10 宿屋
やはり予感は的中した。歴史教師は学園長に、そして学園長はお父様に報告したらしい。数日後、私は学園長室に呼び出された。そこには烈火のごとく怒り狂うお父様が待ち構えており、やがて妹まで呼ばれることになった。
メルバは私に同情するふりをしながらも、カンニングをしたのだと決めつける。もちろん 学園長や教師、お父様も、そう信じて疑わなかった。結果として、私は学園を退学になってしまう。 屋敷に戻ると、待っていたのはさらに厳しい仕打ちだった。
「おまえのような恥さらしは、カーク侯爵家から出て行け! 離れに住むことすら許さん。荷物をまとめる時間はくれてやる。今日中に出て行けよ! 二度と私の前に姿を見せるな!」
どこかでこうなることを覚悟していたはずなのに、実際に屋敷を追われると胸に堪えた。離れにある身の回りのものは持ち出してもいいと言われたので、慌てて荷物をまとめ動きやすいワンピースに着替える。
泣きたくないのに、やはりこの理不尽さに涙がこみ上げてしまう。 鏡を見ると目が真っ赤になっていた。
(こんな泣きはらした目をメルバやアメリに見られたくないわ)
思わず目もとを手で包み込むと、 魔獣に放ったほどではないが、 淡い光が部屋の中に満ちた。何事が起きたのかと再び鏡を見ると、目の赤みはすっかり消えていた。
(まさか、これも私の力なの? 本当に私は聖女様のような力が使えるの?)
考え込んでしまいそうになるけれど、慌てて首を振る。お父様からはすぐに出て行けと言われている。泣いている暇も、立ち尽くしている余裕も、もう私にはないのだ。
離れにある私の持ち物はそれほど多くない。 ドレス や ワンピース 、肌着などは、トランク 1つに収まった。お母様の形見の宝石はほとんどアメリのものになっていたが、ほんの少しだけ私に残された。それも忘れずに持っていく。
私が出て行くところを メルバ は楽しそうに見ていた。屋敷の門を後にすると、やわらかな午後の風が頬を撫でた。
(さよなら、カーク侯爵家……いい思い出なんかひとつもなかったわね)
胸の奥にかすかな痛みが走ったけれど、立ち止まってはいられない。感傷に浸る暇もなく、私はまず質屋へと足を向けた。
青い看板が揺れる質屋の扉を押すと、軽やかな鈴の音が響いた。店内はこぢんまりとしているけれど、棚には整然と品々が並び、陽の光が窓から差し込んで埃ひとつ見えない。磨かれた木の匂いに、ほのかにハーブの香りが混じっていた。
店主は落ち着いた笑顔で私の持ち物を丁寧に扱い、一つひとつを確かめる。ドレスの布地を撫でる手つきも慎重で、宝石を光にかざす仕草も熟練していた。
「このくらいの値が、妥当でしょうな」
机に並べられた硬貨は思ったよりも多く、少しだけ笑みが浮かぶ。私は深く頭を下げ、巾着に収めた。
次は、今日泊まれる場所を探さないといけない。宿は、大通りから一本入ったところにあった。白い壁に赤い屋根が印象的で、窓辺には小さな花の鉢が飾られている。扉を開けるとよく洗われたリネンの香りが漂い、気さくな女将さんが迎えてくれた。
「部屋はそれほど豪華じゃないけど、清潔さは保証するよ」
案内された部屋は二階の角部屋。木目の床はピカピカに磨かれていて、ベッドにはふかふかの布団が整えられていた。しっかりと鍵のかかる頑丈な扉と、ライティングデスクも備え付けられている。
膝から力が抜けるようにベッドへ腰を下ろすと、胸の奥にようやく安堵が広がった。巾着を枕の下に忍ばせ、深呼吸をひとつ。ほんの少し 横になろうとしただけなのに、辺りはすでに真っ暗になっていた。
「夕食の支度ができてるよ。食べるなら階下に降りてきておくれ」
扉をノックする女将さんの優しい声が聞こえた。 私は慌てて起き上がると食堂に向かう。メニューは黒パン、野菜と豆の煮込みスープ、ハーブソーセージと燻製肉の盛り合わせ。カーク侯爵家で食べていた食事の方がずっと豪華だったけれど、 ここで食べる食べ物は何て美味しいんだろう。 おかみさんが ニコニコ と話しかけてくれるのも嬉しい。
「口に合うかわからないけど、遠慮せずにたくさんお食べよ。何日か泊まるって言っていたけど、観光かい? それならいい場所を教えてあげるよ。最近は若い娘さんのひとり旅も流行ってるらしいね」
思いがけない言葉に、私は慌てて首を振った。
「いえ……観光じゃないんです。仕事先が見つかったら、その近くに部屋を借りようと思っていて。それまでの間、こちらに泊まらせていただけませんか?」
女将さんは一瞬驚いたように目を見開いたあと、大らかに笑った。
「だったら、ゆっくり探せばいいさ。実はね、私のお腹には赤ちゃんがいるんだ。これから大きくなってくると動きづらくなるだろうと思ってね。だから子どもが生まれるまでの間、ちょっと手伝ってくれる人を探していたんだよ。ここで手伝いながら仕事先を探したらどうだい?」
冷えていた心に、春の陽だまりが差し込むようだった。
「……はい、お願いします!」
。゜☆: *.☽ .* :☆゜
宿屋での仕事は思ったよりも忙しい。けれど、体を動かしていると余計なことを考えずに済むから、むしろ心地よい。
「はい、お待たせしました」
宿屋の食堂で――湯気の立つスープを笑顔でテーブルに置き、次の客の皿を片づける。床にこぼれたパン屑を見つければすぐに布巾で拭き、テーブルの水滴も丁寧に拭き取る。お客さんから「ありがとう」と言われるたび、嬉しくなった。
そんなある日のことだった。
「わぁっ――!」
甲高い声とともに、幼い男の子が床に倒れ込む。走り回っていた拍子に転んだらしく、小さな膝から血がにじんでいた。泣き出した子を見て、私は思わず駆け寄った。
「大丈夫? 痛いの、痛いの、飛んでいけ――」
そっと膝に手を当てて、優しく声をかけた。すると、私の手のひらから淡い光がこぼれ落ち、膝の傷口を包み込んだ。驚く間もなく、血は止まり、赤く擦りむけていた肌がなめらかに戻っていく。
「い、痛くない……!」
子どもはぱちぱちと瞬きをしてから、たちまち笑顔になった。周りの大人たちは一瞬呆然として、次の瞬間にはざわめきが広がった。
(い、いけない。魔法を使うつもりじゃなかったのに・・・・・・)




