出発
目を覚ますと窓から光が射し込んでいるのが見えた。
目覚めてすぐの、ぼんやりした頭でウォルトは、ふと母を最後に見た日のことを思い出した。
あの日は雨が降っていた。
最近母のことを考えることが多くなっていた。母が何を考え、どんな思いでいたのか気になっている。ただ母が死んだのは十年も前でウォルトが七歳のときだったので、母との思い出はぼんやりしていた。今や顔の輪郭さえはっきりしないが、母が家を出ていくときの後ろ姿だけは鮮明に思い出せる。
夜遅くに降り出した雨が朝まで続いていた。
夏の終わりだったが朝晩は冷え込むようになり肌寒かった。
母は開いた戸口の前に立ちつくし外の景色を見ていた。もう出発しなければならないのに、いつまでも戸口の前から動こうとはしなかった。その理由が、ずっとわからなかったが最近になって、ようやく理解できるようになった。
母は恐かったのだ。
ウォルトは寝転んだまま頭だけ動かして光が射し込んでいる窓のほうを見た。窓からは青い空が見えた。
おそらく雲一つないような快晴だろう。
ウォルトはホッとした。雨に濡れずにすみそうだ。重い荷物を背負って、びしょ濡れになりながら、ぬかるんだ道を進むのはごめんだ。
ウォルトは上半身を起こして、まだ薄暗い家の中を見渡した。小さな家である。それに生活に必要な道具が所狭しと置いてあるので余計狭く感じられる。
まあ、父親との二人暮らしなので特に不満はなかった。
「よく眠れたか?」
ふいに声をかけられ、ウォルトは声のしたほうを向いた。ウォルトのベッドとは反対の隅のほうに、もう一つベッドがあり、そこで父が寝ていた。
薄暗いが父の顔がこちらに向いていることがわかった。
ウォルトはいった。
「わりとよく眠れた。眠れないんじゃないかと思ってたけど」
「それならいい。長旅になるからな」
「父さんは眠れた?」
「ああ」
父はそう言ったが、ウソだな、とウォルトは思った。もしかしたら一睡もしていないのではないだろうか、なんとなくそう思った。
ウォルトはベッドから降りた。ベッドの横に立つと腕をあげ、体を伸ばしながら炉のほうに目をやった。
たしか昨日のスープが残っていたはずである。ウォルトはスープを温めなおすために炉に近づき火をおこした。
うしろで物音がしたので振りかえってみると、父がテーブルに皿を並べていた。
ウォルトは、炉の炎が安定すると、やかんも火にかけてから、小さいテーブルのイスに座った。父はすでにイスに座りパンをナイフで切り分けていた。イスに座ったとたん、ウォルトは盛大にあくびをした。
間の抜けたその顔を見て父は、ため息をつきながらいった。
「ウォルト、お前ももう17だから、そろそろ結婚を考えんとな」
あまりに突然な父の言葉に、はじめは意味がわからなかった。
「結婚?おれの?」
「ああ」
ウォルトはあきれてしまった。
「こんなときに何いってるんだよ、父さん」
「こんなときだからだ」
父の声は真剣だった。
「この前キャンベルさんとも話したのだが、リナちゃんはどうだ?」
予想もしなかった名前がでてきて、ウォルトは驚き、そして苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ無理があるんじゃないかな。リナはおれを嫌ってる」
「確かに」父も肯定した。
「ただな、あの子は気は強いが、やさしい子だぞ。きつく当たるのはお前にだけだ」
それが一番の問題なんじゃないか、とウォルトは思った。
「リナがいいと言うわけがない」
ウォルトはリナがこの話を聞いたときのことを想像し、身震いした。きっと鬼のように怒るに違いない。
父がいった。
「あの子は嫌がるかもしれないが、これはキャンベルさんから言い出したことなんだよ。それにリナちゃんは母親には逆らえないからね」
「メアリおばさんから?」
ウォルトは意外だった。リナの母親であるメアリおばさんは、人に対して厳しいところがあるが、いつも冷静で言動や立ち振る舞いに無駄がなく確固たる意思を持っている人だった。
確かに何でも自分で決めたがる人ではあるが、そんなことを言うようには思えなかった。
「キャンベルさんも不安なのかもしれないな」父がいった。
それはどうだろう、とウォルトは思った。
メアリおばさんにも不安はあるかもしれないが、それを表にだすような人ではない。ただ単に必要なことをやっただけ、そんな気がした。
父が切り分けたパンを皿にのせ、自分の前に置いてくれた。
