05 エリス、ナンパされる
クィントス・S・ビスマルクが、群狼傭兵団の団長、つまりエリスに声をかけてきたのは、東方の東端にあるバダイの街だった。
バダイは東方国境線から内陸部に50キロほど入ったところにある帝国領の街だ。
北東と南東に向かって別れる大きな川の根本にある街で、東方で傭兵稼業をする者達の拠点になっているため、地図によってはバダイ砦と表記されている街だ。
歩兵が主である東方では距離的にかなり離れた位置にあると思えるかもしれないが、街を挟む北東と南東に下る川を利用して一気に国境線まで行くことができるのが、この都市の最大の利点である。
エリスが男に声をかけられたのは、そのバダイの街では主産業の一つである酒場で一人、飲んでいた時のことだった。
本来ならあまり酒を嗜むことはないのだが、この時は団の運営が行き詰まっていたこともあって、気を紛らわせるために軽く一杯やっていたのだ。
最初はナンパかと思った。
帯剣をしていても、エリスの容姿は『そういう厄介事』をよく招く。気の強そうな外見も東方の男たちの好みに合っている、というのもそれを助長していた。
おまけに、
「群狼傭兵団の団長エリス?」
軽い声色は明らかに軽佻浮薄なナンパ男のそれだった。
別に硬派な男がエリスの好みなわけではないが、それ以前にそんな気分でも、そんな安い女でもない。
だが、その男の言った言葉自体は、自分の名前をピンポイントで指し示していたことに警戒感を取り戻す。
「さて? どうかしらね」
エリスは曖昧な答えで、そっと下半身にいつでも動けるように力をこめる。
まだ飲み始めだったのでそれほど体の感覚は鈍っていないことも確認する。
男はエリスの警戒心に気にした風もなく、エリスの飲んでいたテーブルの真向かいに無遠慮に腰を降ろした。
エリスはジロリと睨んだが、男はやはり気にした様子もなく、それどころかニコっとした笑みを返してきた。
なるほどそれは魅力的な笑顔だと言えなくもないが、時と場合を選ばないほどではなかった。
「あなた何者?」
エリスは男を改めて観察した。
白い短髪は巻き立つ濃霧のようだ。身長はエリスより高いが、東方人としては平均的。しかし体格はがっしりとしてる。だが、凄腕の戦士という所作は先ほどまでの立ち振舞では見られなかった。かといって魔術師の『感じ』もしない。
顔立ちは彫りが深く、モミアゲと顎髭をつなげ、口ひげも生やしているが、少し緩い目元と、どこか無邪気さや育ちの良さも感じられて、ワイルドというよりやんちゃ小僧という雰囲気。そのためいまいち年齢が分からない。十代でないことは確かだが、エリスと同年代なのか、それよりももっと上なのか。
服装はシンプルな白のシャツと薄焼け色のパンツ。所々を革で補強している作業着のような服ではあるが、使ってある生地や革の加工具合を見るとかなり上等なのがわかった。
「貴族の放蕩息子ってところ?」
その言葉に男は考え込む。
「うーん、半分正解かな?」
「じゃあ、商人の放蕩息子ね」
「半分はそこじゃないぜ。放蕩かどうかなんて主観の問題だから」
男は少し傷ついた表情を見せてから、気を取り直したように、投げやりに、
「そう思った理由は?」
尋ねてきたので、エリスは面倒くさそうに、グラスを持っていたのとは反対の指を折って理由を並べ始めた。
「衣服の値段。歩き方。すかしたアクセント。高ければ良いだろうっていう臭い香水。付ける場所がおかしい高いブローチ。二十年も前に中央社交界で流行った古臭い髪型。人を小馬鹿にしてるけど本人が馬鹿面のニヤけ面。ワイルド演出してみた髭面が逆に粋がってるだけのド田舎貴族のダサさを爆発させてる」
指の数より多い指摘に男は耐えきれなくなって悲鳴を上げた。
「多いよ!? 悪口じゃん! おまけに放蕩かどうか関係ないじゃんかよ!?」
「あと、いい年してるみたいなのに、口調が十代前半の悪ガキ風なのがバカっぽい。それをかっこいいと思ってやっているのがまた輪にかけて阿呆っぽい」
「勘弁してくれ!!」
男の悲鳴にエリスはようやく溜飲を下げたのか。今度はグラスを持った方の手の、人差し指だけを広げて男の後ろを指差した。
「後ろのテーブルに座ってる夫婦」
