1:あの喫茶店で待ってるから
『今日、あの喫茶店で待ってるから』
僕は今、走っている。急がなければならないから。大通りに面した歩道。通り過ぎる人々が焦る僕に刺す視線が痛い。恥ずかしい。けど、走らなければならない。身長が伸びて最近やっと新調した制服が身体に擦れているのを確かに感じる。視界に写ったカバンには、僕が通っている高校の名前がプリントされている。僕はそれをプリントの部分が身体の方へ向くように持ち替えた。やっと見えてきた、あの角。右に曲がればもうすぐ。僕はぐっと左足に力を入れて地面を蹴った。人の波から外れた路地でひっそりと佇む喫茶店。僕の目的地だ。
銀色に光るドアノブをガっと掴んで疲れきった身体を前にやると、カランカランと心地のいい音がした。
「おぉ、タケル。来てるぞ」
マスターがコップを拭きながら1つの席を顎で指した。肩で息をしつつその先を見ると、確かに彼女は来ていた。放課後も早い時間だったからか、お客さんは僕と彼女だけだ。
「はぁっ…はぁ…」
「お疲れ様」
「ちょ、ミウ…ほんといつも何で…」
「だって面白いんだもん」
彼女の前と、僕のものになるであろう向かいの席には、クリームソーダが置かれていた。が、上に乗っているバニラアイスはドロドロに溶けて、淡く黄緑色になった液体がコップの縁をたどっていた。結構前に注文してるな、これは。
「だからさぁ…僕が来てから頼めばいいじゃん」
「タケルが早く来てくれればいいだけでしょ〜」
「ミウが連絡くれた頃にはまだ学校に居たんだぞ!事前に言ってくれれば僕ももっと急いで出るのに、なんでいつも急なんだよ。ってか一緒に帰ってくれればよくない?」
「だってこっちの方が面白いから」
ミウとは高校に入学して以来、2年の付き合いになる。1年で出会った頃はまだ、"隣の席の人"だった。当初、彼女と仲良くなるつもりはなかった。しかし、いつかの授業で先生が話していたテスト範囲を僕が聞きそびれてしまって、隣で真剣そうにメモを取っていた彼女なら知ってるだろうと踏み、教えてもらおうと連絡先を聞いた。それ以来、少しずつ"メッセージをやり取りする仲"になり、気づけば"好きな人"になっていた。彼女は少し不思議で、悪い人ではないけど何を考えているかよくわからない。いつこんな流れができたのかよく覚えていないけど、『この喫茶店で待ち合わせの連絡』が届いたらクリームソーダRTAが始まるという習わしができてしまった。
「全く…。マスターだって嫌ですよね!?自分が作ったクリームソーダ、美味しい状態で食べて欲しいって思いません!?」
「いや?俺はミウちゃんが食べてくれるならなんでもいいよ♡」
「何なんだよ、こいつ」
「おい、大人に向かってこいつってなんだ!この、汗だくへなちょこ!」
「は!?黙れよ、この髭ヅラ!」
「素敵なおヒゲを蓄えたダンディなマスターってお呼びっ!このクソガキ!」
この喫茶店とも入学当初からの付き合いで、マスターとはすっかり"そういう仲"になった。表情だけでマスターを睨みつつ、視線の隅で彼女を捉えた。僕らの会話を邪魔しないように堪えながら笑う顔が素敵だ。
「ふふふ。ねぇ、早く食べないと溶けちゃうよ?」
「もう溶けてるよ」
「そうだそうだ!早く食え、ばぁーか!」
「もう、喋んなよ!あんたは!」
マスターに一言据えたあと、僕はやっと彼女の向かいに座った。手元に添えてあるスプーンとストローに目をやる。クリームソーダは来た時よりもっとドロドロに溶けていて、随分前からスプーンはその役割をなくしてしまっていたんだと気づいた。ストローを手に取って液体に刺す。その分でまた体積が増えて液体が少し入れ物の外へ溢れた。ふと彼女がいる正面に視線を移してみる。彼女の方は気にしていない様子で肩ほどまで伸びた黒髪を右側だけ耳にかけ、同じく溶けてしまったクリームソーダを飲んでいる。その仕草がどうにも心に刺さって、僕という入れ物から気持ちが溢れていくのを確かに感じた。彼女に僕の心は見えていないとわかっていながら、なんとなく恥ずかしくなった。この恋心から意識を逸らそうと思って、彼女に気になっていたことを聞いてみることにした。
「あのさ」
「ん?」
「時々、あるじゃん?こういうこと」
「うん、あるね。毎日やってほしい?」
「いや、そうじゃないけど。なんでかなって」
「だって、タケルがおかしいんだもん」
「おかしい?僕が?」
「うん。いつも私からここで待ってるって聞いた時、まだ学校か学校の近くにいるんでしょ?」
「うん。そうだね」
「たぶんここまで7キロぐらいあるし、すっごく頑張って走っても40分くらいはかかるよね?」
「まぁ、いつもそれぐらいかかるかなぁ」
「どれだけ頑張ってもクリームソーダは溶けちゃうのに、毎回息切らして来るからおかしいなって」
「あぁ…」
なんで言われるまで気づかなかったんだろう。確かに、僕がどう頑張っても彼女が僕が着くより早く注文してしまう限りは同じ結末を辿ってしまう。いや、本当は気づいている。僕がどれだけ急いでもこうなることは、本当はどこかで気づいていたはずだった。ただ、彼女に会いたいからなのか、彼女を待たせるのが嫌なのか、はたまた彼女と2人で美味しいクリームソーダを食べたいからなのか―わからないけれど、いつも、僕はできるだけ早くここに来たいと思う。いつも、そう思う。
「絶対溶けちゃうんだからゆっくり来ればいいのに、おもしろいなって」
「僕も着いてから一緒に頼んだらいいのにそうしてくれないからだろ?待たせるの、なんか嫌だし」
「そういうところが、好き」
「え?」
「好き」
「それって…」
「タケルのことが好きってこと」
彼女の言葉が僕の心を刺す。期待する心がとめどなく溢れて言葉になる。
「それって…その…付き合うとか…そういう"好き"?」
「そうね。タケルがいいなら」
「お願いします!」
嬉しさのあまり、両手をテーブルについてガっと椅子を引いて立ち上がる。その時、勢い余って彼女のコップが倒れてしまった。
「わっ…」
「あっ、ごめん!」
「あーあー、ミウちゃん大丈夫?今タオル持ってくっから!」
マスターがカウンターの奥へ行く時、こちらを向いて両手でこっそりハートマークを作って口パク「"やってんじゃ〜ん」と言ってきた。あの人を信頼しているから、この冷やかしは嫌がらせではなく、あの人なりにおめでとうの意味なんだろうとわかっている。が、それを差し引いても余るぐらいにはやかましいツラだった。
僕の、淡い恋の思い出だ。