痛み愛
軽く痛い表現が出てくるのでご注意下さい。
展開は相変わらず早いです。
婚約者である清史郎様の実家は私の実家より余程格上だった。
私の家も名家と呼ばれるが、清史郎様の実家には到底及ばない。その家の、しかも長男と小さな頃から婚約を結ぶことはとても名誉なことだった。父も母も大層喜んでくれた。
「いいかい蓉子。清史郎さんのことをよく聞くんだよ。けっしてけっして逆らってはならないよ」
父も母もお手伝いの文恵さんも何度も何度もそう言った。はい母様。はい父様。はい文恵さん。私は何度も何度も頷く。全て清史郎様の言う通りに言う通りに致します。清史郎様から暴力を振るわれても、言う通りに致します。
幼い清史郎様は私をよくぶった。私が痛いと言って泣くと笑いながら更に酷くぶった。そして一頻りすると一変して私の頬を両手で優しく包み込んで愛を囁く。
「ああ蓉子。お前を愛しているんだ」
そう言って苦しいと泣くのだ。この思いはお前にはきっと分からないだろう。同じ程愛して欲しいんだ。満足するまで気持ちを吐露すると、清史郎様は私にキスをする。
それは正しく刷り込みだった。
痛みとは則ち愛だ。
刷り込みをされてしまった私は、いつしか痛みと暴力からしか好意を感じられなくなってしまった。
清史郎様は中学に上がられる頃、他国へ経営学を学ぶために留学してしまった。私はそれからあの痛みが恋しくて恋しくて、いつからか他人に苦痛を与えることで自分があたかも苦痛を感じていると倒錯するようになった。学園では三本指には入る名家の一人娘の私に表だって異を唱える人もおらず、私はやりたい放題していた。そんな折にこの学校に入ってきたのが相模夏歩さん。相模さんはこの学校では非常に珍しい庶民の出で、実家の後ろ楯が弱いのをいいことに私は様々な事をした。直接ぶったこともあるし、水をかけたこともある。庶民の出ということを散々見下し、下げずんだ言葉を沢山投げ掛けることもあった。私の取り巻きが勝手に他のこともやっていたが、それには見ない振りをした。
全て、本当にされたかったのは私だ。私はけして相模さんのことが嫌いではない。寧ろ、気持ち的には好意的であったと言っても良い。相模さんはよく泣いていたけれど、それでも私に屈することは無かった。相模さんはあんなにいじめていた私にも、歩み寄ろうと何度もしてくれた。
「四十万先輩はどうしてこんなことをするんですか?」
「四十万先輩は私のどこが不満なんですか?悪いところがあるなら、私直します」
「四十万先輩は、本当は悪い人じゃないって私思うんです」
「四十万先輩」
「四十万先輩」
「四十万先輩」
四十万先輩、と相模さんはいじめをしていた私に根気よく語りかけた。私は一度としてその手を取ることはなかった。
立場は簡単に逆転した。相模さんに恋をした二宮先輩や三島くんや五十嵐くんが私の実家の不正を暴いたことで実家が没落し、私の学園での立場が失墜したからだ。二宮先輩と三島くんと五十嵐くんの実家は私と同程度の名家で、古くからある家の一つだ。相模さんと私の立場は逆転した。相模さんは幾度となく私へのいじめを止めようとしていたが、私は満足だった。もう他人の苦痛を自分に倒錯することもない。実家は、清史郎様の実家からの援助でギリギリの状態を保っていた。
清史郎様が帰国したのは、それから程無くしてだった。
清史郎様はこの学園に戻ってきてまず私へのいじめを止めさせた。
「私の婚約者を傷付けるってことは、一之瀬を敵に回すってことと同意義だよ?」
その一言でいじめはピタリと止んだ。誰も清史郎様の御実家である一之瀬には手を出せないだろう。勿論、あの二宮先輩たちでさえ。相模さんは清史郎様にお礼を言っていた。私のことを未だに気遣ってくれていたみたいだった。どこまでも優しい人だ。
清史郎様は二人きりになるとまず私の頬をピシャリと強く打った。そのせいで口の中が切れて、血の味がする。
「何余所見しているの。僕がちょっと居なくなっただけでそうなんだ。ああ、やっぱり君も一緒に連れて行くべきだったよ。父に反対されたとしても強行するべきだったな」
そう言って清史郎様は私をまたぶつ。何度も何度も。
「ねえ、どうしたら良いんだろうね。どうしたら君を繋ぎ止めて置けるのかな。ねえ、蓉子。蓉子…」
清史郎様は泣いていた。清史郎様の実家は完全な実力主義で、清史郎様はとても厳しく育てられてきた。清史郎様は両親に愛されるよう必死に努力して努力して努力して、けれど愛されることはなかった。清史郎様の父は清史郎様の実力を評価したが、清史郎様を愛することはなかった。清史郎様の母は浮気を繰り返していて、清史郎様を振り返ることはなかった。清史郎様は愛に飢えている。清史郎様より格下の家で、清史郎様に逆らえなかった私を手元に置き、痛みを与えることで安寧を得ている。
清史郎様は今日はナイフを持ち出し、私の胸元にすっと刃を滑らせた。傷口から直ぐに血が滲んで、服の胸元は赤く染まった。私は清史郎様の気持ちはよく分からない。けれど、ただ今が幸福だと思う。
清史郎様は私を愛していると言った。私は愛されている。誰かに愛される人は幸せだと書物に書いてあったのを見たことがある。だから、きっと私は幸せだ。
清史郎様が私の名を呼び、キスをした。久し振りのキスだった。
―――あれ?ここは一体どこ?
辺りは一面白い部屋。ドアが一つだけある。
そこの隅に、一人の女の子がしゃがみ込んでいる。肩が小刻みに震えていることから泣いていることが分かる。
―――どうして泣いているの?
そう言って目の前の女の子に手を伸ばす。すると急にドアが強くノックされる。何度も。何度も。
―――ああ、私もう行かないと。
伸ばした手を引き、ドアに駆け寄る。嗚咽はもう止んでいた。
ドアをくぐる一瞬、私はいつの間にか顔を上げていた少女と目があった。
―――あれは………―――――――。
きっともうここに来ることは無いと私は思った。
あれは。あの少女は。紛れもなく幼い頃の私だった。
一応ですが、相模さんはいい人ではありません。乙女ゲームの転生者で逆ハーを狙ってます。
清史郎は乙女ゲームの隠しキャラで逆ハーエンドを迎えると攻略が可能になる仕様です。
どちらも裏設定ですが、一応。