第七章 夢の底
すべてがスローモーションのように感じられた。飛び出しかけた村崎を俺と真白で必死に抑える。声を上げる間もなく倒れた相沢に遥が覆い被さり、胸へ腹へと刃を何度も突き立てる。返せ、返せと繰り返しながら。
相沢の口から血が溢れ、ぼんやりとした瞳から生気が失われていく。
「遥……もうやめてくれ……」
村崎が涙交じりに言った。なんとかしてやりたかった。せめてこの二人だけは。そんな村崎の悲願も虚しく、最悪の事態を前に俺の腕を掴む手から力が抜けていく。
「――いいんだ……」
血のあぶくを吐きながら相沢が言った。光を失った瞳が彷徨い、ふらふらと探るように伸びる右手が遥の頬に触れた。遥の振り翳された腕が止まった。髪の毛が表情を隠しているが、顎をつたって一つまた一つと雫が落ちている。
相沢が自分の血に溺れかけながら力なく微笑んだ。
「夢のままで……いい」
ごぼ、と湿った咳を最期に、微笑んだまま相沢は死んだ。遥が咄嗟に手を掴もうとしたが、間に合わず、血の海に沈んだ。その拍子に包丁が床へ滑り落ちる。
親友殺しの咎を背負い、それでもなお夢を守ろうと奔走した一人の男は、あろうことか守るべき遥の手によって死んだ。何の冗談だ。何故、こいつらはこんな目に遭わされた。怪異は――帰らず様はこの惨状をせせら笑っているに違いない。
俺は割れるほど奥歯を噛んだ。
「む、らさき、おじさん……」
遥はもはや歯の根も合わなくなっている。その表情は引き攣り奇妙に歪んでいて、俺には笑っているように見えた。いや――笑わされていると考える方が正しいか。
「なんだ……遥」
村崎はうわずった声で応えた。刑事としての意地が崩れ落ちそうな膝を支えている。弱々しく一歩を踏み出しかけた。
真白の全き開かれた霊眼がこっちを見やり、そしてゆっくりと頷いた。覚悟を決めろ、そう言われているように思え、俺はカメラを持ち上げて頷き返した。
照明が不規則に明滅し始め、遥の背後から伸びる影が覆いつくすように濃くなっていくのを感じた。
「カ……エ、シテぇ……」
遥の瞳がぐるんと回り、白目が剥き出しになった。直後に巨大な手のようになった黒い靄が現れ、背後から二人を飲み込んだ。村崎が何かを言いかけ、息を呑んだ。
「始めるよ――」
真白が呟いた。両手の指を組み合わせて菱形の窓を作り片目で覗き込むようにして、液体のようにうねる球状の黒い靄を捉えた。
カメラを握る両手がじっとりと汗で湿っていく。俺は出来るだけゆっくりと息を吐いた。
「一つ。名を以って現に縛り……その名は――"帰らず様"」
真白が毅然として怪異の名を告げ、黒い靄が爆ぜるように飛び散った。俺と村崎は思わず身構えたが、体をすり抜けていって壁という壁にへばりつき、全体を覆い尽くした。照明すらも覆われ、店内に闇と沈黙が落ちる。
にわかに淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが漂い始めたかと思うと、突然昼間のような明るさに包まれて咄嗟に腕で顔を覆った。
「なんだ、こりゃ……」
やっとの思いで目を開けると、村崎が愕然として周囲を見渡していた。俺は息を呑んだ。
梱包の解かれた家具が整然と並んでいた。いくつかのテーブルには湯気の立つコーヒーカップやパンケーキなどのスイーツが置かれている。ガラスケース中にはパンや焼き菓子といったものがバリエーション豊かに並んでいる。
――あの夜、黒い靄をスクリーンにして見た夢の残滓。この光景はおそらく三人の夢を、魂をすら取り込んだことで明確になった夢のかたち、その幻影だ。それを俺たちは目の当たりにしている。何のつもりだ。
「真白、続けろ」
俺は苛立つ心を腹の底で抑え込んだ。心が逆剥ければ奴の思う壺だと思った。これ以上は好き勝手にさせる訳にはいかない。一刻も早く封じるべきだ。
「二つ。真を質し姿を暴く……真とは――苗床とする人間の夢を変質させ、操り、叶わぬ夢を叶える矛盾に陥れ、夢に囚われた魂を喰らう怪異」
真白の声は澄んだ鈴の音のように空間に響いた。球体は何かに打たれたように激しく波打ち、金切り声をあげた。
