第三章 残滓
現場に向かう道中、村崎はこれまでの経緯について語った。
是田兄妹――兄の晶と妹の遥――には夢があった。大人になったら二人でカフェを開くこと。あの時のカフェごっこはその練習だったそうだ。それは施設に入ってからも変わることなく、両親の死を受け入れ始めた二人にとって、唯一の支えだった。
しばらくして相沢勇貴という男の子が入所してきた。晶と相沢は同い年ということですぐに意気投合したそうだ。
相沢はカフェごっこに混ざるようになった。晶がコーヒーを淹れ、遥が客の相手をし、相沢が料理を作る。やがてカフェの夢は三人のものになった。
晶と相沢は高校へは行かず、施設を出て就職し、夢のために資金を貯める計画を立てた。就職先は村崎がツテを駆使して問題なく働き始めた。晶は夢の第一歩として店舗を探し始め、たどり着いたのが縁綾町駅のロータリー周辺だった。
再開発の手が届かなかったニュータウン、そのアーケードのレトロな雰囲気をまとった裏路地。昔ながらの喫茶店を想起させる、こじんまりとした二階建ての傷んだ建物が、晶たちの見つけた夢の出発点だった。
ロータリーからさほど離れてもないが、夜の喧騒とネオンの輝きはここには届かない。南の川から運ばれる薄霧が辺りを漂い、頼りない街灯に音もなくまとわりついている。
村崎がここだ、と言って明かりのついた二階の窓を指差した。
俺は一階部分に目線を落とした。照明の付いていないガラス張りの室内に街灯の燻んだ光がうっすらと差し込む。梱包も解かれないままのテーブルや椅子が夢の残骸のように置かれていた。叶うはずだった三人の未来、それは晶の死によって無情にも断たれてしまった。
「こっちだ」
足取りの重い村崎に促されて建物側面の錆くれた外階段を上る。裏手に回る歩廊があり、その奥に玄関ドアがあった。
室内から滲み出る重くのしかかるような気配が肌を刺激する。真白が呼応するように一瞬だけ霊眼を開いた。俺には霊眼なんてものはないが、それでも分かる。こいつは危険だ。首からかけたカメラに思わず手が触れる。
村崎の僅かに震える指先がインターフォンのボタンを押した。間延びするような呼び出し音が霧に溶け込んでいく。
「――遥、勇貴。俺だ、村崎だ」
呼び掛けに応じる気配はない。もう一度押してみたが、やはり物音ひとつしない。村崎がドアノブに手を掛けゆっくりと回した。鍵はかかっていなかった。
村崎が俺たちを見やり、俺が真白と目を合わせる。そうして俺は村崎に頷きかけた。それが合図だった。
入るぞ、と村崎が声を掛けてドアを開けた。ひんやりとした真っ暗な室内を青白い月明かりが照らし、目の前の空間が居間になっている事がなんとなく分かる。外から見えていた明かりは、その奥の扉から漏れ出ている。微かにコーヒーの匂いがした。
村崎が居間の明かりをつけた瞬間、奥の部屋から男が勢いよく出てきた。怯えるように血走った目を見開き、右手に握られた包丁の刃先が俺たちに向かって鈍く光った。
「勇貴、村崎だ。落ち着け」
村崎が手振りを交えてなだめるように言った。男は俺と真白に向かって目を細め、怪訝な様子を見せたが、ようやく包丁を下ろした。人の良さそうな面影はあるが、充血した目には狂気じみた暗い光が宿る。こいつが相沢勇貴らしい。
「こんばんは。――その二人は」
相沢のぶっきらぼうな言い草に、他人に踏み込まれることを拒むような雰囲気を感じ取った。
「こいつらは俺の昔からの知り合いでな。……写真屋なんだ。二人の写真でも撮ったらどうかと思ってな、気分転換くらいにはなるだろう」
「はあ、まあ……どうぞ」
相沢は了解したようなしないような曖昧な返事をし、村崎さんが来た、と言いながら奥の部屋に行った。村崎が先に居間に上がり、俺たちはその後に続いた。さほど広くはないが、奥に進むにつれて重くなっていく空気に、真白は既に霊眼を開いている。
畳張の部屋の中にはローテーブルの前に空のカップを持つ長髪の女性が座っていた。その周りを囲うようにコーヒーミルやサイフォンといった道具、シンプルなカップにカトラリー類などが散乱している。まるで不思議の国のお茶会で不条理な目にあって絶望してしまった少女のようだ。――最愛の兄を亡くすという不条理に。