後ろを指した指が今度はクルリ横を指差す。
「壁にもたれて立ち飲みを装っている戦士」
指をグラスに戻して、そのままグラスを口に運ぶ、前に、
「私の後ろ、店の扉の前にいる冒険者風の男は斥候武官で四人目。全員君の護衛でしょう?」
エリスの指摘に男は「げっ」とうめき声を上げた。どうやら正解だったようで、まさかばれているとは思ってもいなかったのだろう。エリスとしては日常的な心構えであって、自慢するほどでもない。がしてやったりという気持ちを押さえて、すまし顔でグラスを口に運んだ。
「さすが」
男の素直に賞賛した声に少し浮き立った。が、そのエリスも男の次の言葉にはいよいよ警戒心をフルに発揮しなければいけなかった。男の声がなにか一段低くなって聞こえたと思ったのは、もしかしたらエリスが緊張したのが原因かもしれない。
「……さすが、元A級冒険者パーティのメンバー、いや帝都盗賊ギルドにいた頃に培った観察眼かな?」
エリスは口に運んだグラスをそのままにして、顔色を隠すと男を観察した。
「名前、なんだっけ?」
「クィントス」
「下は?」
「ビスマルク」
エリスの目が大きく見開く。動きが更に固まる。
クィントス・ビスマルクと名乗った男はテーブルに乗り出し握手を求めたが、エリスは無視する。
ビスマルク。
それはこの東方では最も勇名な家名。いやもしかしたら皇帝という地位を除けば、帝国全体でもそうかもしれない。
「どこのビスマルク?」
ビスマルク公爵家と言っても、本家から分家までその名を冠する家は多い。
「『あの』ビスマルクだよ。『四天のビスマルク』の長男」
一番でかいところが来た。
「ふぅん」
エリスはなんとか表情を変えずに、グラスをテーブルに置く。
大丈夫。その手は震えていなかった。
普通に考えれば、これは詐欺の類だ。
街の安酒場で酔っている女に声をかけてきたのが、この東方最大の貴族、その嫡子だと言われて誰が信じるのか。
だが、クィントスと名乗った男は、エリスの過去を知っていた。
元A級冒険者であることを知っているのは不思議ではない。傭兵団の宣伝のためにもそう公言していたからだ。だが、元帝都の盗賊だったことを知る者は殆どいない。それこそ知っているのは、東方にはいない元パーティメンバーくらいのものだ。もしくは帝都盗賊ギルドの古株連中。
ならば、次に考えるのは帝都ギルドの追手である可能性だ。
しかしそれもどうだろう。別に足抜けする際に逃亡したわけではない。『一応』仁義は通しているはずである。だが、それもやはり『一応』に過ぎない。恨みを買わなかったというほど穏やかな青春時代であったわけでもない。これまでも用心はしてきた。
しかしそれとは関係がない、気がしていた。
周りを囲む護衛人を見れば、それを裏付けていた。
明らかに軍人出身だからだ。もちろん軍出身の盗賊ギルド暗殺者もいるだろうが。盗賊にしては軍人としての純度が高すぎる。
そもそも暗殺するならおかしなアプローチだ。このまま暗がりにでも誘導するつもりだろうか。それなら声をかけずにブスリとやればいい。
こちらがそれに気が付かないかどうかは別にして、こんな変な接触をする必要がない。
どちらにせよ碌な用件ではないだろう。それは別にいい。エリスだって盗賊に冒険者、傭兵なんて言う碌でもない商売に身をやつしてきた人間だ。だが、碌でもなさも程度は必要だ。それを弁えていたからこそエリスは今日までなんとか生きてこられた。
とは言えその選択肢も今現在の状況としては種類が芳しくはない。
もしくは、他人の『碌でもない事情』に関わり合っている暇もない。
「で、『あの』ビスマルク家のお坊ちゃんが何の用? ナンパの類なら他を当たって」
意識的に硬質と拒絶の色を持たせた声を発する。
クィントスはそれに気づいた様子も見せずに、ニヤリと笑った。
「仕事の依頼だよ。それともナンパしてからのほうが良かった?」
「悪いんだけど、それも他を当たっていただけるお坊ちゃま。今別件で忙しいの」
「別件って、ただの金策だろ? よくもまぁその若さでこれだけの借金をこさえたもんだ」
「あなたには……」
「エリィース!」
『関係がない』と言おうとした言葉は、酒場中に響き渡る声で遮られた。