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比企谷八幡について

作者: 客野

 本日8月8日は比企谷八幡の誕生日である。比企谷八幡とは「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の主人公であり、今この時点では、私が最も影響を受けた二次元キャラクターである。

 彼の魅力は、やはり一途さであろう。彼が本物の青春を強く求めるあまりに逆にアンチ青春になったということは以前にも述べたが、もう1度詳しく語ろう。

 高校生になる以前から、彼には友達がいなかった。託児所では1人黙々と本を読み、小学校では誕生日プレゼントにとうもろこし1本をもらい、中学校では懸命の告白を嗤われた。

 しかし、気をつけたいのは、彼はアクションを起こさなかったわけではない、ということである。たとえば小学校での思い出に関しては、「自分は友だちだと思っていた人から手紙をもらえなかった」という記述があるが、これは裏を返すと、「八幡は彼らを友達だと思って接してきた」ということである。中学校でも同様だ。クラス委員を(押しつけとはいえ)やったし、女子に告白するということは、その女子を嫌ってはいなかったのだろう。彼はちょっとさえない普通の子供だったのだと私は思う。

 それなのに、彼が高校になって歪んでしまったのはなぜなのか。言うまでもなく、入学式初日の事故により、出鼻をくじかれたからだ。出鼻をくじかれてその後の人間関係をうまく作れなくなってしまったからである。そしてぼっちになった。

 こう考えると、意外な事実がわかる。彼のぼっち哲学というのは、1年間分の蓄積しかないのだ。これは雪ノ下とは違う。彼女は小学生の頃からずっと、高2の今と変わらない学校生活を送ってきたのである。ぼっちとしては彼女の方がランクが上(?)だ。

 この点を踏まえて、雪ノ下と八幡の1番初めの議論を思い出してみよう。雪ノ下が八幡に「人は変わらないと誰も救われない」と言い、逆に八幡は雪ノ下に「人が簡単に変わる方がおかしい」と言う。このくだりは初見だと、「雪ノ下が八幡に、彼の「生来的な」ねじまがった性格を変えるように言い、八幡が、ねじまがっていたとしても、それを(世界に適応するために)変えるのは欺瞞だ」と解釈するしかない。しかし、ぼっちとしてのキャリアを考えると、各々が発した言葉は、実は、その言葉を発した各々自身にこそ突き刺さる言葉だと解釈できるのだ。雪ノ下こそ変わらない人間であり、八幡こそ簡単に変わる人間だったのである。ついでに言うと、たぶんこのことを雪ノ下は分かっている。自分の欺瞞を知っていながら、そのことを隠した。それは彼女の過去に起因しているのだろうが、まあ今回は八幡について書きたいのでここではこれ以上触れない。

 話を戻そう。八幡は簡単に変わる人間であると先ほど述べたが、より正確に言うと、「表層が」簡単に変わる人間である。ちょっと高校デビューに失敗したからぼっちになったが、先述したように、彼は本来は、人に好かれることはうまくいかなかったものの、普通だ。普通の青春を求める普通の若者だ。

 こういうと、「高校入学によって八幡の本質がぼっちへと変わったのではないのか」と言われるかもしれない。

 しかしそれはまちがっている。俺ガイルの作者、渡航がそう言っている。

 八幡が、「このライトノベルがすごい!」の男性キャラ部門で1位になった際に(たやすく想像できるとは思うが、八幡に投票した人の多くが彼を「憧れのぼっち」として評価している)、彼は「ぼっちとしての八幡に憧れないでほしい」という趣旨のコメントを出している。渡航が描きたいのはぼっちの先の「本物」であり、ぼっちは通過点だ。

 とはいえ、ぼっちは単純な通過点ではない。普通の若者である八幡が「本物」を一途に求めるようになったのもまた、「ぼっち」のせいだと思う。

 「ぼっち」というのは、人間関係を考えさせる装置だ。八幡が葉山らのグループを4月から観察し続けて、そこから「本物」についての気づきを得たのはそのことを端的に表している。彼はわざわざ趣味の読書ではなく、上位グループの観察(とそこからの考察)を休み時間の使い方として採用している。ちなみに、面白い記述がある。原作6巻の特典ドラマCDで八幡は、マイブームを尋ねられ、「人間観察」と答えている。これは、八幡のぼっち化が最近(高校に入ってから)であり、ぼっち化が人間観察を彼に促したということの裏付けになっている…というのは穿ち過ぎだろうか。

 ではなぜ、「ぼっち」はそのような装置たりえるのか。私は、そうしないとぼっちに正当性が与えられないからだと思う。これも以前どこかで述べたが、「友達がいない」ことは、直観的に悪だと人々に意識される。それはほとんどのぼっちにとっても同じである。直観では太刀打ちできないため、彼らは正当性をロジックに求める。ロジックを生むには、考えなければならない。ゆえ、ぼっちは考える。

 しかし、それはいずれ限界が来る。人々の奥深くに根付く、仲間を欲する原始的な仕組みは、たとえロジックが組み立てられたとしても、それをいつかは打ち砕く。ダムが決壊するようなものだ。水が貯まっていればいるほど、溢れたときの衝撃は大きい。それが原作9巻だと思う。彼が「ロジックの化け物」だったからこそ、あそこまで感情が動いたのだろう。

 さて、やや冗長になってしまったが、このような理由から、八幡はぼっちだからこそ、歪みを抱えつつも、平凡な人間から、一途なロマンチストになったのだと私は考えている。

 念のために付け加えるが、私は別に、ぼっちでないと人間関係に対して真摯でないというつもりはない。しかし、ぼっちは人間関係に対して真摯である、もしくは真摯になるとは思っている。

 そして八幡がそういう人間—非凡な一途さを見せるが、底は平凡—であるからこそ、このように支持を集めるのだと思う。

 まあ、何はともあれ。八幡、誕生日おめでとう。

 ようはこれだけ言いたい。

 

 

 

 

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