第128話 光の中でひまわりを
グレモリーside ―
『Natarie?(ナターリエ?)』
何が起こったというの?ナターリエに何が……
ナターリエがいるはずの部屋はえらく散らかっており、所々に血が媚びりついている。そこにナターリエの姿はなく、あったのは首のなくなったハンスの姿とナターリエが大事に持っていた三人で写った写真を入れた写真立てだけだった。
128 光の中でひまわりを
あまりにも凄惨な状況と鼻をつく異臭に手で鼻を覆った。ナターリエがハンスを殺したのだと理解するのに時間はかからなかった。私がいつも殺せと言っていたのを頑なに拒んでいたのに……一体あの子に何があったと言うの?
靴も鞄もなくなっており、彼女が失踪したことを理解して額にじんわりと嫌な汗が出た。あの子を探さないと……今のあの子はきっと不安定な状態だから私がいてあげないと……でもあの子はどこに?
ナターリエの行きそうな所を必死で考える。コペンハーゲン?いや、ここからあそこは遠すぎる。きっとハンスの首はナターリエが持ってるはずだから、あの首を持って人通りの多い場所は行かないはず。
まさか故郷に帰った?
確かナターリエの故郷はロスキレの片田舎で、ここからなら一日歩けば辿り着くって言ってたわね。ハンスとの思い出の地……きっとあの子はそこに向かったんだわ。行き方が分からないけど急いであの子を見つけないと。こんなはずじゃなかった、あの子を狂わせるつもりなんてなかったのに!ただあの子の幸せを願っていたのに!ハンスのせいで失くしてしまった幸せを。こんな結末を望んでいたわけじゃ……!
殺してしまえと言ったけれど、あの子の未来がそれでひらけると思ってたのに!
財布がベッドの隅に置かれているのを見て、私の焦りはさらに大きくなる。ハンスを殺したのは正しい、あんな男死ぬべきだから。でもなぜ首を持って行ったの?置いておけばいいじゃない。そして私に一言忠告さえしてくれたら、あの男の魂と記憶を奪ってあげたのに。そうしたらあの男の記憶は全ての人間から失われ、貴方は平穏な生活に戻れたはずなのに。もうハンスの魂は肉体から遊離して消えており、私にはどうする事も出来ない。
直にハンスは他者に見つかり、ナターリエは殺人犯として祭りたてられるだろう。
『どうして……上手くいかないの?』
思わず零れてしまった本音をかき消すかのように頭を振る。
いや、まだ間に合う。ハンスの魂は遊離してしまっているからどうしようもないけれど、あの子一人を守って行く力はある。私があの子をずっと守っていけばいいだけ、あの子が死を迎えるまで私が側にいればいいだけよ。邪魔する奴は私が消せば何の問題もない。
ハンスの肉体にそっと触れる。ただの肉の塊になってしまったその体は反応を示さない。
『……その姿をクリスティーネに見せるのは嫌でしょう?』
恐らく次にこの部屋に来るのは十中八九クリスティーネだろう。貴方は彼女には最後まで優しいハンスのままでいたわね。その優しさをあの子に真っ当な形で向けてあげればよかったのに。ハンスの体をゆっくりと砂にしていく。不思議ね……最低なこの男でも死人には同情してしまうのだから。
私はナターリエを探すべく、この血で赤く染まった部屋から出た。そして私の後にドアが開かれる音が聞こえた。
「Natarie……Hans?(ナターリエ……ハンス?)」
その声は間違いなくクリスティーネのものだった。ハンスの肉体は砂にしたけれど、ハンスの血は消えない。血だらけになった部屋の中からクリスティーネの悲鳴が聞こえた。
***
ナターリエside ―
遠いな……私はカバンを持ってふらふらと歩き続ける。私の町まで何時間かかるのかな?今の時刻は十七時、三時間近く歩いている。でもまだまだ遠い、きっと辿り着くのは明日になりそうだ。でも別に構わないよね、だって太陽が出てくれる限りは道ははっきりと確認できる。
もうすぐ本当に幸せになれるよハンス。
にやけるのが止まらない。これで彼は私の物……2度と姉さんのものにはならない。私は一歩一歩、ハンスとの思い出の地に足を進めた。
「Er lidt mere. Hans(もう少しよ。ハンス)」
さらに数時間経過し、棒のようになってしまい感覚のない足を必死に動かす。あれから何時間歩いたかなぁ?腕時計を見ると朝の二時半だった。辺りは暗くなっているけど、どうせあと三十分もしたら太陽が昇り明るくなるだろう。随分と歩いてきて、お腹も減りすぎて逆に何も感じなくなってしまった。
ただ彼との思い出の地に行こうと必死だった。あともう少し、もう少しで辿りつける。あの公園に……
