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第四章 朽葉堂

 あの夜、俺たちは相沢に追い出されるように家を後にした。もっと情報を得たいところだったが、険しい表情の村崎に止められた。娘のように思う遥の身を案じれば、仕方のないことだ。俺と真白もそこまで薄情ではない。

 兄の死と夢への未練、歪んだ認識、怪異に魅入られた遥、相沢への疑念。そしてあの夜に撮った二人の写真。フィルムの中の二人の歪んだ笑み――その顔を、身体を、まるで抱きしめるように覆い被さる怪異の影。

 影写しの制約を満たす為の材料は揃いつつある。一つずつだ。まずは怪異の正体を明らかにする。

 ――朽葉堂くちばどう。旧工場跡に程近い縁綾町南側の片隅で苔と蔦に覆われつつあるこの幽霊屋敷じみた古書店に、求める答えがあるはずだ。俺はその厚い木製ドアを開いた。

 店内狭しと置かれた書棚が迷路のように奥に伸び、どこまでも続いているかのような錯覚に陥る。静まり返る店内で紙を擦る音だけが、何処からか聞こえてくる。

「ジイさん、生きてるか」

 いつもの如く悪態をついてやると頁をめくる音が止み、代わりに掠れた笑い声が聞こえてきた。

「ワシなら死んでても返事しちゃうかもね……」

 古い墨の匂いが漂う書棚の迷路を抜けた先のカウンター、その上に積まれた本の間から妙齢のほっそりとしたにやけ顔が現れた。榊宗玄――朽葉堂店主、白髪を後ろ手に束ねた老いさらばえた民俗学者。地方の伝承や古い口伝に詳しい知の協力者。

「榊先生、こんにちは」

「言霊の彷徨う本の墓場、朽葉堂へようこそ……なんてね。伝ちゃんは今日はいないのかい」

 伝ちゃん、とは村崎のことだ。名前の伝治から伝ちゃん。榊とは俺が刑事だった頃からの付き合いだ。

「おやっさんにはちょっとしたお使いを頼んである。今日は来ねえよ」

「残念……それはそうと真白ちゃん。霊眼使ったでしょ――見せてごらん」

 そう言って眼鏡を浅く鼻に掛けるようにずらし、真白の霊眼をじっと見据えた。霞がかった灰色の瞳の奥に、にわかに鬼火が宿る。次第に焦点がぼやけていき、まるで現実とは異なる“層”を視ているようだ。

「ふむ、夢……帰らない……執着……。ふっふっ、やっぱり君らがいると飽きないねえ」

「面白がってる場合じゃねえんだ。コイツの名が知りたい」

 俺は手帳を取り出し、間に挟んでいたあの日に撮った写真をカウンターに置いた。今にしてみると覆い被さる影が、親し気に二人の肩を抱く晶の姿に見えなくもない。

「これは凄いね。……人の姿をとっているようにも視える」

 榊は興奮した様子で写真を手に取り、その瞳を若返ったように輝かせている。

「先生、何か分かりますか?」

「ハッキリとは言えないけどね、印象としてはばくに近いかな」

「獏なら俺も知ってるぞ。夢枕に出て来て悪夢を食べるとかっていう……」

「ほほっ、しょうちゃん物知りだねえ」

 榊が面白がるように手を叩いた。年甲斐もなく人を馬鹿にするような態度に俺は溜息をつく。

 この稼業を続けていれば嫌でも知識はついてくるものだ。俺はかぶりを振って榊の手から引ったくるように写真を奪い、手帳に挟み込んだ。

「"書庫"を調べてみるから、聲ちゃんは一服しておいで。真白ちゃんには手伝ってもらおうかね」

「分かりました。じゃあ石動さん、後で」

「ああ、頼んだぞ」

 "書庫"――カウンターの奥にある書物を溜め込んだ部屋のことを、榊はそう呼んでいる。真白のような"能力"を持たない人間が立ち入ると"呑まれる"そうだ。人を化かす狐のような榊の態度は、どこからが本当でどこからが冗談なのか定かではない。そういう訳で俺は朽葉堂を出て煙草に火をつける。

 俺はスマホを取り出し、村崎に電話をかけた。ややあって重苦しい声音の村崎が応答した。

「首尾はどうだ、おやっさん。」

「……晶の件は依然として捜査中だ。現場は一階店舗内、死因は急性硬膜下出血による呼吸不全。病院に搬送されたが間に合わなかったようだな……。状況としてはガラスケースに頭を突っ込んだらしい。当時、足元は水で濡れてたそうだが、服装の乱れや腕にわずかな防御創が見られる」

