クソオヤジがお父さんになった日
横読み推奨
瞬くと、エプロン姿の父が鼻歌交じりにキッチンの奥で何やらせかせか動いている。
「お父さん、鼻歌聞こえているよ」
親友のサオリが遊びに来ている手前はずかしくなり、ソファから注意するとひとしきり静かになるのだが、鼻歌はまたどこからともなく漏れ出してしまう。
「アミとアミのパパって何かあったの?」
彼女はどこか好奇の目で訊いてくる。
「何って?」
「いや、あんたって確か高校のとき、パパのことクソオヤジって呼んだりしてすごい嫌ってたじゃない」
だから、と言って親友は言葉を終えてしまう。
私はギャルだった高校三年の春を思い出す。
★★★★★★★
2011年。
確かに、あの時は父を嫌っていた。
小柄で小太りで髪が薄く、家事が得意なせいかわからないがとにかく物腰が柔らかい、加えておねえと言われても否定できない挙動をしている。
弱い、カッコ悪い父親に次第に苛立ちが募った。
こちらのご機嫌ばかりうかがって、意見のない人。
昔から私を一度だって叱ったことがなかった。
反抗期も重なり、私は父をどんどん嫌いになっていった。
何をしたら叱られるのかと思い、思いつくまま悪いことをした。
悪い友達とつるみ、夜中まで遊んで家に寄り付かなかった。
万引きをして捕まった時、身請け人として会社を抜け出して来た父は、悪びれない私を見ぬまま店主に頭を下げ続けた。
「簡単に下がる頭だな」
帰り道、私は来てくれた父に向って、苛立ちのままにそんな言葉を浴びせた。
父は私のことを悲しい目で振り返り、少し疲れたような背中のまま歩き出す。
「何とか言えないのかよ」
乱暴な言葉使いにも反応しない。
その態度に腹が立って仕方なかった。
「叱らないのかって訊いてんだよ」
私は前を行く父を追い抜き、仁王立ちで通せんぼする。
「もうあんなつまらないことはしない方がいい」
すると彼は静かに、波のない口調でそう告げ、私の横をすり抜けていった。
「クソオヤジ」
私は聞こえるようそんな言葉を吐き出し、家とは反対方向へ足を向けたのだった。
好きじゃないのに、目についたゲームセンターに入った。
うるさくて雑然としていて居心地が悪いところがその時は良かった。
「なんでついてくんだよ」
場違いなスーツ姿で自分の後ろをついてきた父を振り払うように、私はやったこともないメダルゲームに座り、百円を入れようとする。
でも、硬貨は入らない。
「それはメダルをはじめに買うんだ」
父はカウンターの方を指さし、助言する。
その言葉で頭に血が上った私は、勢いのままゲーム機を蹴った。
―――すると地面がにわかに揺れ始めた。
地震だった。
揺れは収まる気配なく力を増していく。
呆然と天井を見ていた私は不意に力強く腕を引かれた。
―――次の瞬間、背の高いゲーム機が横倒しになって降りかかってきた。
けたたましい音とお腹の底に響くなんとも言えない振動がしばらく続いた。
私は床に散らばった窓ガラスの破片をぼんやりと見ていた。
足がゲーム機に挟まっていたが、痛みは感じなかった。
その大きな機械と必死に格闘している父の姿をじっと見ていた。
頭から血を流し、スーツはホコリまみれ。
歯を食いしばって血管が浮き出るくらい顔を真っ赤にさせて、あらゆる手段を駆使して、とうとう彼は機械を一人でどかしたのだった。
「すいません。娘がケガをしているんです」
私の肩を抱いた父の顔は血に染まっていた。
でも、彼はそんなこと気付かないといわんばかりに私の足を診てくれる医者を探しまわった。
病院は同じような境遇の人たちで溢れかえっていて、満足な診察ができる状況では到底なかった。
「いいよ、私なんか」
私はずっと力強く握られている腕を弱々しく払おうとしたが、それが離されることはなかった。
「引きずっているじゃないか」
父はこちらを見ないで、なぜか怒気を含んだ声を出した。
「大丈夫だって」
再び腕を振っても、父は手を離さない。
「ダメだ」
そう言って頑として聞かず、次の病院まで私のことを担ぐとまで言い出した。
