02
そうして私は宰相さんに首根っこを引っ掴まれて、こまっしゃくれたガキが住み家とする部屋の入り口、無駄に豪華絢爛な扉の前にいる。
「いい加減に入ったらどうなんですか」
と宰相さんに背中を押されるが気が進まない。
「ちょっと静かにしてください向こうに聞こえたらどうするんですか!!」
この部屋の中にいる相手は、私の人生の中でもワースト3に入るほどの邪悪な精神の持ち主だ。もはや気が進まないってレベルじゃない。許されるなら原始時代まで後退してプランクトンとして過ごしたい。
「おまえのその馬鹿でかい声は間違いなく向こうに届いてるぞ、馬鹿」
宰相さんの声が後方から響いた瞬間。
「せいちゃーーーーーーーーーーーーンッ!」
顔面に熱量がぶち込まれた。
錆びれた螺子を無理やり締めたときのような音がして、私はその場に倒れ伏す。熱い熱いあっつぅうううううううううううううぃ。あ、ちがうこれ痛い。
「せいちゃーん! まいえんじぇるせいちゃん! おかえりおかえりッ!」
「王子、触れないでください。汚れます。この聖女さん鼻血を吹いてます」
なにやら周囲で二人分の音声が聞こえるが、現状が理解できない。私は反射でつむっていた目をこじ開け、痛みと困惑に翻弄されながら、ゆっくりと顔をあげて頭上を仰ぎ見た。天使のように清らかな顔が頬を染め、満面の笑みでしゃべくっている。その背後で蝶番の壊れた扉が耳障りな音を立てつつ揺れていた。
「さっきはゴメンネ! ちょっと頭に血がのぼって! それから同意もないのに女の子を押し倒しちゃダメっていろんな人に怒られちゃった! もうこの話城中に伝わってるみたい! 二人のデート模様が赤裸々レベルなんてもう僕はっずかしぃよ! 嘘です、ちょっと嬉しい! 言っちゃった言っちゃったキャー! せいちゃんは照れ屋だから僕がリードしないとって思ったんだけど気がはやったかなッ! いやぁ僕のせいでせいちゃんが死んじゃったって聞いてたけど無事でよかったッ! 黄泉の国からおかえりなさいッ! そんな君を僕は何度でも抱きしめるッ!」
「こわ」
「同意する」
私と宰相さん。水と油。犬と猿。
相反する二人の意見が一致した、貴重な瞬間であった。
「いやだぁ……こわいよぉ……異世界でストーカーってなんなの……着々とカルマ積んでんじゃねーぞ」
私は床に片手をうついて、自身の身体を支えながら、うめいた。もう一方の手は流れ出る鼻血をせき止めんがために出動中だ。
止まらない鼻血。流れ出る鼻血。ピカピカの床を汚す鼻血。それをすする王子2。
それをすする王子2。
私は。
私はなにも見ていない。
ストーカーなんていなかったんだ……。
「聖女さんしっかり。ふぁーいとっ」
「鼻ほじくりながら言わないでください」
小指の第一関節を超えてんぞ。
そうして宰相さんの鼻ほじり術により現実に帰還した私は、渾身の気力をもってして立ち上がる。人は逆境を乗り越えてこそ強くなれるのだ。弱かった自分に別れを告げて、ニューむきむきマッチョ精神にクラスチェンジした私は、王子2と対峙する。
勝つ。お前に勝つ。
「君のためなら僕はカルマを育てる」
勝てねぇ。わけわかんねぇこと言い出した。
「カルマの意味分からないで言ってるだろ」
「二人でカルマを育んでこッ」
「そんな泥沼なことしたくないッ」
決死の思いで対峙したものの、予想を上回るほどの脅威の存在に押され気味になった私は、一縷の望みをかけて背後を振り返る。ただっぴろい廊下に、宰相さんはまたも優雅に佇んでいた。絵になりやがる。そんな宰相さんに、私は目線で助けを乞う。おねがいします助けてください後生ですこのままでは死んでしまいます、と念を込めて。宰相さんはにっこりと微笑んでくれた。私も同じように微笑む。なんだ、宰相さんも案外といいやつじゃないですか。いままで悪かったな……。
「収集がつかないので俺は帰りますね。では」
「ふざけないでくだまし」
死ね。このやろう。
いや、今は死なないでくれ。5分後に死んでくれ、このクソやろう。
「離せ」
「自分の目の前で犯罪者が女子を襲おうとしているんですよ。帰るなよ」
「だって貴方が死んでも俺が生き返らせればいいだけの話ですし。緊急性はないじゃないですか」
「死という概念がお前の中で麻痺している! あるだろ緊急性! てーか死ぬこと前提なのか。私はなにをされるんだコイツに」
逃がすまい、と宰相さんの胴元を急いで掴む。掴まれた宰相さんは嫌そうに眉根を寄せて私の手元を見やった。そうしてため息をつくと、驚愕の新事実を暴露する。
「この間なんですが、俺が貴方の皮を剥がしてたら、見学中の王子が『皮膚で……洋服……』とぶつぶつ呟」
「警察を呼んで」
てーかなにやってんだおまえら。
「大丈夫せーちゃん! イタクないッ! 僕はその道のスペシャリストですッ!」
「けいさつをよんでくれぇえええええええええええええええええええ」