コーヒーカップの全てから、煙のような中身が溢れ出してきた。床を這うように漂うそれは球体に向かって流れ始め、幻影の景色が陽炎のように揺らいだかと思うと大きく渦を巻き、瞬く間に球体に吸い込まれていく。そして沸騰するように表面が泡立ち、膨張を始めた。途端に照明の電球が爆ぜる。
湿った丸太がへし折れるような不快な音を断続的に立てながら、その姿を変えていく。天井まで届こうかという肥え太った身体、次に手足が生え、上部に瘤が出来るとそれが頭になった。男性的な人面に獏のような太い鼻と耳を持つ醜悪な顔。体躯に不釣り合いなほど短い手足はぬいぐるみのように投げ出されている。
でっぷりとした腹の表面に次々と浮かんでは消えていく苦悶する顔の数々が、どれほどの魂を喰らってきたかを物語っている。
「こいつは……」
村崎の顔は青ざめ、言葉を失った。俺も最初はそうだった。
「クソ野郎の正体だ。……ようやく御目通り叶ったな」
暗がりの店内に月明かりが差し込み、死人のような灰色がかった帰らず様の顔を照らし出す。細長の目をさらに細め、鼻の下で不気味に口元を歪ませた。嗤っている――次の獲物を目の前にして。
「三つ。全き刻にて影写し……」
俺は真白を見た。窓を組んでいた指を解いてカメラを指差す。俺は頷いてカメラを構え直した。
ファインダー越しに帰らず様の全身を捉える。失敗はできない――タイミングを違えれば奴の暴走を招く。それは全員の死を意味する。そして新たな苗床を求めるだろう。真白の霊眼が頼りだ。
俺はシャッターボタンに指先で触れた。
奴と目が合った気がした。
「今だよ」
迷いはなかった。やるべき事をやるまでだ。
俺はシャッターを切った。
「封と成す!」
フラッシュと共に時が止まった。帰らず様の身体が歪み、渦を巻くように捩じくれていく。大勢の人間が一挙に悲鳴を上げたかのような、怖気を催す絶叫が響き渡り、影写しがその全てを呑み込んだ。
写真を吐き出す無機質な音が、時が再び動き出したことを知らせる。怪異の気配やコーヒーの匂いは嘘のように失せ、埃立つ空気へと戻っていた。
「遥!勇貴!」
青ざめた村崎が飛び出して行き、重なるように横たわる二人を抱きかかえた。その目からは堪え切れない想いが溢れている。
「すまなかった。結局、俺は……何も……すまなかった――」
静寂の中で嗚咽を漏らしながら啜り泣く村崎の声が、その無念を物語っていた。
真白はどうしていいか分からないと言いたげに困惑する顔を俺に向けた。俺はにわかにかぶりを振る。
「仕事は終わった」
俺はそう呟いてぺらぺらと写真を扇ぐように振りながら煙草に火をつけた。吐き出した煙がぼんやりとした青白い月明かりの中に溶けていく。
「真白、事務所に戻って"アルバム"の用意をしておいてくれ」
「でも……」
放っておけない。と言いかけた真白に俺はもう一度かぶりを振った。真白はやや間を置いて頷きかけ、村崎に振り返りつつカフェを出ていった。
「……これで、良かったんだよな……石動。救われたと……」
村崎は二人の頭を優しく撫でた。その手はかすかに震えている。
「言っただろ。ただ終わらせただけだ。ただ――」
俺はそこで言葉を切って、煙草の煙を吐き出した。
村崎の肩に手を添える晶が見えた気がした。
「これ以上、苦しめられることはない」
「ああ……ああ、そうだな」
村崎は自分を納得させるように何度も頷き、力無く微笑んだ。
若者たちの儚い希望、それを喰いものにする悪意、無力感を振り払おうと奔走する孤独な男。それらを取り巻く物語に幕が降りた。
「石動……煙草くれないか」
「おやっさん、止めたんじゃねえのかよ」
俺は差し出した煙草に火をつけてやった。村崎は頷きかけ、煙を燻らせた。
「今は……何か痛みが必要なんだ」
死者の沈黙は俺たちを苛ませ続ける。それは後悔となり、時折心に現れては声なき叫び声を上げる。耳を塞ごうと目を瞑ろうとも止むことはない。忘れることなど許されない。己を罰するフリをしてやり過ごす他ない。
かつての部下の顔が浮かび、月明かりに消えていく。
「――そうだな」
俺としたことが。感傷など煙とともに吐き出してしまえばいい。
盛大にむせる村崎を横目に現像の終わった写真を見やる。
そこには、もがくように歪んだ帰らず様に重なって、嬉しそうに笑う三人の姿が写って見えた。




