6. 家庭にて
家の鍵を開けて私が玄関に入ると、いつも通りの喋り声が聞こえてきた。
「そうそう! だからあのスケジュール感がどうにかならないかなって思うよね。……うん、うん……え? そこまでしてくれたんだ、ありがとう! 助かるー! そういえば残りの進捗ってどうなってた? ああ……アレが残っていたか。じゃあ今週までにそれをやるでしょ? 上にはうまく言っとくからさ。私はこっちを今から……ってもう4時過ぎてるー!」
ダイニングに椅子だけオフィスチェアの状態で、お母さんがパソコンを見ながらスピーカーホンでずっと喋っている。そおっと近づくと「あ!」と私に気づき、ちょっと今は待ってと片手を上げて合図する。
私はリュックを自分の部屋に置いて手を洗いに行き、お母さんのところに行った。
「また喋ってたんだ」
「ち……違うわよ! これはれっきとしたコミュニケーションというもの。仕事をスムーズに進めるために私のようなチーフが! メンバーを取りまとめて……」
「もういいよ、自分語り。前も聞いた」
「え? そうだっけ? よく覚えてくれていたわ、我が娘」
お母さんとは小学校後半ぐらいからこんな感じで話している。毎朝のルーティンとしてリモートワークのお母さんを起こすのは私である。
パジャマのまま「奈々美ぃー。いってらっしゃーい」と言われ、帰ってきたらパソコンを前に誰かと喋っているか、ものすごい速さでタイピングしているか、ガックリとうなだれているかのいずれかである。
ガックリとうなだれている日に限って個人懇談などの保護者向けの手紙が渡されるので、お母さんは「え? 今なの?」とよく焦っている。大変そうだけど気づいたらお母さんはよく笑っている。私の普段の話が面白いらしい。
「お母さん、大ニュース。学校に蜂の巣できてた」
「え! それは怖すぎる。誰か取ってくれないの? 先生とか」
「いや先生は無理だって。業者さんが来るんだよ」
「いつ来るのよ」
「さぁ」
「――電話しようか? 学校に」
「いや大丈夫だし」
「それならいいんだけど」
「あとさ、鳥が窓によくぶつかってくるんだよね」
「は? 何で? 毎日?」
「毎日じゃないって。週に……1回ぐらいは」
「そこそこ多いじゃないの、電話しようか?」
「いや、いいって」
私は引っ込み思案なこともあり、今も学校では目立たない。でもお母さんの前では別。お母さんには何かニュースがあればすぐ喋ってしまう。
『そのぐらいでいいのよ。私はもっと大人しくてもっと話せなかったわよ? 大人になったら女性はお喋りになるんだから今ぐらいでちょうどいいのよ、奈々美は。けど何かあったら教えて。すぐ学校に電話する』
こう言っていたお母さんは正義感が強いというより、ただ誰かと電話で喋りたいだけのような気がするけど……お母さんがいてくれて良かったっていつも思っている。うちはそう、私とお母さんの2人家族。
「……で? 竹宮くん元気?」
「は?」
「イケメンの竹宮くんの面白い話、ないの?」
「ないってば」
「ふぅん……そうだ私の中学時代わねぇ」
「その話もういいって」
「ハハッ。そうよね……って喋っている場合じゃなかったー! そうだ奈々美……洗濯物がぁ……洗濯物がぁ……」
このようにお母さんはあわよくば洗濯物を取り込んでもらおうとする(または夕食の下ごしらえをしてもらおうとする)ので、そこは正直に言う。
「今から課題やるから! 残念でした」
「うぅっ……知ってた! 課題、頑張ってね」
竹宮くんがイケメンだということは保護者の間でも話題になっているみたい。お母さんはお喋りだから絶対言わないもの、竹宮くんのこと。
もちろん……松永先生のことだって秘密。
きっと笑われるか、心配されるか、何より……自分でもよく分かってないから。
※※※
(竹宮くん視点)
家の鍵を開けて玄関に入ると「あら、おかえり」と母さんの声がした。そのまま静かに2階へ上がり部屋をノックする音が聞こえてきた。
僕も2階に行って自分の部屋に行く。母さんが僕の部屋に来ることは滅多にない。何故なら――
「愛翔、おやつを持ってきたわ。食べられる?」
母さんは兄の部屋の前で何やら話をしている。しばらくするとため息が聞こえて1階に降りていく足音がした。
高校生の兄はすぐに登校拒否になり、部屋に引きこもるようになった。今は通信制の学校で自分のペースで勉強している。
それでも僕はほとんど兄の顔を見ることはない。たまに部屋から出てくるタイミングが同じ時であっても背を向けられる。
「うわ、塾の時間だ」
僕は僕で毎日塾に行かないといけない。父さんと母さんはこう言っていた。
『晴翔は優秀だな』
『そうね、愛翔よりしっかりしているから助かるわ』
『志望校はあの高校で決まりだな』
『晴翔は英語の検定試験だってあそこまでの級を合格したわ。本当にあの子は安心。それよりも愛翔をどうにかしないと……カウンセラーの先生は……』
『ああ、そのあたりは任せるよ』
『そう……』
その会話には、僕の返事は必要ないらしい。
父さんは小さい頃から僕を連れて様々な場所に連れて行ってくれた。自然公園の緑に触れ、一緒に釣りをしたりボランティアのイベントに参加して僕のために頑張っているように見えた。前は兄も来ていたけれど、いつの間にか父さんのお気に入りは僕となった。
だから父さんが僕に期待をしているのがひしひしと伝わってくる。父さんの言うことは絶対なのだ。母さんが時々父さんの顔色を伺っているのは目に見えて分かる。
あの英語の検定試験も……受験を有利に進めるには必要だと分かった時には母さんは必死で父さんに説得していた。
おかげでここまで来ることができたけれど……母さんは父さんにも兄にも“気を遣っていて”大変そうだ。だから僕だけはせめて、母さんに心配をかけないようにしたい。
「行ってきます」
僕は送迎バスに乗って塾へ向かう。この塾だって“優秀”な人しか入ることのできない特別な場所。
親には感謝している。
ここまでしてくれて。
なのに……あの肝試しで梅野さんと副担の松永を見てから、モヤモヤしたものが僕の心の中にある。
松永に励まされた梅野さん。
僕も彼女のように、誰かに励まされたいのだろうか。どこか松永を頼りにしているようにも見える彼女。
あんなに怖い松永だから肝試しの時だって、梅野さんは松永に“気を遣っている”んじゃないかって思っていた。彼女はどこか母さんと似ているような気がする。
だからあの時、松永に何か言われていないか……気になって仕方がなかった。つい走り出してしまった。
待て、いや、そんなことは。普段から彼女だけは他の女子とは違って大人しそうだし周りに“気を遣ってそう”だから……あの怖い顔をした松永に怒られていないかなって思ってただけなんだ。考えすぎだ。
でももっと頼ってくれていいのに……だなんて思うのはどうしてだろう。ノートは見せたこと、あるんだけど。
バスが塾に到着し、いつも通り僕はSSクラスに行く。同じような表情で全員が一斉に小テストを受ける。
これでいいんだ。僕はこのまま何も気にせずに父さんと母さんの言うことを信じて進めばいい。
でも……もう少ししたら身体にひびが入るんじゃないかと思うぐらい、急に不安が襲う。自分でも気づかないうちに深く、音もなく。
大丈夫……僕は、大丈夫なのだから。
そう思い、僕は黒板に無機質に並ぶ文字列をノートに書き写していた。