第六章 真実
雨上がりの湿気が霧となって漂い、看板も掛けられていないカフェの前で立つ村崎と真白の姿を霞ませていた。
入り口の花壇前に置かれた灰皿に俺は煙草を押し付けた。村崎が扉の持ち手に手を掛ける。
「相沢は?」
「中に待たせてある。訳は簡単に話しておいた」
俺は頷きかけた。重い扉が軋みを上げて開くと、冷えた空気が漏れ出してくる。薄暗い店内は未開封の家具たちがまばらに置かれ、夢のまま止まった時間を物語っている。
ダンボールに腰掛けた相沢が立ち上がり、覇気のない顔を向けてきた。
「あんたら、写真屋じゃなかったんだな」
相沢が俺と真白を交互に見て、呟くように言った。俺は肩をすくめた。
「嘘は言ってねえ。今日だって写真を撮りに来たんだ」
「石動さん、ここ。この位置から撮って」
真白が霊眼で捉えたであろう怪異の残滓を指差している。相沢の後ろに見えるカウンタータイプのガラスケース。
鉄製フレームがひしゃげ、その周りのガラスが砕けて無くなっている。破片や血痕らしき跡は残っていない。晶の苦しみや未練までは拭いきれなかったようだが。
俺はそこに人が立っているようにファインダーの角度を調整し、シャッターを切った。フラッシュが焚かれた瞬間、硬直するような感覚になり、ややあって影写しがフィルムを吐き出した。俺はそれを手に取りパタパタと扇いだ。
「どうだ」
村崎がフィルムを覗き込んでくる。そこには壊れたガラスケースしか写っていない。相沢が溜息をこぼした。
「一体何がしたいんですか」
「ま、見てろ。真白は見間違いなんかしねえよ」
フィルムが写した景色が端から焼けるようにじわじわと変わっていき、隠された真実が浮かび上がった。
そこにはガラスケースに倒れ込む晶と突き飛ばすように手を伸ばした相沢の姿が写っている。戸惑った表情をした相沢の腕に黒い靄がまとわりついている。
その様子を見た村崎が驚きに目を丸くし、相沢の顔は死人のように青ざめていった。
「この写真……これはなに……」
真白の目に宿る鬼火を見た相沢が息を呑んだ。彼を見つめている様に思えるが、おそらく真白が見ているのはその背後にある影だ。
「やっぱり、そういう事だったみたい」
「……勇貴。話してくれないか」
村崎の哀しみを湛える眼差しが相沢を真っ直ぐに見つめた。相沢が再びダンボールに座り込み、わずかに震える唇で語り出した。
「……あいつ、遥に“出稼ぎ”させれば借金をチャラに出来るって、取り立てに来た男に言われたって言うんです。それで遥を説得するのを手伝ってくれって。まともな状態じゃなかった。――止めようとしました。でも、夢のためなんだ、って。聞く耳持たなかった。そのうち掴み合いになって……」
相沢の肩が震え出し、我慢していたものが目からこぼれ出した。村崎はその肩を優しさの滲む手で強く掴んだ。
「そして突き飛ばした。だが、それはこの黒い靄みたいなヤツにやらされた……そうだな?」
しかしそれを振り払うように立ち上がり、俯いたまま堪え切れない涙を拭った。
「やめてくれ……あの時はひとりでに手が動いたんだ。自分の力じゃないみたいだった。――俺はやってない!殺す気なんてなかったんだ!」
相沢は俺たちに背を向けるようして啜り泣いた。
家族同然の親友を殺してしまった罪悪感。真実を告げる勇気もないまま、そのうちに遥は心を病み、兄が死んだことを認められなくなってしまった。
きっと自分を責めたのだろう。人も夢も、全て狂ってしまった。取り返しのつかない状況に陥って、それでもせめて遥だけは守りたい。隠すしかなかった真実に秘められた悲痛な願い。――あの夜、手に握られていた包丁はその覚悟の表れだったのかもしれない。
「お前たちなら心配ない、きっと夢を叶えられる。そう思っていた。……その夢を見届けてやることで、親の代わりをしてるつもりになっていたんだ。実際は違った。もっと踏み込むべきだった……。俺は大馬鹿者だ」
村崎はそう言って歯を食いしばった。血が滲むほど強く握られた拳が激しい後悔に震えている。
両親が心中したのも知らず、ままごとをしていた幼い兄妹。仲間が増え夢に向かって努力し、成長していく三人。村崎はそれを今日まで見守ってきた。
だが、その心情を察してやれるほどの人情味は俺には無い。真白が二人の様子を静観しているのをよそに俺は煙草に火をつけた。
「後悔なんざ、死人も喜ばねえよ。今、干渉に浸れば怪異に呑まれるだけだぜ」
「誰もが……お前たちのように強いわけじゃねえのさ……」
肩を落とす村崎の力ない瞳が俺たちを見た。真白はかぶりを振った。
「私たちにはまだやる事がある。それだけのことよ」
「そうだ。晶の死が仕組まれた事だと分かった以上、これで本質が見えた。残るは――」
俺が言いかけた時、扉が軋みを上げた。沈黙が落ちる中、全員が振り返る。ゆっくりと開いていく扉の隙間からじわじわと霧が入り込んでくる。だが開き切った扉の向こうに人影は無く、ただ夜の闇が広がるばかりだった。空気の冷えるような感覚を覚え、口に咥えた煙草の煙がにわかに揺らいだ。
「遥――」
息を呑む相沢の方へ目をやると、そこには忽然と現れた遥の姿があった。操り人形のように不規則に揺れながら、暗い瞳でじっと相沢を見つめている。村崎が唾を飲み込む音がやけに響いた。
「お兄ちゃんはどこ?」
遥がぎこちない足取りで相沢に近づいていく。一歩踏み出すごとに、影から黒い靄が溢れ出してくる。それは遥の足を登っていくように背後へと広がっていく。空気が急激に冷えていくのを感じた。
俺にすら視えるほどに強い現実干渉の予兆だった。さっき撮った写真の中の光景が頭をよぎる。相沢は今、かなり危機的な状態にあると言っていい。
俺は咄嗟にファインダーを覗こうとして、その手を真白が掴んだ。
「間に合わねえぞ」
「それでも、よ。あれはただの影、顕現する瞬間を待って」
「クソッ……」
俺は煙草を床に叩きつけた。今シャッターを切れば悪戯に暴走を招き、事態は悪化するだろう。分かりきったことだ。俺には何もできない。――そうだ、俺たちがやってる事は救いなんかじゃない。決して。転がった煙草を踏みつけた。
相沢は恐怖に震える声を抑え、宥めるようにゆっくりと遥かに歩み寄っていく。
「遥、俺の話を聞いてくれ。晶は――」
「お兄ちゃんを返せ!」
遥の喉から迸った声に獣の唸るような音が混ざり、もはやその面影はない。尋常ならざる咆哮に伴って強い耳鳴りがし、全員をその場に釘付けした。直後、遥の右手に握られた包丁の刃が相沢めがけて閃いた。
耳鳴りによって音の消えた世界で、村崎の悲痛な叫びだけが遠くから聞こえるように響いていた。