「早くしなさい」
戸惑っている私に背を向け、腰を落とし、父は言う。
「歩けるって」
「ダメだ」
「私なんてどうなったっていいだろ」
気を取り直していつもの調子でそう言うと、父は、いいわけないだろう、と呟いた。
「お前がびっこ引いて歩くようになったら、父さん耐えられない」
そして本当に、本当に切実な顔をしてそんなことを主張してきた。
だから私は黙って父に背中を借りるしかなかった。
「やっぱハズい」
ゆっくりと、でも確かに、父は歩みを進める。
「重くない?」
そう訊くと、彼は笑った。
「昔はずっと負ぶってやってたんだから」
ずっと触れていなかった父の背中を眺める。
「もういいだろうと言っても、お前はいつも許してくれなかったじゃないか」
「あたしもう、十八だよ? 子供じゃないんだから」
そう言いながら、久しぶりの父の背中の感触を思い出していた。
小さい頃、私はひどく人見知りで、わがままで、泣き虫だった。
幼稚園でも、自分の思い通りにしたくてもならなくて、結果ひとりぼっちになった時がしばしばあった。
そんな時、迎えに来てくれた父の背中にいつも私は縋ったのだった。
負ぶってもらい、家路を歩いて帰る。
途中で眠くなるのだが、必死に耐える。
寝てしまうと家に帰ってから気付かないうちに布団に寝かされてしまうから。
私は父の背中が好きだった。
温かくて居心地のいい、いつでも私を受け入れてくれる場所。
私はそれに縋っていたのだ―――。
「―――子供だよ」
私の回想を見透かしたように彼は言う。
「お前はいつまでたっても、どこにいこうと、何をしようと、父さんの子なんだから」
そして彼は当たり前のようにそんなことを言ってくれた。
その後も何件も病院を巡って、父は私に治療を受けさせてくれた。
幸い、足の状態は思ったほど深刻ではなく、小さな傷跡は残ったものの後遺症の類は一つもなくて済んだのだった。
★★★★★★★
「はーい、今日はクッキー作ってみましたー」
そう言って父は可愛らしく盛られた焼きたてのクッキーの皿を持ってきた。
「やだ、かわいいですね」
サオリは、ウケるー、といういつまでも変わらない口ぐせを添えてその皿を受け取る。
クッキーは綺麗なドーム形のほかに、星型やハートに型抜かれたものもあった。
「アミのパパって女子力高すぎー」
そう言われてまんざらでもない顔をしてしまう父に苦笑いしか浮かばない。
「今、お茶持ってくるから。いろいろあるけど、ローズマリーでいいでしょ?」
そう言いながらキッチンに戻った父は、いいタイミングで音を上げ始めたヤカンの火を止め、こだわりの紅茶づくりに専念し始めた。
「お父さん、鼻歌」
それはすぐ止み、またいつの間にか聞こえてくる。
本人もほとんど無意識のようだ。
「かわいい人だね」
小バカにしたようにサオリは言う。
「まあ、いいのか悪いのかだけどね」
そう言って私は苦く笑う。
「本当にあんた、変わったわ」
「何が?」
「パパのこと、いつから、お父さん、なんて呼ぶようになったの?」
そう訊かれて、いつからだろう、と思いを巡らす。
でも、はっきりとした時期など思い出せるはずもない。
「さすがに私もいい年だしさ、今でもクソオヤジなんて呼んでたらイタイでしょ」
「それにしても、この変わりようはねー。なんかあったとしか考えられない」
「何にもないよ」
私はどういうわけか照れてきて、気を逸らすようにハート形のクッキーを一枚、手にする。
そして、でも、と思い出したように付け加え、
「親なんて結局、いざって言うときに守ってくれればそれでいいんだよね」
などと含み笑いした。
なに? と聞き返すサオリに、なんでもない、とだけ答え、私はキッチンの方を見る。
「自分を大切に想ってくれているのがわかれば、それでいいんだよ」
そして、サオリに聞こえないように、自分に確認するように、そう呟いた。
全くカッコよくない、女子力ばかり高い父。
でも、私のことをいつでも見守ってくれている父。
そんな彼の姿を見ながら、私はクッキーを齧ったのだった。