葬れます
今迄の作り上げたもの全てをリセットボタンひとつで葬りたくなる。
それができるのはネット社会だ。
完全な個人としての活動としてではないので、あるときは田中さん、あるときは佐藤さん、とあるときには山田さんになりきることが可能ではあるのが匿名性という仮面なのだ。
そういった手段を発揮できるこのネットの力というものは利用しない手はない。
悪い使い方でしか使われないといったようなテレビアピールというかセンセーショナルなエモーションはくっさい、くっそうて仕方がのうございます。
まぁ、君の言うその積み重ねていくキャリアというのは偉いのかもしれない。
キャリア自体が私を邪魔をする障害物のような大きな建物であるとする。
その建物に影が生まれてしまうような感覚がとてつもなく嫌なのだ。その感覚を忘れられる感覚が味わえるというのは自分という影を葬れるような感覚で、なおかつ二次に繋がる部分なのだがそういった逃れられる空間というものこそが、二次の良い点。
我々が忌み嫌うものとは未知なる世界と遭遇する瞬間であって、遭遇したものはなんら不思議もなく「どうした?」とでも言いたそうな目で堂々としているものなのだ。
つまり、自分を自分で騙すということができるからであって、間違った道へと成り下がる可能性もあるのでしょう。だから怖い、忌み嫌う。何もかもが当てはまるようになってしまう。
形がまだ完成されてはいないスライムだから。スライムは最強なのかもしれない。序盤に出てくるキャラクターは実は最強だったのかもという憶測が出てくる。そう考え出すと怖い。
だから今迄作り上げたものを抜きに、全く違う方向へ動きたくなるんです。葬り去るのです、自分自身を。
でもそんなことをすれば彼の固定概念とうものが亡くなり、掴み所がなくなる。つまり死んでる。お金も生まれてこない。でも、原理というものは生き方という存在を全く無視しているものなんです。
理解できてもその理解通りだと生きていけないよ、と言われる。だから、悔しいし辛くなって泣くんです。
だから生きてること自体が素晴らしい。どんな奴でもどんな過程があろうともその瞬間、生きているという事象には罪はない。ただ、それだけにフォーカスがかかっているからなんだろう。
世の中が求めているものというのは純粋に求めいないものを求めているという不可思議な現象がムーブメントになってしまっているべきでしかるべき存在になるかもしれない。それは誰にもわからないことじゃないでしょうか。
だから探り探りでやってただ楽しむ。
原理は楽しめ、そして運というものも持ちあせていなきゃダメなのだと。
そしてこの話も嘘なのだと。