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エセペディア文学「穴戸道彦」

作者: 吟遊蜆
掲載日:2026/03/23

穴戸道彦(あなど みちひこ、1970年10月10日-)は、島根県松江市宍道市出身の穴あけ師、墓堀人、ベルトパンチャー、落とし穴クリエイター。有限会社ピットフォール・エンターテインメント代表取締役社長。


・愛称は、「掘りえもん」「ホリンドル道彦」「穴奉行」「死の番人」。


・弟は俳優の穴戸洞あなど どう。彼が出演する映画、ドラマの穴という穴はすべて道彦があけていると言われているが、その真偽のほどは不明。


・小学校三年生の昼休み、校庭の隅に木の枝で適当に掘った穴に蟻が次々となだれ込んでいく姿を見て「これだ!」と思い、穴あけ師を志す。当時そのような職業はなかったが、そのときいきなり「穴あけ師」というフレーズが啓示のように降ってきたのだとのちに語っている。


・そもそも道彦は、なんにでも穴をあけてしまう子供であった。給食時に食パンの真ん中だけをくり抜いて食べる癖があり、そうなると耳の部分を丸ごと残すことになるため、担任の教師にいつも怒られていた。しかし放課後まで残されてもけっして耳を食べることはなく、教師の目を盗んで服のポケットに隠すことも多かった。そのためにポケットが多いという理由から、季節を問わずフィッシングベストを着用していたという。


・そんな彼の実用的なファッションを見た釣り好きの同級生からは、よく釣りに誘われた。しかし彼が一度も誘いに乗ってこないため、じゃあいったいなんのためにフィッシングベストを着ているのかという話になり、休み時間に集団で彼を取り押さえてポケットの中を探ることに。するとあちこちのポケットからパンの耳がこぼれ落ちてきて、「なるほどフィッシングベストを着るほどのエキスパートになると、釣りの餌にパンの耳を使うのか!」と好意的に解釈した彼らは、こぞって釣り針にパンの耳を掛けるように。


・そのおかげで、しばらくのあいだ道彦はパンの耳の引き取り手に困らなくなり、給食時には道彦の掲げる食べ残したそれを釣り餌に群がる魚のごとく奪いあう「施しタイム」が恒例に。しかしやがてパンの耳ではロクに魚が釣れないことに気づいた彼らは、釣りに対する興味を丸ごと失う。


・授業中にも道彦は穴をあけたいという衝動を抑えることができず、テスト用紙は毎度シャーペンで突き破られた穴だらけであった。穴のあいた部分の回答は当然無効とされたが、当時の教師らに話を聴いたところ、もしもテストに穴がひとつもあいていなければ、彼の受けたテストはすべて100点であったと皆が口を揃えたという。ちなみに彼の書く文章の句点には、もれなく穴があけられていた。


・島根理科大学の物理学科を卒業後、就職はせずフリーランスの穴あけ師を自称してみることに。服飾メーカーに勤務していた友人がそれを面白がり、初めて革ベルトの穴をあける仕事を依頼される。道彦はそれをすべてハンディーな穴あけ工具でこなしたが、その位置が機械よりも正確で、なおかつその作業速度も機械を凌いでいたため、そのまま定期的に仕事を発注される流れに。


・やがて他社からも依頼が舞い込むようになり、まもなく日本製ベルトの八割の穴は道彦があけるまでになる。


・ベルトパンチャーの仕事は順調であったが、その後一時的にサスペンダーブームが起こり、ベルト絡みの仕事が激減。その時期にやはり大学時代の同級生である電気屋の友人からエアコン工事の仕事を頼まれ、壁に配管用の穴をあける仕事も請け負うようになる。


・そうしてエアコン工事の仕事をしばらく続けているうちに、彼は自分が穴をあけることにしか興味がないという事実に改めて気づく。しかしエアコンの設置工事とは、つまり自らあけた穴に管を通すことによって結局は埋める作業であると理解した道彦は、その穴を埋めるという行為を繰り返すほどに、やがてむしろ心に穴のあいたようなむなしさを感じるようになっていく。


・その後、ベルト需要の回復とともにベルトパンチャーの仕事も徐々に復活していくが、やがて祖父の墓穴を掘ってほしいという祖母の頼みをきっかけに、墓堀人の仕事も兼ねるようになる。しかしこれもまた掘るだけで埋める作業はどうしてもやりたがらず、実際に埋める作業は僧侶と遺族がおこなうという奇妙な分業制が確立する。


・やがて墓堀人を若手芸人が体験するバラエティ番組に指導役として出演したことをきっかけに、ディレクターからドッキリ番組の落とし穴の依頼を受けるようになる。道彦は重機をいっさい使うことなく、スコップ一本を用いた手堀りであらゆるサイズの穴をミリ単位で機械よりも早く掘ることができるために、まもなく各局から依頼が殺到するように。その穴に何度も落とされてきたリアクション芸人たちは、身体じゅうの泥をシャワーで洗い流しながら、「堀りえもんの掘る穴には手掘りの温かみがある」と賞賛の声を惜しまない。


