金魚の友達
中学校の近くに、こじんまりとした二階建ての日本家屋があって、菜乃花は登下校の際、つい目を引き寄せられてしまう。その家は誰が住んでいるわけでもないのだろう、とても静かで、ただ朽ちてゆくに任せている。菜乃花の注意を引くのは、その家の玄関の近くにある小さな池だ。まだ水が張られていて、一匹の金魚が泳いでいるのが見える。最初は「まさか金魚を置いて行ったの?」と激情に駆られた。それも随分前のこと。いまだに生きている金魚を見ると、水槽の中では生命活動の循環が引き起こされ、あのような池でも金魚は生きていけるのだーーなんて自分に都合の良いように考えるようにならざるを得なかった。だが、それはやはりおかしいのでは、と思うにあたり、菜乃花は思い切って、不法侵入をしてみることにした。本当に思い切ったものだが。
中学生が帰る夕方を待ち、人気がなくなった道路を確認。とりあえずチャイムを押し(壊れているので鳴りはしない)、門を開けて敷地内に侵入。家の中に入るわけではないから、と自分に言い聞かせ、池に近づく。ほら、いたよ。いつも通り、赤い琉金が泳いでいる。握り拳ほどの立派な金魚で、しかも琉金となれば、普通の和金なんかに比べれば、かなり慎重に育てる必要があるのに、これは……。
「何してるの?」
菜乃花はバッと振り向いた。心臓が早鐘を打つ。血の気が引く。やばい。
そこにいたのは少年だった。小学校低学年くらいに見える。離れた目、丸く窄められた唇。頭は乱れており、どこかで遊んできた名残か。少年はすでに触れられる距離にいた。
菜乃花は幾分ホッとした。大人よりはまだマシだ。
「あ、ああ、その、ほら。ここに金魚がいるでしょ。それを見てるのよ」
少年は目をまんまるに見開いた。
「うわぁ。ほんとだね」
菜乃花は「もう行ってくれ」と念じつつ、一応相手はする。
「その金魚。ずっとここにいるの。可哀想だから、見にきたの」
少年は顎を上に上げて、ますます驚きの表情。
「わあああ、可哀想。お外に出してあげる?」
「そう、そうね。いつかは。保護してあげなくちゃ」
「ほごって?」
「守らなきゃってこと」
少年はブルンブルンと体を振り、ニコニコ笑っていた。正直気味が悪い。
「すごーーい。すごいすごい」
菜乃花はふと思う。この子は、こちらが金魚を見ているのを見つけて入ってきたのだろう。そうは思うのだが、言い知れない気味の悪さが肌をざわつかせる。例えば服装。ランドセルは背負っていない。というより、何も持っていない。こんな夕暮れ、親は何をしているのだ? 不用心すぎる。そして、この秋も深まる季節に、肌色の長袖一枚というのもおかしい。さらには、夕闇が迫る日本家屋を前にして、少年の目はチラチラと光るのだ。猫の目みたい、と思った一瞬後、この少年は猫だ、と思った。菜乃花は自分でもびっくりした。そんなことがあるわけ……。
少年は上半身をくねらせながら、こちらを舐めるように見つめている。
「お姉さん、ぼくもその金魚、お外に出してあげたぁい」
「嫌よ。あんたは消えなさい」
菜乃花は池の水を近くに置いてあったバケツで掬って少年にぶちまけた。迷いが確信に変わったのだ。
少年はギャアと悲鳴を上げ、そのまま身軽に背丈ほどもある塀を越えて消えていった。
「ほんと、今までどうやって生きてきたの?」
菜乃花は愛情を込めた仕草で金魚をバケツに移して、家に持って帰ることにした。家族とは一悶着あったが、無事、家で飼うことになった。名前は「りんご」にした。丸々と太ったフォルムが可愛らしいからだ。
菜乃花の大切な存在は、やっと手の届く場所にやってきた。
大きな水槽に手を置いて、りんごを眺める。りんごはゆったりと浮き沈みしている。
パクパクと口が動く。
菜乃花はあの少年のことを考えながら思う。
「りんごが人間になってくれたら、毎日楽しいだろうな」
「菜乃花、遅れるよ?」
母が台所から現れる。
「まーた、金魚見て」
「りんごっていうちゃんとした名前があるの!」
「はいはい」
母は呆れたように台所に戻っていく。菜乃花は黒いスクールバッグを背負い、玄関を出る。
いつものように歩く。あの日本家屋を颯爽と通り過ぎる。もう菜乃花を引き止めるものはない。
りんごが人間になったら毎日楽しいだろうけど、そうならないところがいいんだよね、金魚って、と思いながら歩く。