「自分で転んだようにも見れるし、揉み合って突き飛ばされた可能性もある……。つまり事件と事故の両面捜査か。第一発見者は?」

「……勇貴だ。二階にいたところで物音がして、カフェで血まみれになって意識不明の晶を発見したらしい。それだけじゃない。まったく、どこから話せばいいのか……」

「おやっさん、詳しいことは俺の事務所で聞くとしよう。先に行っててくれ――鍵は開いてる」

 後でな、と溜息混じりに言い残し、村崎は電話を切った。

 吐き出した煙草の煙に相沢の後ろめたい表情が浮かんでは消える。夢半ばに命を落とした晶。遥の陰に潜みほくそ笑む怪異。そうした全てが霧の向こうで混じり合っては散っていくイメージが見える。

 ずっと続くと思えた生活は得体の知れない存在によって一瞬で崩れ去る。別れも告げられない、悲しむ暇も後悔の余地も与えられず、怪異は全てを奪い去っていく。若い頃、似た経験をした。出来ることならせめて三人の夢は守ってやりたい。

 朽葉堂のドアが開き、真白が顔を出した。その表情に手応えを感じる。

「わかったよ。あいつの名が」

「話を聞こう」

 俺は頷いて中に戻り、カウンターに並べた書物を前に顎をさする榊のにやけ顔を一瞥した。

「獏っていうのはね、平安時代に唐から伝わって来たものでね。悪夢を食べてくれる霊獣、縁起物として知られているよね」

「だが、今回の怪異とはイメージがかけ離れてる」

「そうだね。でも日本には魘魅えんみというものが古来からあってね。魘される、魅せるって書いて魘魅。魘とは悪夢を見せて呪うこと、魅って字にはとりこにする、呪い殺すって意味がある。つまり魘魅とは、悪夢でもって呪い殺す呪術なんだよ」

 榊は巻物を広げ、魘魅について書かれている箇所を指差した。真白が後を引き継ぐ。

「魘魅という言葉が独り歩きして、だんだんと妖怪のような存在に変わっていったみたい。それでその二つが江戸時代になった後も口伝や浮世絵で広まっていくうちに歪に混ざり合って、人を悪夢に縛り、その魂を喰らう存在へと変化していった」

 人の見る悪夢を餌とする善なる霊獣、かたや人が人を呪う術が形を成した悪意ある存在。相反するその二つが混ざり合い、長い刻を経て夢という共通項を通じ、歪んだ形で変貌を遂げた。

 悪夢に閉じ込め、じわじわと魂を喰いつぶす邪悪な存在に。――皮肉なことだ。

「現代ではさらにアレンジが加わって都市伝説化したようだねえ。人の執着に取り憑き、醒めない悪夢の中で魂を貪る存在――その名も“帰らず様“」

 にわかに目を鋭く光らせた榊が名を告げた時、書棚のどこからか物音がした。俺は思わず身構える。横目に見た真白が緩慢に振り返ってその方向へ行き、一冊のノートを手に戻って来た。表紙には“帰不様”と書き殴ってある。

「先生、これって探してたノートじゃないですか?」

「おお……書庫にあるのだと思ってたのにねえ。売り物の棚にしまうとはうっかりしてたよ。見つけてくれて、ありがとうねえ」

 にやにやとわざとらしく笑う榊はどこか違う方を向いているようだった。真白までその方向を見ている。俺たちの他にも誰かがいるような気配を感じる。榊に向き直ると鬼火の揺れる瞳に射抜かれ、背筋に怖気が走った。

「聲ちゃんが視えない人で良かったよ。シャッター切られちゃ堪らないからねえ……」

「――ともあれ、これで名前は分かったね石動さん。後は……」

「そのカメラの制約――『名を以って現に縛り、真を質し姿を暴く、全き刻にて影写し……封と成す。』つまり後は本質を見抜くわけだねえ」

 榊は指を順番に立てて得意げに語ってみせた。

 そう、この影写しは完全に機能させるために三つの条件を満たす必要がある。怪異の名を告げて実体化させ、存在を現実に縛り付ける。怪異が現実干渉する理由を突き止め、その正体を明らかにする。そして完全に顕現した瞬間を狙い、シャッターを切る。それで怪異はフィルムへと封じ込められ、現実に干渉することは二度と無くなる。

 俺の元刑事としての経験、真白の霊媒師としての能力。そして影写し。これは俺たちにしか出来ない仕事だ。

「先生、ありがとうございました。この報酬は後ほど」

 真白が丁寧にお辞儀し、榊はひらひらと手を振ってにっこりと笑った。

「土産話で十分だよ。だから気をつけてねえ。二人まで帰ってこなくなったら、わし寂しいから」

「ジイさんより先にくたばる予定はねえよ。行こう、おやっさんが待ってる」

 俺は踵を返し朽葉堂を後にした。煙草に火をつけ、たっぷりと煙を吐き出した。橙色に照らされた路地を通り抜ける風が、俺の頬を撫でる。

 ――帰らず様。悪夢に閉じ込め、魂を喰いものにする怪異。

 必ず止めてみせる――たとえどんな結末を迎えるとしても。

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