるんじゃねえか?』
『……ベルゼバブに任せとけば問題ないよ。きっと上手くやってくれるさ』
『やってもらわなきゃ困るんだよ。』
彼以外に本当に誰もいなかったのか?彼以外に指輪を使いこなす事が本当に不可能だったのか?今からでも彼から指輪をとりあげてサマエルに渡すことはできないのか、本人たちもそれが一番いい筈だ。最後の瞬間がくるまで希望は人間として生きたらいいだけの話じゃないか。なぜ、ここまで彼を苦しめる必要があるのか。あんな戦う事にも殺しにも何もかも無知な子どもに全てを託す必要なんてないのに。
希望は苦しそうに息を吐いてベルゼバブの言われるがままになっている。でも彼は決して俺達に屈した訳じゃない。今でのその目はベルゼバブを隙を見たら睨みつけて抵抗を示している。戦う事も出来ないのに意志だけは固いようだ。
そんな彼にルシファー様も満足してるようだから別に何も言う事はないけれど……
サラのペンダントを手でいじりながら、ただ希望を見つめる。希望は日本人だって言ってた。なら彼はサラと会った事はないのかな?あ、そうか。サラはもう数百年も前の話だから彼が会った事がある訳がないよな。勝手に考えて勝手に自己完結して、またペンダントをいじる。もう一種の癖のようになっていた。これを握り締めると心が落ち着く。お守りのような、俺を平静にとどめてくれる。
― そんなサラの生きていた世界を壊そうとしている。
それにひどく罪悪感が募るけど、しょうがない。ルシファー様がお望みになられたことだ。俺に止める権利はないし、第一サラはこの世界にいないんだ。
悠久の時を経てしまった……サラの子孫ももう潰えてるかもしれない。俺が知っているメディアの街も、名前が変わり存在すらしないのだろう。
俺が知っているのはサラは二十歳の時に死んだ。それだけだった。俺が地獄に返されて二年後の事だった。
それはきっと俺のせいなんだろう。サラが望んでいないと言う理由で殺し続けたのだから。俺のせいで疲れ果ててしまったんだろう。最後に、君が罪悪感で苦しんで泣いている姿を今でも鮮明に覚えているよ。あの日、二人で何もかも捨てて逃げたらよかったんだ。あの街で幸せに暮らそうなんて傲慢な考えを抱かなければ、俺達には未来があったのかな……
そう思うと、最後の審判をすることが本当に正しいとは思わない。俺たち悪魔は今の生活がお似合いだ、明るい太陽の元での生活なんて、今更憧れる必要だってない。だからといってルシファー様のお考えを反対する必要もないし、人間が滅ぶことも別に何の関係だってないことだ。だから不思議でならなかった。ストラス達が裏切った事が。そりゃ契約者がいい奴なら、信頼しあえる奴なら愛着がわいたっておかしくないし、守ってやりたいって思うのも不思議じゃない。
だけど、たったそれだけで……全てを捨てられるんだろうか。
考えても結論は出てこない。結局彼らは俺達に始末されて消えていくんだろう。俺はただそれを眺めるしかできないんだ。
『はぁ……こっちとしちゃ審判邪魔されちゃ困るんだがなぁ。数万年に一度の祭りだぜ』
面倒そうに柱に寄りかかって呟くサタンにとって審判はその程度の存在。地上の覇権争いなどどうでもいい。ただ純粋に強い奴と戦いたい、それだけだ。サタンより強い奴なんているのかすらも分からない。ルシファー様にも引けを取らない強さを持っているのがサタンだ。そんなサタンに喧嘩を売る悪魔なんている訳もなく、暇を持て余している暴れん坊のサタンからしたら地獄は暇で仕方がないんだろう。だから審判はサタンにとっては数万年ぶりに自分の全ての力を使って何もかも破壊する事が許される一大イベントなのだ。
天使の中にもサタンと同格の力を持つ者がいる。サタンはそれを壊したくてウズウズしている。
それに比べて俺は未だに焦ってる。サラの愛した世界が終焉を迎える事に。サラの生きた証なんて今の人間界には残されていなかった。ただサラは人間達に呪われた娘、悪魔に好かれた女、そう思われている。
サラが住んでいた家は全く違う物になって、全く違う人間が住んでいるし、サラの愛した街は違う人間達が新しい街に作り替えていっている。サラが生きていた証なんて何もないんだ。だから別に何も迷う必要はない。
トビト書に書かれたサラの記録は全てでたらめで、何の意味もない。真実を知るものは人間の世界にはもう残されていないのだから。
俺には七つの大罪とサタネルの肩書きがある。そんな事に縛られたらいけないんだ。それなのに、俺は未だに……
