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カラスウリ

作者: 戸塚 海

「そろそろ結婚しませんか」

 それは突然だったけれど、でも、思えばそんなこともなかったかもしれない。この日がくることはわかっていた。

 たつみとは、付き合って六年ほどになる。

 今日は杏子の三十三才の誕生日で、めずらしくたつみが洒落た割烹料理店を予約してくれていた。

 控えめな明るさの店内に、歌のない音楽が静かに響いて、それがたつみと杏子のあいだにある挿したカラスウリの実をわずかにころころとふるわせる。このカラスウリは、季節をしみじみ感じたいとたつみがリクエストして、置いてもらったらしい。

 落ち着いた空間だった。

 結婚。ああ、そうだ。それは自然なことだ。こんなに自然なことがあるだろうか。

 杏子は、意識せずに視線を落とす。ちょうどたつみの組んだ手もとが真っ青な陶器のあいだから見える。

 たつみは、杏子を大切にしてくれている。めったなことでは怒らない余裕があるし、いざというときは絶対に守ってくれるだろうという安心感がある。たつみは杏子より三つ年上だから、そう意識して振る舞ってくれているのかもしれない。それでも、付き合い始めのころならまだしも、今でもそれを保ってくれる、その気持ちはとてもありがたいと思う。自分の年齢を考えても、何も考えずにイエスというのが当たり前。

 それでも杏子は、どうしても、そう言えなかった。二十代後半のころ、結婚したいという願望が強かったときには何も言ってくれなかったのに。あの頃だったら。杏子は思う。いや、あの頃でもイエスと言えただろうか。

 たつみは、申し分のない人だ。わかっているのに。六年近くも一緒にいる。ずっと曖昧にしていた。長いあいだずっと。そうするのが楽だったから。

 いつのまに、こんなにずるい人間になってしまったのだろう。

 杏子は、見るともなく見ているたつみの手を、その手をつかんだ自分を思う。

 そして、その手をはなした自分を思う。

 その手をつかむのは簡単だった。つかんだなら。しかし、その未来を思うと、やはり、だめだった。いつかその穏やかな日々に耐えられなくなって、終わるときがくる。どういうわけか、それは確信にちかい。たつみのどこが不満なのか。それがどうしてもわからない。

 もし、その手をはなしたなら。どうしようもない不安が杏子をおそう。

 真っ暗だった。

 どちらの選択も、杏子にはできない。どちらかを決定的に選ぶという勇気がない。この年齢になると、自分を上手に守っていくことが自然にできるようになる。そのずるい自分に、杏子はいらつく。

 ぼんやりとして、言葉を発さない杏子に、たつみはどう反応していいかわからないらしかった。所在なさげに、手を組みかえる。杏子が黙っていたのは、まばたきを数回するくらいの短い時間だったけれど、たつみにとっては永遠くらい長い時間が流れたように感じたのかもしれない。

 「突然だったし、ごめん。ゆっくり考えてくれていいから。しかし、ここのお酒うまいよね」

 たつみは明るく言って、焼酎グラスを引き寄せる。そのとき杏子は、ああ、と思った。

 たつみのグラスを持つ手の指先。その爪が切られていないということに気づく。

 杏子は男性の指先にこだわりを持っている。こだわりといっても、ただつい目がいってしまう程度のはずだった。けれど、そのとき、たつみの指先の爪が切られていなかった、たったそれだけのこと。それに気づいた瞬間の自分の気持ちに、ぼう然とした。

 ああ、これだったんだと、ぽとん、と何かが落ちたように、わかった。

 自分は爪を切っていないたつみを許すことができない。それがすべてだったのだ、と。

 これからが不安でも絶望でも、自分が三十三才でも、とにかく何でも、もうたつみとは一緒にいられない。

 杏子は、しばらく箸を持ったまま固まっていたのに気づき、それを箸置きにていねいに重ねた。

 杏子は静かに答えた。

「わたし、たつみと結婚はできない。ごめんなさい」

 自分の声はどこから出ているのだろう。遠くから聞こえるみたいだ。わたしは最低だ、と杏子は思う。

 たつみは貴重な時間を杏子に捧げてくれた。その時間はもう戻ってこない。

 「そっか。わかった」

 意外にもたつみの声はしっかりとしていた。なぜかと尋ねることもなかった。たつみもその返事を予想していたのかもしれない。もう何年も一緒にいたのだから。杏子は、いや、それは少し違う、と思う。この人は誰もいないところで泣く人だった。

 親友のハルに、なにやってるのと怒られるだろうな。両親にもきっと失望されるだろう。それでも。

 急に鮮烈な光が目に入りこむ。テーブルの真上に設置されている照明が、つやつやしたカラスウリに反射して、まばゆい光をつくりだしている。杏子はそのきらめきのなかの穏やかな橙に気づいて、どうしてか少しだけ救われた気がする。

 自分は強くはない。けれど、弱くもない。

 まだ歩いていけると思った。


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