私の家から少し離れた公園で幼い私達はいつも遊んでいた。家の近くの公園はあまり大きくなく、遊具も少なかったから少し離れてても毎回その場所に向かっていた。両親は幼い私がそこまで行くのを危ないと言って止めていたけど、いつもハンスが一緒に行ってあげるからという事で行くことを許されていた。
「Hans. Men jeg har andre mennesker, du kan få.(ねえハンス。私はもう一人でも行けるのよ)」
貴方が手を繋いでくれなくても一人で。
ずっとずっと歩いて、ようやく見えてきたその公園は私達が幼いころ遊んだままの状態で残っていた。少し変わったところは遊具の色が褪せたとこ、メッキがはがれている個所が増えたとこ。
でもそんな事どうでもいい、朝の三時四十分。深夜なのに夕焼けのような明るさが公園を包み込む。太陽が昇っている証拠だ。何度も眠れない時は姉さんとハンスと三人で抜け出したものだ。私たちはずっと一緒だった。
「Hans……jeg savner(ハンス……懐かしいね)」
公園のベンチに腰掛けてハンスに話しかける。三人でいつも遊んだ公園、今のこの時間に公園には誰もいない。やっと……戻ってこれた。昔の私たちに戻れるのかな……
ハンスの首が入ったカバンを抱きしめて、私は話しかける。いつも手を引っ張ってくれたねとか、いつも花の冠を作ってくれたねとか、思い出は沢山ありすぎて尽きない。一つ一つを語ってたら一日経ってしまうかもしれない。しかしその平穏も束の間、聞こえてきた声に心臓が嫌な音をたてた。
『Natarie』
見つかってしまった、私の平穏が崩されてしまった。
顔を上げた先には必死で私を探したんだろう、グレモリーの姿があった。額には汗をかき、呼吸は荒く肩が上下している。こんな私にも、まだ探してくれる人がいるのだとぼんやりと思ってしまった。
「Gremory.(グレモリー)」
『Hvad laver du der……(貴方、何をしてるのよ……)』
「Jeg kom bare til det sted, minder med ham.(思い出の場所に来たの。ハンスと)」
うっとりした様子でグレモリーに話しかけた私にグレモリーは顔を顰めた。ハンスが連れて行ってくれた場所、ハンスがくれた物。グレモリーは黙ってたけど、その表情は聞きたくないと物語っている。
『Natarie gør dette hvorfor……(ナターリエ、なぜこんな事を……)』
「Jeg ønskede at være min Hans. Og han var min.(ハンスを私のものにしたかったの。そして彼はなってくれた)Ikke passere nogen.(誰にも渡さない)」
グレモリーの目が悲しそうに揺れる。
それすらも絵になってしまい、私はグレモリーの顔をじっと見つめる。
「Gremory jeg……(グレモリー、私ね)」
“Søster var upopulær.(姉さんに嫌われていたの)”
グレモリーの目が見開かれた。グレモリーからしたら驚く事じゃない、だって再三私に忠告してたから。姉さんは最低だと。でも私がそれを聞き入れなかった。だってとても優しい姉さんだったから、大好きでたまらない姉さんだったから。でも姉さんが私を嫌っていた。
「(大嫌いって……酷いでしょ?貴方が言ってた通りだった。私の大事なものはとっくに無くなってたみたい。その時に感じたの、ハンスがいる限り私と姉さんの間に平穏は訪れない。だからハンスを私の物にするの。幸せになる為に)」
グレモリーは口を開かない。きっと言い返す言葉がないからなんだ。
そんなグレモリーに私はハンスの首を鞄から取り出し見せた。グレモリーはそれを見て顔を真っ青にし、私から少し後ずさる。
「Jeg er smuk? Hans Jeg(綺麗でしょ?私のハンス)」
ハンスは鞄の中に押し込めてたからなのか、見開かれた目からは涙のような液が流れ、口からも涎が垂れていた。それでも綺麗と言う私にグレモリーは恐怖に染まった顔を見せる。
『Jeg er du sindssyg.(貴方……狂ってるわ)』
そうね、私はもう狂ってるわ。ねえグレモリー、もう終わりにしたいの何もかも。これから先に幸せが待っているとか、そういった不確定な未来を生きるつもりはないの。だって世間で言う私の人生はもう終わったも同然なのだから。これから先の未来に希望が持てない私が生きていくには、あまりにも世間も周りも冷たいでしょう。
そんな私の腕をグレモリーは掴んだ。
『Natarie. Slippe af med sådanne ting.(ナターリエ、そんな物捨ててしまいなさい)Escape med mig. Jeg vil beskytte dig.(私と一緒に逃げましょう。貴方は私が守ってあげるから)』
