にゅういん前のこと
小学校では冬場に「朝のマラソン」という嫌いな日課がありました。高学年は外トラックを6周、低学年は内トラックを逆回りに7周。それで1km に換算。
マラソン大会が月に1回ありました。4年生までは1km 、5年生から2km 。
後ろから数えた方が早かったですね。ベベタ(最下位のこと)もありましたし、着順カードは後方の桃色のもの。1度だけ一つ上の草色を貰いました(後で回収されるのですが)。
5、6年の時は男女合同でタイム測定があり。着順は常に3桁でしたが、一度だけ2桁になれました。
更に6年生の時には「マラソン表」という1km毎に1個シールを貼るという嫌なものがありました。勉強していて夜更かしした朝とかクラスメイトに誘われたりした朝にマラソンコースを走っていました。
「この「朝のマラソン」も卒業してから振り返ればいい思い出になりますよ」
そんなことはない。もちろん嫌な思い出です。「朝の乾布摩擦」ならどれだけ良かったことでしょう。喘息で療養時に朝晩の乾布摩擦が日課でしたからそちらの方が健康にいいに決まっている。ちなみに、束子で擦っておりました。
肥満児童を対象にした「リズム体操」というものもありました。他は自由参加でしたので私はこれが好きで参加しておりました。2~6年生の間はなく、卒業後に復活したとか? PTA からの圧力?
*
雨の日が好きでした。朝のマラソンはもちろんのこと、体育館がないので体育もなし、阪神が負けない。
溶連菌が検出された時も1、2週間マラソンも体育も休めたでしょうか? それも嬉しかった。
*
体育の成績はC かB だったな。一度だけ算数でB を付けられたことがありました。母が担任に訊いたところ、「今のままでは中高生あたりでその成績になるから。その枠を頑張ってる児童に付けた」とのこと。
アホたれが。私は学生アルバイトや社会人の時にスポーツインストラクターとして競泳を教えていたんだよ。その理屈なら体育でA を付けないとおかしいじゃないか? お前は間違っている。体育を頑張っていないとでも思っていたのか? お前の目は節穴だ。
なお数学は高校でも理系に進み、学生の時も最後まで数学関連単位を取得していました。
*
体育って低学年からドッジボールか。運動の苦手な児童を的にしてボールをぶつける球技。今なら左右どちらの手でも投げられるのですが、当時は左利きを矯正された不器用な子でしたので何をしても不器用でしたね。
社会人になった頃にはそのドッジボール批判のおかげでカバディに取って代わられたのでしょうか? 新規採用訓練のレクリエーションでそれを提案しましたが、私の投じた1票のみでした。
*
2年生になっても泳げませんでした。ヘルパーを両腕に付けて年下の子に交じって習っておりました。3ヶ月ぐらい端っこのコースにいたでしょうか? 頭を全部水の中に浸けて浮かぶようになりました。
そこからは次の級、またその次の級へと1ヵ月毎の進級テストをどれも合格し、隣へ、隣へと移って行きました。目標は一番向こうのコースです。秋の遠足でお地蔵さまに「進級テストに合格しますように」とお願いしたこともありました。
平泳ぎも、ひっくりカエルから、コンビネーションの平泳ぎ。そこからは2ヶ月毎に合格したでしょうか? 念願の一番端まで到達しました。
目が痛いと言って、水中メガネをねだったのですが、買って貰えませんでした。また例によって下の弟の時はもっと下の段階で買って貰えてる。前にも書きましたが、必ず後の作中で叩き斬ります。
*
4年生でポートボール、5年生からバスケットボールとサッカー。人の動きを読むのが得意だった私は防御し、パスを奪うのが得意でした。
*
6年生の運動会の練習で組体操のピラミッドをしている最中に喘息の発作が出ました。5段ピラミッドから、2段ピラミッドの上へと役割変更されました。
*
中学1年生になって喘息が悪化し、学校に行けない日が続きました。
父は「学校に行かないからファミリーコンピュータ禁止」とか言い出しました。連載作中で蒸発し、離婚しているわけですが、現実では認知症ですが生存しております。そもそも喘息の原因は心理的虐待だったんじゃないの?
住宅地から学校近くの医院まで歩いて20分はかかったのですが、そこでは色々と薬を頂きました。
粉薬を正しく飲むことが出来ませんでした。父が嘘の飲み方を教えたせいです。
その医院で療養を勧められ、療養生活に入りました。
これは例の外伝ではなく、連載エッセイです。
スイミングスクールのプールは短水(25メートルプール)。私が通っていた時間帯はそれを横向きにコースロープで区切られていました。つまり、端から端まで25メートルの大移動ですね。
当時のバス運賃は80円で、小人は40円でした。
バスに乗ってから歩いて帰っていました。冬だともう暗い時間帯でしたよ。
この医院の院長と隣合った市の総合病院々長が兄弟で、私が高校で地理を教わった教師と相撲部で一緒だった友人だそうです。