私は我慢できずに叫んだ。ふっざけんなよ。ふっざけんなよお前ら。窓辺から宰相さんに向かって光が降りそそぎ、後光が差しているような素晴らしい絵づらになってるがふっざけんなよ。見惚れてる場合じゃねえよ。ふっざけんなよ。
「仕方ねーなぁー、おらよ」
宰相さんが投げやりにおら、と発音した瞬間、地面に王子が生えた。
よ、の発音と同時に傾き、皆が驚きに息を飲んだ時には顔面から床へと叩きつけられ、そして、その後。
「ぅオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオッ!!!!!!」
王子は野獣の雄たけびをあげた。思わず私も動きを止める。痛そう。
「ぁあああああああああああああああああああああああぅつあぁあああぅうううううう……!!!!!!」
「さすがに大丈夫、か……?」
恐る恐る、王子1へと手を伸ばす。いつもとは違う王子の異様な雰囲気に圧され、私は戸惑った。普段は我慢強い王子がここまで声をあげるとなると、相当に痛かったと推測される。私は寝転がる王子の肩に手を置いて、伏した顔面をそっと覗き込んだ。
「ぁっ……ぅう……ひぅっ」
な、泣いてる……。
この泣き方はヤバイ。と悟った私は焦りつつも瞬時に王子を抱きかかえた。
「わぁああごめんねよしよし痛かったねー? えーとえーとどうすればいい!!」
「触んなぁッ!!!!」
顔を覆った王子の手をどかそうと思ったら全力で叩かれた。
「うんうん分かったから顔見せてねホラ手どかそ?」
指の隙間から赤色が染み出ている。鼻血が出ているのは間違いない。あとは折れてるか、砕けているかだ。折れていないって答えは存在しない。経験上、分かる。分かってしまうのだ。悲しいことに。
「うゅっヒック……」
と王子が声をあげると。
「うゅ、って」
宰相さんは無表情で心の傷口を広げ。
「男がうゅ。マジウケぇ!!!! あははははは!!!! だ、大丈夫あにうえ?」
王子2は指を指してあはははと無遠慮に笑い声をあげた。あえてオノマトペに変換するならゲラゲラである。そんな態度が、普段は穏やかな王子の眠れる撃鉄を引き起こすに至った。
「なにが兄上だ!? 俺はお前の兄弟でもなんでもねぇ!! 赤の他人が馴れ馴れしいんだよッ殺すぞボケがッ!! 大体役割ってなにザケてんの!? んなもん知らねーんですけど?? どいつもこいつも気にせず適応しちゃっておめぇらバカ???? 頭おかしいんじゃねぇの死ね死ね死なねぇなら俺が殺すぞ!!!!!!!!」
溜め込まれていた不満という名の弾丸は、ここにきて乱発射された。暴発である。そして、タガの外れた王子はガバリと顔をあげた。血まみれの顔には無数の青筋が浮かび、口からはありとあらゆる罵詈雑言が飛び出す。このいんぽやろうとかきちがいとかびっちとかあなよういんとかほもやろうとかくそでもくってろしねしねしねしねころすぞおまえらちんこわぎりにしてさかなのえさにしてやるとか聞こえたけど今の私には虚無の彼方だ。なんかここまで追い詰めてごめんな、って感じで怒れない。私の腕の中でしくしく泣いていた王子はもういない。そこにいたのは、青筋を浮かべてブチギレるただの可哀相な青年だった。王子、ほんとごめんな。わたし反省してっから、泣きながら怒らないで。
「もーーーーーーやだ! こんな世界やだ! 帰る! 帰せ! 俺を家に戻せ!」
「ええええええ落ち着けよ王子。お前がヒロインかよ」
私は驚きに目を見開いた。もういや、こんな世界、帰る、家にかえしてよぉ、この単語が並んだら大体ヒロインである。つい反射でつっこんでしまう。
「うるさい馬鹿! 死ねッ!」
「確定した。ヒロインです」
私の力強い発言と頷きに、後光が差したままの宰相さんは首をかしげる。
「その根拠は?」
「かわいいからです」
「やだやだやだやだァーーーーーーーーーー」
王子は駄々っ子を発動したまま、近場にあった私の顔を手のひらで押しのけて嫌々と繰り返した。鼻血垂れたまんまだぞ、お前。
「王子」
「なんだよッ」
「お前、その可愛さ大事にしろよ?」
「うっせぇ馬鹿ッ!!!!!!」
こうして、王子はヒロインにジョブチェンジした。
………………………………………
「ところでお前は何をしてるんだ」
床に這いつくばっている王子2に気づき、私は声をかけた。
「せーちゃんの血と兄上の血が、混ざるなんて」
なんのこっちゃと床を見れば、なるほど、先ほど流した鼻血である。どうやら同じところにぶちまけていたらしい。
「…………僕も……、混ざるから…………」
「エッ」
止めるまもなく、王子2は隠し持っていた刃物で手首を切った。考えたくもない、考えたくもないが、恐らく私の皮を剥ぐために用意していたに違いない。
「エッ」
公園にある水飲み場の蛇口みたいに、手首からぴゅーっと血が細く吹き出して、王子2は無言でうっすらと笑い、その血をたらたらと床に流した。
人は逆境を乗り越えてこそ強くなれると言ったな。アレは嘘だ。
普通に泣いた。