グレモリーは優しい、こんな私でも守ってあげると言ってくれる。でもね、貴方にはきっと私を救えないわ。
ハンスの首を抱きしめる腕に力がこもる。
『Natarie!』
「Tak. Men ikke ønsker.(有難う。でも要らない)」
もう戻れない、ここまで来たら戻れない。グレモリーに契約石であるダイヤモンドの指輪を無理やり手渡し、鞄からある物を出した。それはハンスの首を切り取った包丁。
『Natarie……?(ナターリエ……?)』
グレモリーの声が震えている。ここから先の展開が読めてるようだ。
有難うグレモリー、こんな私を守ってくれて。貴方と出会えてよかった。心からそう思えた。手は震えたけど、彼の遺体を見たら自分に相応しい結末なのだと思ってしまった。一発で死ねるだろうか。
「Gremory Tak. Farvel.(グレモリー有難う。さよなら)」
包丁が私の喉に突き刺さる。痛くて苦しくて息ができなくて、目を見開いて声にならない悲鳴をあげて地面に倒れ、のたうち回る私の視界にグレモリーが映る。彼女は目を見開いて驚いていたが、こちらに走り寄り頭に手を触れた。その瞬間、痛みがなくなり意識は朦朧とし、目の前が一瞬でぼやけてきた。眠くて仕方がない。
グレモリーの手が暖かくて優しい。これで、私の全てが終わる。朝日が悲しそうに瞳を伏せたグレモリーの姿を照らしていく。この公園とこの光だけが唯一変わらない物だったのかもしれない。私の伸ばした手は光に届くことなく力を失った。
グレモリー、私は駄目だったけど私、貴方には絶対に幸せになってもらいたい。きっとグレモリーには本物の愛が待ってると思うから。その時に貴方は本当にダイヤモンドになれる気がする。彼氏はちゃんと紹介してね、結婚式にも呼んでね、離婚は絶対にしちゃ駄目、おじいさんとおばあさんになっても一日一回はキスしたらいいんだって。有難うグレモリー、大好きだよ。
死にたくないな……幸せに、なりたかったな。
***
***
幼い少女が少年ともう一人の少女に手を引かれて歩いている。時刻は夜中の三時。子供が遊ぶには遅い時間だ。しかし朝日が昇る時間帯でもある街は明るく、こんな時間でも人がちらほら歩いており、子供たちは近所の人たちに手を振りながら走り去っていく。三つの影を見て三人は笑う、どうでもいい事がおかしくて嬉しかった。手を引いていた少年は太陽のように明るく笑う。
「Jeg elsker sommeren!(俺夏が一番好きだな!) Fordi de vil spille for evigt, fordi det er hver sommer!(だって夏になれば一日中遊んでられるだろ!)」
それを聞いて少年と歳の近そうな少女、クリスティーネは笑いながら「ハンスらしい」と呟いた。
「Du har måske også interesse?(自分だって同じだろ?)」
ハンスが少し拗ねたようにクリスティーネに話しかける。クリスティーネはそれに頷いて空を見上げる。空は綺麗なオレンジ色で、とても今の時間が夜だなんて信じられない。親に黙って抜け出して怒られるだろうが、それすらも三人なら怖くなかった。
「Ubegrænset spille godt i morgen, i overmorgen!(明日も明後日も遊び放題だな!)」
オーバーなリアクションも元気いっぱいのハンスがすれば、なぜだかとても似合っているように感じる。
クリスティーネとハンスに手を引かれていたナターリエは幼心に思っていた。きっとずっと三人は一緒だと。優しい姉と優しいこの少年は自分が大人になっても、こうやって手を引いてくれると思っていた。
自分の手を引いていたハンスが「そう言えば」と言って振り返る。
「I går så jeg en solsikke på en blomsterhandler!(俺昨日さぁ花屋でひまわり見たんだぜ!)」
ひまわりと言えば、暖かい地方で咲く花だ。デンマークではあまり見ない珍しい花。まだ幼いナターリエは見た事のないひまわりに想いを寄せた。
「blomsterhandler?(ひまわり?)」
「Ja. Meget store blomster. Her for at vise real-time!(おう。すっげーでけえ花なんだ。太陽の象徴らしいぞ。今度本物を見せてやるよ!)」
どこに?と聞いたナターリエにハンスはスペイン!と胸を張って答えた。スペインと言えば、ひまわり畑で有名だ。幼いナターリエにはよく分からなかったけれど。それを聞いたクリスティーネは呆れた表情を浮かべた。
「Jeg kan ikke høre.(遠いよ)」
しかしハンスは明るい顔で大丈夫だ!と根拠のない自信を持っている。