空っぽのカップの中に何かが入っているかのように見つめ続ける女性がふと村崎の方を見上げた。
白熱電球の褪せた橙色の明かりが隈だらけの目に影を落とす。
「村崎おじさん、こんばんは」
糸のようにか細い声音。血の気のない笑み。是田遥は明らかに衰弱していた。
相沢は俺たちに座るように促すと自分も遥の隣に座り、その小さな肩を抱くようにして俺たちが来た理由を説明してくれた。
「お兄ちゃんが……まだ帰ってこないの。おじさん、三人で撮ってほしいな」
遥はそう不満気に呟いた。成人するくらいの歳の筈だが、妙に幼さが残る話し方だ。さぞかし晶の面倒見が良かった事だろう。しかし死んだはずの兄が"帰ってこない"と思い込んでいるという事は――。
その時、真白がこっそりと俺の足をつついた。どうやら当たりらしい。霊眼には視えている――遥の陰に潜む、人ならざる存在が。俺たちはそれらを“怪異”と呼んでいる。
真白が核心に迫るべく、アプローチをかける。
「お兄さんはいつ帰ってきますか?」
「わからない……です。でも帰ってくるって――」
遥が息を呑んだ。直後、電球が瞬くように明滅し、彼女の影が身を捩るようにうねった。怪異が霊眼を直視した影響だろう。
「ああ……これカラコンなの。驚かせてごめんなさい」
真白が愛想のいい笑顔で言った。カラーコンタクトくらいは20代半ばの若者なら特段珍しくもない。煙に巻くためのいつもの常套句だ。
村崎がこれ以上の追求を免れようと加勢する。
「話を戻そう。俺も三人揃って撮ってやりたいのはやまやまだが、晶が……帰ってきた時に二人の写真を見たら喜ぶんじゃないか?」
「おじさんがそう言うなら……いいよね勇貴?」
「そうだな。晶もきっと喜ぶさ。……すみませんが、お願いできますか」
そう言って俺を見た相沢の目は靄が掛かったように曇っていた。兄の死を受け止めきれず、いつか帰ってくると信じるしかない妹に対する悲哀を湛える目。だが僅かに揺らぐ瞳はそれとは異なる怯えにも似た感情を表しているように思える。こいつは何か隠している。――俺の勘がそう告げていた。
「じゃあお二人とも、もう少し寄ってくれますか」
真白が尤もらしくアシスタントのように振る舞う様子を尻目に、俺はファインダーを覗き込む。
二人の取り繕ったような、奇妙な微笑み。その仮面の下に隠れる真実。”リスク“など承知の上、俺はただ焼き付けるだけだ。
真白のハイ、チーズ、の掛け声に合わせて――シャッターを切った。
フラッシュが焚かれた一瞬だけ時が止まったような感覚がした。怪異が写り込んだ時にのみ起こる現象、いわゆる手応えってやつだ。
カメラの下部から機械音と共に写真が吐き出された。やはり何も起こらない、まだ欠けているものがある。
「遥?」
相沢が狼狽えている。遥がうずくまり、苦しんでいるように見えるからだ。このカメラ――影写し《かげうつし》を使う上でのリスク、制約を満たさないままでの使用は、怪異を刺激することとなり――暴走を招く。
突然、遥が目を剥いて絶叫し、身体が操り人形のようにそり返った。電球が狂ったように明滅し始める。
「お、おい!マズいだろ……遥!」
村崎が助けようとして飛び出すのを真白が咄嗟に止める。
「待って!近づいたらダメ」
「くそッ」
「なんだ、これ……遥!どうなって……」
相沢は腰を抜かしてへたり込み、逆立つ髪をうねらせ発狂する遥に視線を釘付けにされている。
遥のうねる髪の毛が伸びるように黒い霧状の何かが壁一面を覆った。カメラを握る手に力が入る。
「真白、あれが本体か?」
「違う。ただの影、現実に干渉しようとしてる」
その時、電球の明滅が止まり乾いた光が戻ってきた。遥の悲鳴も止まり、水を打ったように静かになった。
黒い霧状の怪異の影がスクリーンのように何かを映し出している。
小洒落たカフェの店内に三つの人影。楽し気に話す声――おそらく是田兄妹と相沢だ。にわかにコーヒーの香りが漂ってきた。
そのうちの影の一つが泥のように溶けてしまい、徐々に景色さえも溶けていって遥に吸い込まれるように収縮した。遥はそのまま気を失ってしまった。涙目の相沢が倒れ込む身体を受け止めた。
「遥、遥!――遥!」
コーヒーの香りが消え、電球のノイズ音が低く響く室内に相沢の悲痛な叫びだけが残された。