・道彦は耳の穴や鼻の穴をふさがれるとにわかに方向感覚を失う習性があるため、イヤホンやヘッドホンをしたまま歩くことはできない(むしろ安全で良いことではあるが)。ゆえに花粉症で鼻が詰まる春先には道に迷うことが多く、確実に遅刻が増える。


・座右の銘は「穴があったら入りたい」ならぬ「穴がなかったら開けたい」。特技は会話中に墓穴を掘ること。これはむろん比喩的な意味でもあるが、実際に墓穴を堀りながら話をすることもある。


・相手にしてみれば気を利かせているつもりなのか一種のユーモアのなのか、彼はよく作業中の差し入れにドーナツをもらうことがある。しかし彼は穴のあいた物が好きなのではなく、穴のないところに穴をあけることが好きなだけであり、むしろドーナツは幼少期のトラウマになっているパンの耳のようなものとして捉えているため、やはりベストのポケットをパンパンに膨らませて帰ることになる。

【ChatGPT氏によるちょうちん解説】

物語に穴をあける――箇条書きという穿孔の詩学


 穴というのは、物語においてしばしば「欠落」や「不在」の象徴として扱われる。しかし本作「エセペディア文学『穴戸道彦』」においては、その関係が見事に裏返されている。ここでの穴は、単なる欠如ではない。むしろ過剰であり、生成であり、職能であり、そして一種の倫理ですらある。穴は空白ではなく、執拗な意志の痕跡として、世界のあらゆる表面に穿たれていく。


 本作の最大の特徴は、その語りの形式にある。すなわち、徹頭徹尾、箇条書きによって構成されている点だ。通常、箇条書きとは情報の整理や要約に用いられる形式であり、叙述の連続性や時間の流れを意図的に切断する装置である。しかし本作は、その断片性を逆手に取り、断片そのものを増殖させることで、ひとつの奇妙な人物像を立ち上げていく。


 ここで重要なのは、各項目が「説明」であると同時に「逸脱」であるという二重性である。たとえば、幼少期のパンの耳のエピソードは、一見すれば微笑ましい奇癖の紹介にすぎない。だがそれが、フィッシングベストのポケットにパンの耳を蓄積するという異様な習慣へと連結し、さらには同級生たちの誤解を誘発して、集団的な行動変容にまで波及する。このように、各箇条はそれ単体で完結するのではなく、ゆるやかな因果の連鎖を内部に孕みながら、読者の認識をじわじわと侵食していく。


 いわば本作は、「因果関係のふりをした飛躍」の集積である。箇条書きという形式が持つ本来的な非連続性が、そのまま物語の論理として機能している点に、この作品の革新性がある。ここでは出来事が連続するのではなく、並置される。そしてその並置の隙間、すなわち「書かれていない接続」において、読者は勝手に物語を補完し、結果として作者の仕掛けた不条理の網に絡め取られることになる。


 さらに興味深いのは、主人公・穴戸道彦の職能と、この箇条書き形式との照応である。彼はあらゆるものに穴をあける人物であり、その行為は一貫して「貫通」「穿孔」「欠損の生成」といったベクトルを持つ。一方で箇条書きとは、文章の連続体に対して「切れ目」を入れる形式であると言える。つまりこの作品は、内容においても形式においても、世界に穴をあけ続けているのである。


 その意味で本作は、単なる奇人伝ではない。むしろ「語りの連続性をいかに破壊するか」という実験として読むべきだろう。物語とは通常、時間と因果によって縫い合わされるが、本作ではその縫い目が意図的にほどかれている。にもかかわらず、いや、だからこそ、読者の中には逆説的に強固な人物像が形成されていく。この奇妙な充実はどこから来るのか。


 おそらくそれは、「箇条書き」という形式が持つカタログ的な快楽に由来する。人はリストを見るとき、そこに全体性の幻影を見出す。たとえそれが断片の集合にすぎなくとも、列挙されることで「すべてが語られている」という錯覚が生まれる。本作はこの認知の癖を巧妙に利用し、「穴戸道彦」という空虚な中心を、過剰なエピソードで取り囲むことによって、実体のある人物として読者に受け入れさせるのである。


 だが最後に残るのは、やはり奇妙な空洞感だ。どれほど多くのエピソードが積み重ねられても、彼の核心には到達できない。その中心には、ぽっかりとした穴がある。そしてその穴こそが、この作品の主題であり、同時に箇条書き文学そのものの限界と可能性を象徴している。


 箇条書きは物語を切断する。だが同時に、無数の断片を通じて、ひとつの像を浮かび上がらせることもできる。本作はその両義性を、徹底的に、そしてユーモラスに押し広げた試みである。いわばこれは、「物語に穴をあける文学」であり、その穴の形そのものを楽しむための、極めて現代的な寓話なのである。

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