「No problem! Her for at tage cyklen!(大丈夫だ!二人を自転車で乗せてってやるからな!)」
どうやったら三人乗りができるんだ、とクリスティーネは呆れていたが、ハンスは最近乗れるようになったんだ!と胸を張っている。そのハンスにナターリエは目を輝かせた。
ナターリエにとってハンスは何でもできる人間だった。かけっこも速いし、木に登るのもうまい。自分が出来ない事をハンスは沢山できる。スペインがどこにあるかすらわからないナターリエから見れば、ハンスは本当に連れてってくれると思っていた。そんな日は来なかったが、いつしかそんな事も忘れてナターリエは成長していった。
でもハンスは忘れなかった。
数年後、ナターリエが中学一年の時の夏、ハンスがひまわりを持って家に訪ねてきた。ハンスはひまわりをズイっとナターリエの顔面に差し出した。
「Hans?(ハンス?)」
「Jeg har lovet at vise en solsikke i front, Spanien er meget langt væk, så jeg tænkte en cykel kan gøre det.(前にひまわり見せるっつったろ。でもスペインが滅茶苦茶遠くて自転車で行けないらしいんだ)Så vær tålmodig med det.(だからこれで我慢してくれ)」
ハンスはナターリエと違い、高校生のはずだ。スペインの正確な場所とまでは言わないが、スペインが自転車で行ける所だと未だに思ってたのだろうか?いや、行けるのは行けるが、普通は行かないだろう。ハンスはスペインが遠い事はわかっていたらしいが、それでも自転車でかっ飛ばし続けたら辿り着けると思っていたらしい。確かにそれはそうだけど、それにどのくらいの日数を費やす気なのか……友人に馬鹿にされて今回の件は諦めたらしい。
思わず呆れてしまったナターリエに気づいてないのか、ハンスは「これはクリスティーネのな」と言って二本のひまわりを渡す。
ひまわりは花屋で何度か目にした事がある。今更珍しがるものでもない。でも自分でも覚えていなかった約束を覚えてくれていたハンスが嬉しくて、ナターリエはその場で大泣きした。
ナターリエはハンスのあの真っ直ぐな所が好きだった。馬鹿だけど真っ直ぐで温かくて……朦朧とした意識の中で出てきたハンスの姿は本当に申し訳なさそうにひまわりを渡す姿で……
その姿がおかしくて悲しくて、ナターリエは笑った。
***
***
グレモリーside ―
首から血を噴き出してナターリエはその場に力なく倒れた。
少し笑みを浮かべて。
『En konsekvens af dette du ønskede?(これが貴方が望んだ結末なの?)』
違うでしょ?貴方は幸せを望んだはず……どうして貴方が命を落とす必要があるの?ナターリエは悲しそうに微笑んだまま動かない。その姿を見て涙が零れた。
貴方はきっとこの男に心を壊されてしまったのよ。愛によって殺された……同じ境遇のこの子を救ってあげたかった。色んな感情がごっちゃになって涙を流すしかない。ただ分かるのは私と貴方の契約は終わってしまったと言う事。ナターリエが私に握らせた契約石を自分の指につけた瞬間、流れてきたのはナターリエの最後の記憶だったのか。
夕日に包まれた世界で恥ずかしそうにひまわりを渡す少年に、泣きながらも嬉しそうに、とても嬉しそうに微笑みかけている少女の姿だった。
貴方はこの記憶を思い浮かべて笑ったの?やっぱりナターリエはハンスの事を心の底から…………貴方の魂は取らないであげるわ。今は……貴方を幸せにできる自信がないから。だって貴方は逃げる事よりも死を選んだ、私がこれ以上とやかく言う事はない。
ナターリエとハンスをその場に残して立ち上がる。やっぱり愛なんて物、この世界に要らないものなんだわ。人間が作ったこの言葉によって、この子は殺された。愛に溺れたナターリエは殺された。朝日が二人の遺体を真っ赤に照らしていく。血の色までも光って見えるのだから不思議だ。
この光の中で、永遠に包まれて幸せに。
ナターリエに向かってそう呟き、私はその場を後にした。あの子がいなくなった私に残された事はただ一つ、七十二柱の悪魔として継承者を地獄に送るだけ。ナターリエよりも幼いあの少年。
ナターリエの記憶の中のハンスと同じくらいの少年、そしてあの男も……
『Settle.(決着をつける)』
私とあの少年とあの男に。
ナターリエのように私が消えてしまう前に、全てを終わらせる。指にはめたダイヤモンドの指輪を握りしめた。この欠片も返してもらわなければ……
真っ直ぐナターリエが暮らしていた場所に戻る。きっとあの男はまた同じ場所に来るはずだから。