ウォルトは炉のほうを見た。火にかけていた鍋から湯気がたっている。どうやらもう温まっているようだ。
ウォルトは立ち上がり炉のほうに向かうと、鍋を火からおろした。それをテーブルに置くと、スープを椀によそった。スープからはいい匂いがしてきて食欲を刺激した。
このスープには、タマネギやニンジンなどの野菜のほかに、特別なときにしか口にしない鶏肉が入っていた。昨日、二羽のニワトリをつぶし、一羽は焼いて、もう一羽はスープにいれた。また、鶏ガラでだしをとったスープは格別にうまかった。
ウォルトはパンをスープにひたし十分に水分を吸わせると口にほうり込んだ。肉のうまみが口いっぱいに広がり思わずうなってしまうほど、おいしかった。本当なら毎日でも肉を食べたいくらいだが、こんな贅沢は、なかなかできなかった。
普段よりも少し豪華な朝食を食べ終わると、やかんのお湯もわいたので、お茶をいれ、ゆっくりと飲んでいた。お茶を飲んでまったりしていると、これから立って動くのが、億劫になってくる。朝も早いので、まだ頭も体も完全には目覚めていない。
そのとき、馬のかける蹄の音が聞こえ、だんだん近づいてきたかと思うと、家の前で止まった。
ウォルトは父に目配せをした。まずい。
父も瞬時に理解し残っていたお茶を飲み干すと急いで片付けはじめた。
次の瞬間、ノックもなしにドアが勢いよく開けられた。そこに現れたのは腕を組み仁王立ちした赤い髪の女だった。つり目のきつそうな顔立ちから、にらむようにこちらを見ている。
父がいった。「リナちゃん、おはよう」
「おはよう、おじさん」
リナが返事をした。そして、ゆっくりと家の中を見渡した。
「準備はできているの?」
「もちろんさ、いま出るところだったんだよ」父がいった。
「ふーん」
リナはウォルトのほうを見ると小バカにしたように鼻をならした。
ウォルトは自分が両手に食器を持ち、イスから立ち上がろうと中腰のままの姿勢でいることに気がついた。
なんともマヌケである。
「出発までには、まだ時間があるんじゃないのか?」
ウォルトは失態を取り繕うように、しぶい顔をしていった。
「なによ!心配して見にきてあげたんじゃない」
リナはウォルトが口ごたえしたのが気に入らなかったようだ。
ウォルトも何か言い返そうと思ったが、やめた。口でリナに勝ったことなどない。しぶしぶ食器の片付けを続けた。
「キャンベルさんも、もう集合場所に行っているのかい?」父がリナにきいた。
「母はすでに、早馬で出発しました」
「どういうことだい?何か早く行かなければならない理由でもあったのかい?」
「いろんな準備や根回しが必要なようです」
父はそれを聞くと納得したようだった。
だが、ウォルトはメアリおばさんがいないことに不安を覚えた。これでは、リナを抑える人がいない。
ウォルトは食器を洗い、片付けると、リナの視線を感じながら出発の準備を始めた。
外に出て馬小屋から、この家に一頭しかいない馬のレゴラスを連れてくると、その背に食料、水、毛布を積んだ。主に食料が大きな割合を占めている。それが終わると、もう一度、家の中に入り自分の荷物をまとめはじめた。といっても昨日のうちに、ほとんど終わらせてあるので忘れているものがないか確認するくらいである。
確認が済むと、ウォルトは家の中を見渡した。父とずっと二人で暮らしてきた小さい家。少し家を空けるだけなのに淋しい気がするのはなぜだろう。
ウォルトが家から出ると、父が錠前でドアにカギをかけた。
「ウォルト、カギはお前が持っていろ」
父はそう言うと錠前のカギをウォルトに渡した。
「なんでだよ」
自分よりも父が持っていたほうがいいと、ウォルトは返そうとしたが父の顔には固い意思が見てとれた。
父がいった。「いいから持っておけ」
ウォルトはしぶしぶカギをポケットにいれた。
「準備はいいかしら」リナがいった。
「ああ、行こう」
父はそう言ったが、ウォルトはまだ名残惜しそうに自分の家を見ていた。
「ウォルト、あんたはいいの?」リナがもう一度きいた。
ウォルトは、その言葉に振り返り、家に背を向けるといった。
「行こう」
リナが自分の馬に乗り、先頭を進みはじめると、ウォルトもレゴラスの綱を引き、父と並んで歩きだした。
ウォルトは家の周りに広がる畑に目をやった。
そこには収穫を間近にひかえる黄金色の小麦が、朝のさわやかな風にふかれて、ゆらゆらと揺れていた。
帰ってきたら刈り取りを始めなければならないだろう。
ウォルトは、また今年も父と一緒に収穫できることを強く願った。
自分たちは今から戦争に行くのだ。