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38. 卒業式

 (奈々美の朝)

 この制服を着てクラスで集まるのも今日が最後。お母さんは紺色のパンツスーツを着て小さな黒いバッグにハンカチを入れながら、「今、何時?」と言っている。


 お母さんはこういう時だけは、私よりもかなり早く起きて準備をしている。スーツ姿のお母さんは何回か見たことがあるけれど、背筋もしゃんとしていて私がなりたい女性そのもの。


 

 小さい時から――今でもずっとお母さんに憧れている。


 

 そういう顔をしているとお母さんは調子に乗るので、何も気にしていない顔をして、私は朝食のトーストをかじっている。


 

「奈々美……泣かないようにね」

「わからないよ、泣くかも……」


 

 お母さんが制服の襟を整えてくれて、髪をといてくれるのが優しくて私はもう少し家にいたいかもなんて思ってしまったけれど、もう出発の時間だ。


 

「保護者の集合時間はっと……まだ余裕あるわね。あとから行くわ。奈々美、気をつけて」

「うん、行ってきます」



 ※※※



 (竹宮くんの朝)

 いつもより静かな朝。

 母さんが身支度をしながら僕の方に来る。


晴翔(はると)、ここまで頑張ったわね」

「母さん……」


 今日、僕だけに向けてくれたその目に少し戸惑いを覚える。兄さんを気にかけていることが多かった母さんだけど、いつのまにか僕にも同じように笑顔を向けてくれることが増えた。


 

 嬉しいけれど……こういうのって照れくさい。


 

 そういう顔をしていると母さんはまたこっちに来て何か喋りそうなので、何も気にしていない顔をして味噌汁を口にする。


晴翔(はると)


 この声は父さんだ。

 すでにスーツに身を包み、母さんの隣にいる。


 

「立派に生きるんだ、晴翔(はると)


 

「はい、父さん」



 “立派に”というその言葉。少し前なら重圧にしかならなかったのに、今では僕のことを受け入れて、認められたように感じる。

 

 そして父さんの背中を追って……いや、そこまではまだいいか。だけど少しでもこう思えたことが、僕の心をじんわりと温めていく。


 2階からトン……トンという足音も聞こえてきた。

 兄さんだ。こんなに朝早くに来てくれたんだ。

 


晴翔(はると)……おめでとう」



「兄さん……ありがとう」



 ボサボサだった髪は少しだけ整っている。兄さんもこの4月から、デザイン系の専門学校に通う。2人で新しい環境に身を置くことになるんだ。



「じゃあ……行ってきます」

 僕は3人に見送られ、家を出発した。



 ※※※



 (奈々美視点)

 今日という日は、教室も廊下もいつもと同じはずなのにどこか違って見える。

 教室に入ると、女子達は鏡を見たり、男子はふざけた顔で「泣くなよー」なんて言っている。だけど、みんなどこか落ち着かない顔をしていた。

 

「奈々美ー!」と言いながら来てくれるすみれちゃんや、女子達と喋っていたら担任の藤井先生が教室に入ってくる。


 各自、胸に赤い花を付けて廊下に整列する。

 はぁ……緊張してきた。

 前を向かないといけないのに私はどこか落ち着かず、さっき出てきた教室や窓の外を見ている。


 

 ふと、そこにいる――竹宮くんと目が合う。

 彼も緊張してそうだったけれど、お互いそうだと気づいて徐々にほどけていく気持ち。


 

 今日もそうだった。

 彼がいると分かっただけで、固まったものが溶けていくような、優しくて心地よい何か。


 

 竹宮くんがさりげなく微笑んでくれたので、私も同じように彼を見つめていた。

 そしてまっすぐ前を向いて体育館へ向かってゆく。



「卒業生が入場します」


 体育館に入り、厳かな雰囲気の中で卒業式が始まった。

 保護者席や先生たちの席、来賓席にも人がいて、やっぱり大人の多い場所、独特の雰囲気がある。


 

 先生たちの席でひときわ目立つ姿は――松永先生だ。


 

 黒いスーツに純白のネクタイを結び、式場の光を受けて一段と引き立つその姿。堂々とした風格と静かな迫力を併せ持つ大人の男性。まるで映画のワンシーンから抜け出した紳士のようだった。


 

 ちょっと離れたすみれちゃんの方を見ると案の定、松永先生しか見ていない。そして私の方を見て“あとで絶対喋りに行く、奈々美も来るのよ”と目で合図しているようだった。



 滞りなく式は進行していき、卒業生の合唱の時だった。もともとこの歌は、泣きそうになることで有名な卒業式の定番曲であることはわかっていた。だからこそ練習では何とも思わずに歌えていたのかもしれない。


 

 でも今日、実際に歌い出すとどこかで鼻をすする音が聞こえ、どこかで終わりを告げるように風向きが変わり、私は気づけば目元がびしょびしょになっていた。


 

 ちゃんと声が出ていない……特に女子のソプラノ、アルトはギリギリで耐えながら声を絞り出していた。それでもこの三部合唱は保護者をはじめ、先生たちや在校生たちには響いたのだろうか。拍手が鳴り止まずその間、私たちは涙を抑えるのに必死だった。



 ※※※



 無事に式典が終わり、教室に戻って藤井先生から卒業証書を渡される。その時も「先生ぇ……!」と言いながら泣いている人達が多かった。

 そこから黒板の前に全員で並び、ノート型の卒業証書を見せながら、さっきまで泣いていたのが嘘だったかのように精一杯の笑顔を見せて集合写真を撮った。


 花道を作るまでに少し時間があるそうで教室内は自由時間となった。

 女子達みんなで集まって「うわぁぁぁー寂しいよぉ」と言いながらまだ泣いている。


「はぁ……こんなに泣くとは思ってなかったわ」

 すみれちゃんもハンカチで涙をおさえながら呟く。

「本当に寂しいよ……」

「奈々美、大丈夫。また春休み会おうよ」

「うん……会う」


「でさ、見た? 松永のアレ」

 松永先生のアレ……大きな身体にビシッと決まるスーツ姿。白く輝くネクタイ。本当にびっくりした。

 先生がいるだけでその場の空気が引き締まる。その魅力に圧倒された女子、ほぼ全員。


「渋い、カッコ良すぎる」

「え、ちょっと今日で会えないとか寂しい」

「あとで写真撮ってもらうよね?」


 みんなで早く松永先生に会いたくなってしまう。

 だけど一方でこんな声も聞こえる。


「誰か、竹宮くんに告白するのかな」


 みんなが気にすることその2。竹宮くんの件である。

 すみれちゃんは前に告白してうまくいかなかったけど、もうそこまで気にしていないみたい。


「他のクラスの女子とか」

「え? 誰?」

「わかんない」


 女子達でコソコソと話すこの時間が好きだった。

 だけど私は――竹宮くんに誰かが告白するかも、と聞くと胸の奥がチクリと痛む。

 卒業式だから告白がうまくいかなくても次に切り替えられる。だけどうまくいけばそのまま……。


「奈々美? 大丈夫?」

 すみれちゃんに気づかれそうだ。


「あ……うん。大丈夫。そろそろ準備しないといけないかな」

 そう言いながら準備をしに私は席に戻った。これ以上は竹宮くんの話が聞けない。


 

 私は竹宮くんのことがこんなにも……。


 

 そして先生に呼ばれ、みんなで教室を出る。お母さん達や先生、在校生達が待っている花道へ――。


 

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