他の奴らが羨ましい。俺みたいに中途半端じゃなくて。いや、俺がウジウジしすぎなのかもしれない。迷ったらいけないんだ。だってこの世界には大事な物が沢山ある。目の前のこの男は俺の世界で
最も大切な存在だ。唯一の親友だから。
『俺も希望と力比べしてみてえ。勿論サタナエルとも』
『燃やされるよ』
『はっ俺が負ける訳ねぇだろ?』
サタンはいつだって自信満々だ。でもそれに見あう実力があるんだから羨ましい。
真っ直ぐで迷う事が無い。本当に羨ましいよ。
『そうだな。サタンは負けないもんな』
そうつぶやいて視線をそらした俺を見て、サタンの先ほどまでの威勢は消えていく。希望の悲鳴とうめき声だけ部屋に反響し、居心地悪そうにしているベルゼバブの姿だけが視界に入る。
その光景を数分間眺めていると、黙っていたサタンが口を開いた。
『……お前は俺の後ろに居ればいいぜ。お前を守るくらいの力は持ってるさ』
サタンは優しい。俺にいつも気を遣ってくれる。
「うあっ!うああぁぁあああ!!」
希望のひときわ大きい悲鳴が聞こえた途端、声が一切聞こえなくなった。サタンがまたか。と呟き、柱から覗くと案の定、希望は気を失っていた。グラットンが希望の傷口に管を突き刺しベルゼバブのエネルギーを吸い出している。巨大な虫が人間の腕に管を突き刺す様は少しグロイものがあるが、こればかりは仕方がない。ベルゼバブは溜め息をついてこの光景を眺めていた。
『ベルゼバブ、また駄目だったじゃねえか』
サタンが柱から出ていってベルゼバブに話しかける。慌ててその後をついて行った。
ベルゼバブは困ったように笑い、グラットンの頭を撫でる。
『お手上げだ。本人がサタナエルのエネルギーを享受したくないと強く思っている。これは中々骨が折れる。案外強情なんだよ。可愛いね、どこまで続くか駆け引きをしてしまう』
『おいおい時間がねえのに、んな余裕ぶっこいていいのかよ。おねんねしちまってるぜ』
『いつもの事だ。少し休ませれば目が覚める』
『馬鹿だな。こうすりゃ早いだろ』
サタンはそう言って、希望の腹を思い切り足で蹴飛ばした。
「うえ!がはっごほ!」
『うわ汚ねっ胃液出やがった』
サタンの文句に反応も出来ないくらい希望は疲弊していた。
体中から血を流し、呼吸も荒い。こんな状態で続きをできるはずもない。だが二人は無常だ。
『ああ、それは考えもしなかったな。俺的には暴力的な事はしたくなかったんだが……起きたのならもう一度やってもらうか』
「い、嫌だ!嫌だ!!来るな!」
ベルゼバブが希望に一歩近寄る度に希望は顔を青ざめさせ一歩下がる。だが後ろにグラットンが回り込んだ事で希望に逃げ道は無くなった。希望は血だらけになった顔をくしゃりと歪め、ただただベルゼバブを拒否する。
そんな希望の反応を見てベルゼバルは目を細めて笑う。お気に入りのおもちゃを手に入れた子供の様に。
「嫌だ……こんなのもう嫌だ!」
『俺もこんなことしたくないんだけど、許してくれよ。な?』
グラットンの管が希望の腕に突き刺さる。
希望の悲鳴が聞こえ、居たたまれなくなった俺は助け船を出そうと一歩足を前に出したがサタンに止められた。
『サタン放せよ!このままじゃ本当に死ぬぞ!』
『死ぬ寸前まで追い詰めるんだよ。殺す気でやるに決まってんだろ。こいつは自分の置かれた状況を分かってねえ。まだ自分は甘やかしてもらえるとでも思ってんのかね』
そんな事を思ってる訳じゃないはずだ。人間として育てられた希望からしてみたら、急に悪魔になりましたと言われて簡単に納得がいく訳がないし、こんな理不尽な仕打ちも納得がいかないはずだ。再び耳をつんざくような悲鳴が聞こえ、俺はその場を茫然と見ているしかできない。
居たたまれなくなった俺はサタンの腕を振りほどき、部屋の出口に足を運ばせた。
『あ、おいアスモどこ行くんだよ』
『一人になりたい』
それだけ告げて部屋を出る。しかし出た先には一人の悪魔がいた。
『デイビス』
『お?おぉアスモデウス様。ご無沙汰しております』
俺が希望に付けた専属医デイビスだった。なぜここに?そう言いかけたけど何となく理由が分かった。デイビスはただ真っ直ぐ扉を見つめている。この先には希望がきつい特訓を受けている。
デイビスが部屋の中に入る事をベルゼバブは禁じた。デイビスは絶対に希望の身を案じて途中で中断させるのが目に見えていたからだ。案の定デイビスは自ら営んでいる診療所を抜け出してまで希望の様子を見に来ているのだ。
『アスモデウス様、拓也は今どういう状況なのですか?』
『……拷問だよ。意識を失って目が覚めたら再び同じ事の繰り返し。サタンがいるから気を失うことも許されない』
『それはどう言う事なのですか?』
『気を失ったらサタンが無理矢理にでも希望を叩き起こす。さっきも腹に思い切り蹴りを入れてたよ』
『なっ怪我人になんという事を!アスモデウス様!なぜ止めてくださらんのじゃ!』
デイビスは顔を真っ青にさせて、必死で俺に懇願してくる。希望を助けてくれ、と。デイビスは医者の鑑の様な奴だ。自分が診た患者であれば悪魔だろうがなんだろうが関係ない。大切にしてくれる。だから希望を任せられた。でもベルゼバブとサタンに俺が歯迎える訳がない。力で抑え込まれるだけだ。
『ごめんデイビス……』
『……アスモデウス様が謝る事は御座いません。わしが精いっぱい奴を支えます』
デイビスは俺の謝罪を聞いて力なく項垂れた。結局俺は誰も救えない。
デイビスはもう暫くこの場に残る様だ。俺はそんなデイビスに頭を下げ、一人になれる場所に向かう。それは俺とサタンしか知らない場所だ。他の悪魔には教えていない場所。
そこに向かって歩いている俺に誰かの声がかかった。
『よぉアスモデウス、しけた面してどこ行くんだ?』
『……ベヘモト』
俺に声をかけてきたのはベヘモトだった。ベヘモトはニヤニヤ笑いながら、俺に近づいて来る。正直ベヘモトに関わるとロクな事がなさそうだ。レヴィがいるし。
適当に会話を済ませて場を去ろうと試みた。
『何か用か?お前がここにいるなんて珍しいな』
『お前を探してたんだ』
俺を?ベヘモトは俺に何の用があるって言うんだ?
嫌な予感がして胸がざわつく。ベヘモトが辺りに他の悪魔がいない事を確認し、俺に振り返る。
『面白い話を聞いてよぉ、サラって人間の事なんだが』
その言葉に息がとまりそうになった。だがサラの事は7つの大罪しか知らない話だ。ベヘモトが話を出したサラに下手に反応するのはまずい。平常心を装ってベヘモトの話に極めて興味がないフリをして返事をした。しかしそんな俺の態度を知ってか知らずか、ベヘモトはニヤニヤ笑みを浮かべたまま。
『ルシファー様が是非地獄に招待したがってんだってよ』
『ルシファー様が?大体サラは何者なんだ?』
何を馬鹿な事を。俺が知ってるサラだったとしたら数千年前に亡くなってる。
今更何を招待すると言うんだ。
『ある悪魔の動きを封じたいらしいぜ。そいつは裏切る可能性があるからってよ、そいつのネックになるサラって人間を捕えたいらしい』
『はっ……な、何を馬鹿な事を。裏切るなんてそんな……』
『捕えるのはサラの子孫だ。唯一直属の子孫の女がいるんだとよ』
その言葉に本当に一瞬呼吸がとまった。サラの子孫?サラの生きた証……それが存在してるって言うのか?人間界に召喚されて1年近く探し続けたけど見つからなかった。もう息絶えたのだと思っていた。サラは子を身篭って死んだと聞いていたけど。そんな、サラの子孫が……そしてルシファー様が指してる動きを封じたい悪魔というのは間違いなく俺だろう。
― 俺は信用されてないんだ。
その結論に気分が半端ないくらい低下する。一人孤立してしまった感覚に陥った。でもサラの子孫が地獄に連れて来られるのだけは阻止しなければならない。なら俺がルシファー様に忠誠を誓えば……いや、忠誠は誓ってるんだ。それでもルシファー様は俺を疑ってる。サラの愛した世界を壊したくない。サラの血を引いたその子に幸せを送ってあげたい。結局俺は変わらない、数百年経っても学習しない馬鹿な悪魔だ。それでも大切な者を守りたい、そう思うのは当然のはずだ。
『……失礼するよベヘモト、用事が出来た』
『おう、引きとめて悪かったな』
ベヘモトと別れて自分の部屋に向かう。何とかしなければ、その子は誰なのか?本当にサラの子孫なのか。だとしたら……その子はきっと悪魔に狙われる。
俺が庇ったとしたら絶対に白羽の矢はその子に向くだろう。だけどこのまま俺がルシファー様に忠誠を誓っていたら審判が起こり、その子は間違いなく死ぬ。
愛した人がいた。ずっとずっと今でも愛し続けてる人がいた。
大切な友がいた。ずっとずっと側にいてくれた大切な奴がいた。
一緒に手を繋いで歩いてくれた彼女、一人になった俺に手を差し伸べてくれたあいつ。
どちらが大切かなんてわからない。どっちも大切なんだ。
なんでこんな現実が待ってるんだろう。何も知らなかったら迷いながらも前を向いて行けれたのに。
今の俺には真っ直ぐ前を見据えるのは難しすぎた。
それがべへモトの俺に対する罠だということも知らずに。




